嵐の目玉焼き
004 嵐の目玉焼き
太平洋沿岸に残された、最後の高耐候性住宅。
分厚い強化ガラスの向こうでは、巨大化した台風が街を飲み込もうと咆哮している。部屋の中は薄暗く、非常電源で動く小さなキッチンだけが、ぼんやりと淡い光を放っていた。
フライパンを握る俺は、もう八十七歳だ。この家に住んで五十年。
卵を割り入れると、フライパンが「ジュッ」と短く鳴いた。
少し焦げた縁が、俺の好みだ。
合成米を釜で炊き、去年自分で干したワカメで味噌汁を作る。
台風がどれだけ暴れようと、俺は朝食を欠かさない。朝は、朝だ。
かつて、この地球がまだ「普通」だった頃。
妻と二人の子供、四人で食卓を囲んだあの朝を思い出す。台風の予報に騒ぎながら、子供たちは怖がりつつも笑っていた。
「ねえ、今日の台風、パパの目玉焼きより強いかな!」
あの笑い声と、焦げた卵の匂い。
だが、あの嵐の日、避難の途中で……。
それ以来、俺はこの家から動かない。移住勧告? 知ったことか。
俺は台風が来るたびに、過去の朝の匂いを、家族の気配を、この目玉焼きの中に閉じ込めて焼いている。
灰色に塗りつぶされた未来の地球で、人間が縮こまって生きているとしても、それでも夜は明け、卵を割る時間は来る。
この台風も、いつか必ず去る。
もし誰かがこの家を見つけたら、俺がここで、台風の咆哮に負けじと目玉焼きを焼いていたことを知ってくれ。
ただそれだけで、俺の朝は無駄じゃなかったと思える。
さて、できた。
いつも通り、焦げた縁の目玉焼き。
……いただきます。
老人が箸を伸ばした瞬間、嵐の目玉が通り過ぎたのか、外の咆哮が嘘のように消え、静寂が訪れた。
その静けさの中で、老人は一口、自分だけの朝食を口に運んだ。
外が再び騒がしくなるまで、あと数分。




