ネットの伝説・ケツ山医師
古代ギリシャのオリンピアでは、出場選手たちが生まれたままの姿で競走していた。数千年の時を経て、遠い日本の地で当時の模様を忠実に再現する猛者が現れた。
その男の名は津山。医師だった彼は、この偉業で社会的に抹殺された。彼の比類なき功績をたたえ、ネットからは「ケツ山医師」という、心温まる諡が与えられた。栄えあるケツ山伝説が産声を上げた瞬間とは、いったいどのようなものだったのか……?
4月の初旬、津山は職場の歓迎会を終えたところだった。駅の近くにある店を出て、電車で自宅に帰ろうとしていた。
赤ら顔でも、スーツ姿の男には貫禄がただよっている。角ばった顔立ちといかめしい表情には、傲慢さにも似た威厳がにじみ出ている。メガネの奥では、切れ長の目に陰険な光が宿っている。
これ見よがしな怒り肩に、ポコリと突き出たビール腹。中背にもかかわらず、精神的かつ物質的な圧迫感に事欠かない体つきだ。
教授回診と同じ鷹揚な足取りで、彼はペデストリアンデッキを歩いていた。言っておくが、メタボだから動きが鈍いのではない。52歳になって、体力が衰えているわけでもない。
ただ形からでも、周囲にマウントを取っておきたいだけだ。消化器外科部長の肩書だけでは、到底彼の素晴らしさを表現しきれないのだ。
デッキから駅の入り口に足を踏み入れようとした、まさにその時だった! この瞬間から伝説が始まった。その幕開けを告げるかのように、メガネの奥にある目が、どす黒い炎できらめいた。
彼は入口の前で、いきなり足を止めた。なぜか目を丸くしている。おもむろに革靴を脱ぐ。いそいそと靴下を脱ぎ、丸めて革靴の中に突っこむ。素足になると、そろえた靴を横に蹴りとばす。
暑かったのか、今度はスーツのジャケットを脱ぎだした。ネクタイをはずし、ワイシャツとともに荒々しく放り投げる。肌着にいたっては力づくで引きちぎる。三段腹の鏡餅を衆目にさらし、3か月遅れで正月を祝おうとしているのだろうか。
酔って赤くなっていた津山の顔が、今では青ざめていた。ベルトもはずし、ジッパーを下げる。ズボンを足元までおろし、小さなジャンプで飛びこえる。下着にも手をかけ、一気に引きずりおろす。足首にかかった布を右足で小さく降り飛ばし、とうとう彼は全裸になった。
荒々しい所作が、駅構内の人々にも異変を知らしめた。全裸の中年男性を見て、ところどころ悲鳴が上がる。彼を指さし、好奇の目で見つめる者もいた。
青くなっていた津山の顔が、羞恥で再び赤に戻っていた。それにしても、タコばりにせわしなく色が変わる。今回ゆでダコになったので、きっともう落ちつくだろう。
さて、すっぽんぽんの男性は、ものものしく駅の入り口に立った。日頃マウントを取るために洗練された所作は、てきめんに効果をあらわした。駅にいた数十人近い人々の目が、津山ひとりにくぎづけになったのだから。
津山は駅の入り口から、出走の合図を聞いた競走馬さながらに飛び出した。もちろん出走者は彼ひとり。棄権さえしなければ優勝確定の独走会だ。
一糸まとわぬ裸体が、あたたかな春の風をまいて走りだす。溺れかけたカエル同然の走り方だ。無駄にダイナミックな動きのわりに速さはない。しかし痛々しいまでに必死さが伝わってくる。
走るたび腹が揺れる。ぜい肉が震える。アンダーバーものたうつ。後ろでケツがすぼんではふくらむ。全身が変な汗で光り輝いている。目も当てられない惨状だ。
しかも彼は走りながら、意味をなさない奇声を上げていた。
「うぇぇぇぇあぁぁぁぁ!」
日頃は患者を治してくれる先生が、目と耳を破壊する有害物質にヒールターンした。構内にいた人々は、いっせいに左右へひき退いた。かつて高名な聖者は、海を割り道を開いた。津山先生も人々の海から、駅の真ん中に我が道を切り拓いたのだ。
駅にできた津山ロードを、神に選ばれた全裸の男が駆けぬける。左右の観衆は叫び声で出迎え、携帯を取り出し撮影する人々の姿も目につく。
あえぎながら、津山は全力でひた走る。天を仰ぎ肩で呼吸している。右手に見える改札には目もくれず、先を急ぐ。改札の奥にまばらにいた人々も、異変に気づき表情を一変させている。
メガネがうっとうしくなったのか、片手で強引に外す。メガネは改札の反対側にいたギャラリーに投げつけられた。苦しい時でもファンサービスも忘れないのは、スターの鑑といえよう。
不幸にもプレゼントはギャラリーの構えていたスマホに命中し、スマホもろとも落下し破損してしまった。スターもコントロールは悪かった。
引きつっていた男の表情は、恍惚に上書きされていく。畏怖のあまりひれ伏した人々を見て、少なからぬ快感を覚えたのか。あるいは神聖なる古代オリンピアの選手に、自分を重ね合わせていたのか。
猪突猛進する津山先生の行く手は、何者にもおかしがたく思えた。反対側にある出口はすぐそこまで迫っている。無理がたたって心臓は今にも張りさけそうだ。ゴールを前にして、喉からほとばしる奇声が一足早く勝利を祝っていた。
しかし、予定調和であるはずの優勝が、ひとりの不届きものにはばまれた。出口の近くに、大学生と思しき若者がつっ立っていたのだ。彼の両耳はワイヤレスイヤホンでふさがり、手にしたスマホに見入っている。
自分の世界に浸っていた彼を、周囲の喧騒が正気に戻した。けだるげに顔を上げた若者の目の前に、やかましい全裸の先生が突進してくる。予想外の事態にフリーズした青年の左肩に、走ってきた津山の左肩が勢いよく激突した。
若者は尻もちをつき、その場に倒れる。疲労で足がもつれかかっていた先生の体は、衝撃で宙を舞った。直後には顔面から前のめりに転倒。若者に高々とケツを突き出し、四つん這いでうずくまる。
怒髪ならぬ怒ケツが、天を衝いた直後だった。プゥ~ッと間の抜けた音を立て、ケツの山が噴火した。転んだはずみに、大きく屁をこいてしまったのだ。
予想外のアクシデントは、静寂と緊張に包まれた人々の心を和ませた。突き飛ばされた青年がふきだしたのを皮切りに、ギャラリーからもどっと笑いが起きる。
左右に分かれていた観衆が、先生たちのもとにぞろぞろと集まってきた。痛みと疲労で身動きが取れない裸体を、皆がしきりに撮影していた。
噴火寸前の活火山のように、夜空に突き上げられた怒ケツが小刻みに震えている。したたる汗が涙のように、ふたつのコブのてっぺんから流れ落ちている。
山の裏からは、走者のすすり泣く声も聞こえる。完走目前での失格ゆえ、悔しさは察するに余りある。
騒ぎを聞きつけた警察官たちも、見るに堪えないケツをつかまえにやってきた。津山ロードは既にない。人混みをかきわけて進んでいく。動かない先生とは対照的に、警官たちの対応は迅速だった。
「いたぞ! あいつだ!」
「ふたりとも、突きとばされた男性を救護して! 変態は俺たちでつかまえるから!」
ふたりの警官が、気の毒な若者の救護にまわり声をかけている。残る数名は、力尽きた怒ケツに慌ただしく駆けよる。警官たちの勇気ある行動のおかげで、ケツの山は二度と噴火せずにすんだ。
かくして全裸の津山先生は、多くの人々の前であえなくご用となった。駅を騒然とさせた迷惑千万なオリンピアにも、無事に幕が下ろされた。
ちなみに当時は、神に見せても恥ずかしくない肉体美だからこそ、裸体を見せることも認められた。しかし津山先生のふしだらな体つきでは、かえって神への冒涜と受け取られたに違いない。
警察署の薄暗い取調室で、意気消沈したスーツ姿の津山がパイプ椅子に座っている。机をはさんで、ベテランの男性警官が彼と向き合っている。テーブルにあるライトが、ぼんやりふたりを照らしている。容疑者のやつれきった顔と壊れたメガネが悲哀を誘う。
部屋の隅にあるテーブルでは、若手の女性警察官が津山に背を向け、パソコンに取り調べの模様を打ちこんでいた。
表情にこそ出さなかったが、彼女は津山の逮捕に衝撃を受けていた。数年ほど前、彼女の祖母が病院に緊急搬送された。その時に大切な祖母の命を救ってくれたのが、ほかならぬ津山先生だったからだ。それでも、仕事に私情は禁物。感情を押し殺し、目の前の職務に集中していた。
彼女の事情をつゆも知らないベテラン警官は、どこか呆れ気味に津山へ語りかける。
「あなた、医者だったんですか? それならこんなことしちゃいけないことくらい、僕に言われなくてもわかるでしょ?」
津山は恥ずかしさで顔を上げられない。うつむいたまま、小さくうなずいている。見ていて可哀相になるほどの気落ちぶりに、警官もつい同情する。彼は優しい声で尋ねる。
「それで、どうしてこんなことしちゃったんですか? 新年度だからって、お酒でちょっと羽目はずしすぎちゃった?」
実はこの事態は、津山自身にとっても晴天の霹靂だった。そもそも、なぜこうなったのか、理解に苦しんでいた。
自分は分別を完全に失うほど、酩酊してはいなかった。危険な薬物など、一度も使ったことはない。
だが、意思に反して体が勝手に服を脱がせていた。どれほどやめてくれと思っても、自分の体は最後まで言うことをきかなった。ただでさえ恐怖が募っているのに、好奇の目にさらされ訳がわからなくなった。
気が動転しているうちに、今度は奇声を上げ全力で走っていた。息が切れもう走れないにもかかわらず、体はペースを落とさず動きつづけた。まるで自分の体が、何者かに乗っ取られてしまったようだった。
今まで感じたことのないほど、すさまじい恐怖に支配された。恐怖のあまり涙など出なかった。かわりに、なぜか顔には笑みが浮かんでいた。恐怖の影響で、ひきつったよ笑みが。笑っているうちに、自分は全裸で走ることに快感を覚えている、と勘違いしそうになった。
とても、言葉では言い表せない恐ろしさだった。一生分の恐怖を、あの瞬間に凝縮して味わった。その恐怖は、今なお自分をとらえている。
たとえ信じてもらえなくても、本当のことを話そう。津山は顔を上げ、口を開こうとした。心なしか、その両目に禍々しい炎がともったようでもあった。
またしても、彼の身に不可解な事態が起きた。顔には嘲笑が浮かび、舌が勝手に言葉を紡いでいった。
「職場でずいぶんと、ストレスがたまっていましてねぇ。素の自分をさらけだして走るのが快感で、癖になっていたんですよ。どうです? オチまで完璧だったでしょう? いやぁ、実に気分爽快でしたよ! 去年やらかした医療ミスの悩みも、消しとんでしまうくらいにね!」
語りおえた津山の表情は、完全に凍りついていた。またしても、考えとは裏腹に体が動いた。消えずに残っていた恐怖がまた牙をむき、瞬く間に津山を震えあがらせた。
それに一生のうち最悪のタイミングで放った屁を恥じこそすれ、一笑に付す余裕など今の津山にあるはずもなかった。思い出すことさえ、耐えられなかった。
それに一年前のことは、私のせいであるはずがない! 手術後に容体が急変した、患者に責任がある! 私は、断じて悪くない!
タイピングしていた女性警官は、手を止めて振り返っていた。驚きと失望の入り混じった表情で、津山を眺めていた。わたしの身内を救ってくれたのは、こんな人だったのかという落胆が、顔にはっきり浮かんでいる。
容疑者のひどく恐れおののく態度が、ベテラン警官にはわざとらしい侮辱に映った。ここまで反省しない相手なら、もう容赦はいらないな。彼はまず若手に目で合図し、仕事に戻るよう促す。彼女は我に返り、背を向けてパソコンに向かう。
百戦錬磨のベテランは厳しい表情で顔を突きだし、どすのきいた声で津山に迫った。
「そうかい! それならもう少し詳しく、お話を聞かせてもらいましょうかね!」
津山に厳しかったのは警察だけではなかった。程なくして、勤務先の病院もこの事件を把握。即刻、津山は懲戒解雇になった。
彼が去った病棟では、休憩中の看護師たちがナースステーションに集まっている。彼らは口々に内緒話をしていた。
「聞いた? ケツ山医師の話」
「やめなさいよ、その言い方……。アルコールも薬物反応もなかったんでしょ? それなのに全裸で走りまわるなんて、完全にどうかしてるわ」
「あれじゃあ、クビになって当然だよ。あいつのせいで、オレらまでケツ山病院のヤツらってバカにされるんだから」
「1年前の杉村さんの誤診で、津山先生かなり追いつめられてたのね」
「いつも堂々としてるように見えたけど、ただの空威張りだったんだね」
「だな。結局のところ、見かけだおしだったんだよ。ケツ山はさ」
実は病院が有無を言わさず津山を切ったのには、ある理由があった。悪い意味で、彼が一躍ネットをにぎわす時の人になっていたからだ。
彼の逮捕劇は、駅にいた不特定多数の人々に撮影されていた。当時の映像や写真も、彼らによってSNSなどで拡散された。物珍しさから犯人探しも進み、身元も完全に特定されていた。
とりわけ致命的だったのは、事件直後に投下された1枚のコラ画像だった。これがネットで異様なまでの人気を博し、爆発的に拡散してしまったのだ。
基になったのは、ちょうど怒ケツが噴火した瞬間をとらえた写真。武士の情けか、ケツの下の見えてはいけないものは黒く塗りつぶされていた。重要機密を完全に隠すなら、やはり黒塗りに限る。
この哀愁に満ちた貧相なケツが、画像の左半分を占領している。残る右半分には、満面の笑みをたたえ自信に満ちあふれた津山の顔写真が並んでいる。これは病院のホームページに掲載されていたもので、部長になった直後に撮影され写真だった。その喜びが、憎たらしさすら覚えるほどの笑顔にもよく表れている。
以上の2枚にまたがり、画像の下側にでかでかと、次の5文字が真っ赤に記されていた。
ケツ山医師
これが件のコラ画像の全容だった。わびしさただよう中年のケツと、一点の曇りなき笑顔の対比が織りなすシュールさ。すべてを端的に言い表したネーミング。いくつもの奇跡が重なり、「ケツ山医師」は瞬く間にネットを席巻した。
ケツ山フィーバーの結果、病院は数えきれないほどのイタズラ電話で日常業務にも支障をきたした。あのケツ山が部長になれる病院だと、全国区でも悪評を被る事態になってしまった。ウェブ上の地図では、病院名が「ケツ山病院」と勝手に書きかえられる被害も相次いだ。
病院外での影響も大きかった。大学病院周辺の小中高生にも、ケツ山病院という不名誉な呼び名が定着してしまったのだ。大人たちの再三に及ぶ注意にもかかわらず、流行が衰えることはなかった。青少年の健全な発達は今なお懸念されている。
再び場面は変わり、リビングとおぼしき空間で、ソファに座る小太りの男がスマホの画面を眺めている。年齢は20代中盤から後半に見える。
彼の前にあるテーブルをはさんで、壁側に設置されたテレビでニュースが放送されていた。男性のアナウンサーが、ニュース原稿を読みあげている。
男が右手に持ったスマホの画面をスクロールすると、ケツ山医師のコラ画像が映る。画像を見た杉村は左手で膝を叩き、笑いころげていた。
この杉村こそが、津山の異変を引き起こした黒幕だった。彼は先に看護師たちの話題に上がった「杉村さん」の息子だった。1年ほど前、彼の父親は津山の手術を受けた。その後に容体が急変し、帰らぬ人になってしまった。
父親は少し入院したら退院できると、手術前に津山から聞かされた。それだけに父親の死は青天の霹靂だった。死亡後の説明で、津山は手術中の父に不測の事態が発生し、突然すぎてどうにも対処ができなかったと語っていた。その説明を、息子と母親は泣く泣く受け入れるしかなかった。
しかし、彼は1週間前に真相を知ることになった。彼は市外に住む親せきの付きそいを頼まれ、津山の大学病院を訪れていた。その時にたまたま、看護師たちの会話を漏れ聞いてしまったのだ。
「津山先生、最近ちょっと調子に乗りすぎてません?」
「無理もないわよ。部長になってから、てんで人が変わっちゃったんだもの。1年前の杉村さんの件だって、何も反省してないし」
「杉村さんのご家族は、本当にお気の毒でしたね……」
「本当よ。家族にはバレないと思ってうまく言いくるめてたけど、あれは明らかに、津山先生のミスだった。5年前にも一度やらかして患者さん死なせたけど、覚えたのはごまかし方だけみたいね」
陰で立ち聞きした杉村のショックは大きかった。父さんが死んだのは、津山の医療ミスのせいだったのか……! 許せない! これじゃあ、死んだ父さんが浮かばれない! しかも、父さんの前にもミスで殺しておきながら、何の反省もないなんて!
怒りに燃えた杉村は、病院を相手に訴訟を起こすことも考えた。しかし訴訟には莫大な時間と費用がかかるうえ、勝訴できるかもわからない。自分たちのように、裁判官たちもだまくらかされるかもしれない。
だからといって、このまま泣き寝入りすることだけは絶対にしたくなかった。どうにかして、津山に罰を与えてやりたい。あいつだけは何があっても、死ぬよりも厳しい目に遭わせてやる……!
恨みをたぎらせるうち、彼はある考えに一縷の望みをかけた。丑の時参りで呪いをかければ、あいつに復讐できるかもしれない。これしか、もう手はない……!
彼は悲壮な覚悟で、三日三晩に及ぶ凄絶な丑時参を行なった。津山を地獄に突き落としたい一心で、彼は釘を打ちつづけた。
三日目の呪いを終え、自宅で眠りについた時だった。夢に津山が出てきた。その憎々しいツラに、いきなり現れた般若の面がはりついた。津山は般若面をかきむしり、苦しみにもだえていた。そこで目が覚めたのだが、彼は呪いがうまくいったと直感した。
伝説の一日は、夢を見た数日後に起きていた。思えば津山が操られる直前には、その眼に漆黒の炎が輝いていた。あれは呪いが発動した合図だった。神は神でも、ゼウスではなかった。津山は死神に憑りつかれていたのである。
テレビのニュースでは、ちょうど津山の犯行時の映像が流れていた。地上波なので、全身にはモザイクがかけられている。無駄にぬるぬる動くモザイクの奇声にかき消されぬよう、アナウンサーは懸命に声を張る。
「警察の調べに対し、男は「職場でストレスがたまっていた。全裸で走ることが快感だった」と――」
「えぇぇぇぇいぃぃあぁあぁぁぁ!」
競走には負けたが、アナウンサーとの競り合いでは勝利をおさめた。思わぬ場外乱闘に杉村も爆笑する。真面目なアナウンサーはめげずに、何とか視聴者にニュースの詳細を伝えるべく、必死に原稿を読みあげていた。
しかし勝者はアナウンサーに容赦しなかった。彼の抵抗を振りきり、音声を聞き取れない雑音に変えつづける。わめいている汚物は、出口の近くにいた人物と激突する。もちろん、アンラッキーな被害者の顔にもモザイクが入っている。
わいせつ物のモザイクが形を変え、間のびした大きなオナラがこだまする。ケツ山が噴火した瞬間だ。
その直後には、こらえきれなかったアナウンサーたちの笑い声も聞こえた。これで新たにモザイクと放送事故も、ケツ山伝説に加わった。死神ではなく、笑いの神に憑りつかれていたのかもしれない。
周囲の景色から杉村も、手元の画像はこの時のものだと気がついた。彼は左手でテレビの画面を指さし、高速モザイクからのケツ山放屁に涙が出るほど大爆笑していた。
ひとしきり笑った杉村は、なおも大笑いしながらつぶやく。
「ケツ山だってよ……! あいつには、お似合いのあだ名だぜ! ざまぁみろ、あのヤブ医者め……!」
こうして津山の医師生命を賭した一世一代の体当たり芸は、「ケツ山医師」としてネットの伝説になった。彼の功績はいつまでも色あせることはない。
病院を追われたあとの津山の行方は、依然として闇に包まれている。事件後に有志たちの手で幾度も調査が行なわれたものの、何ら手がかりは得られていない。
これほどの大騒動になった宿命として、解雇後も津山は世間の耳目を集めた。報道では当初から、津山が自供した医療ミスにも言及していた。
週刊誌がその内容を掘り下げたことで、さらなる燃料が投下された。津山は横暴で看護師や同僚の評判も悪かったこと、1年前の事件は明らかに津山の過失が原因だと明るみになった。
そして、杉村の立ち聞きした5年前の医療事故も白日にさらされた。辞めてなお、ケツ山ショックは病院に大打撃を与えていた。
このままでは、遺族たちから訴えられかねない! 早期の幕引きを望んだ病院は、先手を打って大人の解決策を提示してきた。杉村たちと5年前の遺族に、裁判外の和解をもちかけたのだ。
病院は津山の非を認め、少なからぬ和解金を遺族たちに支払った。和解は成立し、病院はさらなる炎上を免れた。内々ながらも病院が謝罪したことで、杉村たちの心はいくぶんなりとも救われた。
しかし肝心の津山は、ケツと屁こそ出せたが、自分の尻ぬぐいまではできなかった。事後まともにできたのは雲隠れだけだった。
伝説の一瞬を笑いの神に捧げた代償に、彼は一生分の運と実力を使い果たした。人生の彩りすら腸内のガスに溶け、肛門から大気中に拡散されてしまった。あの間抜けなオナラこそ、ケツ山医師が詠んだ辞世の句だったのである。
最後にもうひとつだけ言及してから、筆を置くとしよう。このケツ山事件、ネットでは「48秒の奇跡」とも呼ばれている。全裸のケツ山が出走してから逮捕されるまで、48秒かかったからだ。
経過としてはメガネをファンに投げつけたのが開始から22秒後、耳障りな奇声がやんだのは40秒後にあたる。クライマックスで皆を笑顔にしたケツ山ガス噴射は、42秒後のことだった。




