第109話 ー『受け継がれた問題』
第109話 ー『受け継がれた問題』
2026年7月11日(土)——午前8時0分。
大阪·中之島——プロジェクト会議室。
中之島の土曜日の朝は、いつもより冷たく感じられた。空は曇り、風は昨日より強く吹き、遠くから川と湿った土の香りを運んでいる。会議室の中の雰囲気は緊張していた。二日前の、皆がまだ楽観的だった時とは違う。
樹は同じ席に座っていたが、その表情はより真剣だった。目の前で、冴は昨夜受け取ったばかりの書類が入ったタブレットを開いている。レイナは警戒した表情で向かいに座っている。志織は部屋の隅で記録の準備をしている。そしてプロジェクターの画面では、彩芽が東京からビデオ会議で参加しており、その鋭いプロフェッショナルな表情は何に対しても準備万端だ。
冴が慎重な口調で話し始めた。「……如月さん、この物件に関連する全ての書類を確認しました。そして……解決すべき問題がいくつかあります。」
樹は頷いた。驚いた様子はない。「……聞かせてください。」
冴が最初の書類を画面に表示した。「……第一に、建材サプライヤーとの古い契約があります。前の所有者には彼らに対する約一億五千万円の未払い債務があります。この債務は未払いのままで、サプライヤーは解決されなければ法的措置を取ると脅しています。」
樹は注意深く聞いていた。「……もし支払わなければどうなりますか?」
彩芽が画面からプロフェッショナルな声で答えた。「……法的には、その債務は前の所有者ではなく物件に付随しています。ですから、もし解決しなければ、サプライヤーはこの物件に対して請求を行うことができます。」
樹は頷いた。慌てていない。「……支払うべき債務の総額は?」
冴が書類を確認した。「……特定された債務の総額は約二億三千万円です。建材サプライヤーへの債務、前の改修業者への債務、そして未払いの公共料金が含まれます。」
レイナが眉をひそめた。「……これは予想外の追加コストです。」
樹は小さく微笑んだ。落ち着いて、動じない笑顔だ。「……でも予算内です。全て支払ってください。」
冴が瞬いた。「……如月さん、前の所有者の債務を全て支払うおつもりですか?」
樹は頷いた。「……ええ。問題を引きずったままプロジェクトを始めたくありません。全て支払い、サプライヤーとの契約を完了させてください。」
彩芽が画面から頷いた。「……それは賢明な判断です。債務を解決すれば、後々の法的問題を回避できます。」
今まで沈黙していた怜香が、慎重な口調で話し始めた。「……如月さん、大抵の投資家は値下げ交渉をしようとするか、前の所有者に責任を転嫁しようとします。」
樹は正直な目で怜香を見た。「……小さな交渉に時間を浪費したくありません。できるだけ早く改修を始めたいのです。この債務を支払うことでプロセスを加速できるなら、それが一番です。」
怜香は答えなかった。ただ樹を見つめ、その目に何かがあった。過剰な感嘆ではないが、新たな敬意だ。
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午前10時0分——会議室·第二の問題。
冴が次の書類に進んだ。「……第二の問題は、二年前にこの物件で作業した業者からの法的請求です。彼らは、既に完了した作業に対して前の所有者が八千万円を支払わなかったと主張しています。」
樹は眉をひそめた。「……その作業は完了していたのですか?」
冴が書類を確認した。「……報告書によれば、作業は九〇パーセント完了しています。しかし、前の所有者は不明な理由で支払いを停止しました。」
彩芽が画面から付け加えた。「……これはより複雑な問題になる可能性があります。その業者は物件の売却を阻止する訴訟を起こすことができます。」
樹はしばらく考えた。「……交渉で解決できますか?」
彩芽は頷いた。「……可能です。ただし、業者に連絡を取り、彼らの主張を聞く必要があります。」
樹は怜香の方を見た。「……怜香さん、この業者をご存知ですか?」
怜香は頷いた。「……その会社は知っています。かなりプロフェッショナルな業者です。連絡を取り、面会を設定できます。」
樹は微笑んだ。「……お願いします。」
レイナがプロフェッショナルな口調で付け加えた。「……交渉で解決できれば、時間と訴訟費用を節約できます。」
樹は頷いた。「……賛成です。」
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午前11時30分——会議室·第三の問題。
冴が最後の書類に進んだ。「……第三の問題は改修許可です。前の所有者は三年前に改修許可を申請しましたが、行政上の問題で許可が完了しませんでした。」
樹は眉をひそめた。「……それはどういう意味ですか?」
彩芽が画面から説明した。「……つまり、最初から改修許可を再申請しなければならないということです。手続きには二〜三ヶ月かかる可能性があります。」
樹は落胆した様子を見せなかった。「……プロセスを早めることはできますか?」
彩芽は頷いた。「……経験豊富な許認可コンサルタントを雇うことができます。彼らは官僚的な手続きを迅速に処理する方法を知っています。」
樹は微笑んだ。「……それをしてください。あまり長く待ちたくありません。」
怜香は読み解くのが難しい表情で樹を見た。「……如月さん、全くストレスを感じていないようですね。」
樹は肩をすくめた。「……ストレスは問題を解決しません。解決策に集中する方がいい。」
怜香は答えなかった。ただ樹を見つめ、初めてその口元に微笑みが浮かんだ。小さな、心からの微笑みだ。
「……なぜ人々があなたを信頼するのか、分かりかけてきました、如月さん。」
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午後1時0分——中之島·小さな公園での昼食。
会議の後、全員が短い休憩を取った。樹と怜香はビル近くの小さな公園に座り、近くの店で買ったシンプルな弁当を楽しんでいた。ここの雰囲気は会議室よりもリラックスしており、風が木々の間を優しく吹き抜けている。
「……如月さん。」
樹が怜香の方を向いた。「……はい?」
「……私はキャリアの中で多くの投資家を見てきました。彼らは皆、このような問題に直面するとパニックに陥ります。」怜香は深い眼差しで樹を見た。「……でもあなたはパニックにならない。冷静でいられる。すぐに解決策を探す。」
樹は小さく微笑んだ。「……私は元サラリーマンです。突然の問題には慣れています。パニックになっても役に立ちません。」
怜香はしばらく樹を見つめた。「……それは貴重な経験ですね、如月さん。」
樹は答えなかった。ただ昼食を楽しみ、二人の間の心地よい静けさを味わった。
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午後3時0分——会議室·業者との交渉。
怜香が請求を行った業者との連絡に成功した。彼らはビデオ会議での面会に同意した。樹は画面の前に座り、東京から彩芽、隣に冴、そしてもう一方に怜香が付き添った。
業者——山田という男性——は、画面に樹の顔を見て緊張しているように見えた。彼は難しい交渉に直面すると思っていたのかもしれない。
「……山田さん。」樹が落ち着いた声で言った。「……この物件に対するあなたの請求について伺いました。」
山田は慎重に頷いた。「……はい、お客様。私たちは作業の九〇パーセントを完了しましたが、前の所有者が支払いをしませんでした。」
樹は頷いた。「……理解しました。公平に解決したいと思います。」
山田は瞬きをし、信じられない様子だった。「……あ、あなた……支払うおつもりですか?」
樹は小さく微笑んだ。「……問題を引きずったままプロジェクトを始めたくありません。作業が九〇パーセント完了しているなら、合意された費用の九〇パーセントを支払います。ただし、完了した作業の証拠書類を見たいです。」
山田はしばらく沈黙した。こんなに合理的なアプローチに直面するとは思っていなかったのだ。「……お客様……私……証拠書類を提出できます。」
樹は頷いた。「……よかった。弁護士に送ってください。今週中に解決しましょう。」
山田は微笑んだ。心からの、安堵の笑顔だ。「……ありがとうございます、お客様。まさか……」
樹は微笑んだ。「……お礼には及びません。ただ正しいことをしているだけです。」
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午後5時0分——会議室·閉会。
交渉が終了し、全員が書類を片付け始めた。冴は決定事項を全て記録し、志織は次のスケジュールを整理し、レイナは財務的影響を確認していた。
怜香は窓のそばに立ち、外の川の景色を見つめていた。樹が近づき、その隣に立った。
「……如月さん。」
樹が顔を向けた。「……はい?」
「……問題への対処の仕方……攻撃的でも感情的でもない、しかし揺るぎない。」怜香は深い眼差しで樹を見た。「……それは稀なスキルです。」
樹は小さく微笑んだ。「……ただ正しいことをしようとしているだけです。」
怜香はしばらく樹を見つめ、そして微笑んだ。心からの、温かな笑顔だ。「……一緒に仕事ができて嬉しいです、如月さん。」
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午後8時0分——ホテルの部屋の中·家族からの電話。
樹は窓際の椅子に座り、自分で入れた緑茶を楽しんでいた。スマホが家族からのビデオ通話で震えた。
画面に留奈が満面の笑みで現れた。「……お兄ちゃん! 大阪はどう?」
樹は微笑んだ。「……いい感じだよ。いくつか問題があったけど、もう全部片付いた。」
正則が留奈の後ろに現れ、落ち着いた表情を浮かべた。「……樹、気をつけてな。無理はするなよ。」
樹は説明できない温かさを感じた。「……大丈夫だよ、父さん。来週帰るから。」
千春がエプロン姿で画面に現れた。「……樹、ちゃんとご飯を食べてる? 仕事ばかりしないで!」
樹は小さく笑った。「……約束するよ、母さん。」
小春が画面の隅に現れ、小さく微笑んだ。「……お兄ちゃん、気をつけてね。」
樹は微笑んだ。「……ありがとう、小春。」
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【次話 第110話——『大阪の夜』】
法的問題を解決した後、樹と怜香は夜の大阪を歩く。彼らは街のこと、ホテルのこと、人生について語り合う。怜香は自分の過去を少しだけ明かし始める。数字のために企業がどのように小さなビジネスを潰していくのを見てきたかを。樹は反論しようとはせず、ただ言う。「なら、最初から俺を信じるな。結果を見ればいい。」
【第110話へ続く……】




