第94話 凍てつく罠
第一試合の興奮が冷めやらぬ中、気絶したゼガ隊長が担架で運ばれていく。
入れ替わりに、小柄な影がひょいと舞台の中央へ進み出た。
「あらあら、ゼガったら情けない。次は私が、獣王国の筆頭シャーマンであるこの『レン』が遊んであげますよ」
ウサギの獣人レンさんは、長い煙管から紫色の煙をゆったりと吐き出し、余裕綽々の笑みを浮かべている。
対するは、カエルス公爵家の密偵にして私の「第二の先生」クラウス先生と、魔導王直属の調査員、クロウさんだ。
『さあ第二試合! 獣王国最強の魔導師レン様に対し、人間側は……んんッ!?』
実況の猿獣人が、クロウさんの姿を見て目を剥いた。
『おい、あの黒い翼……まさか、元・空挺偵察部隊の『空耳のクロウ』か!? 生きてやがったのか!』
ザワッ……と会場がどよめきに包まれる。
「おい、あのクロウか?」
「任務中に敵前逃亡したっていう、あの……」
「腰抜けの裏切り者が、どの面下げて戻ってきやがった!」
無遠慮な罵声が飛ぶ中、クロウさんはポリポリと頭をかき、大げさにあくびをした。
「カァ……。有名人は辛いねぇ」
「……貴殿、意外と顔が広いのですね」
クラウス先生が呆れたように眼鏡のブリッジを押し上げる。
「へいへい。この筋肉バカの国じゃ、俺みたいなインテリは肩身が狭いんでね。今はもっと待遇の良い雇い主の下で、有意義に働かせてもらってるのさ」
『根性なしの落ちこぼれカラスと、貧弱そうな人間の学者! 対するはレン様! こりゃあ瞬殺だァ!』
(ムカッ!クラウス先生はただの学者じゃないわよ!それにクロウさんの過去がどうあれ、今の彼は私たちの頼もしい仲間なんだから!)
カァァァンッ!!
開始の銅鑼が鳴り響いた。
その瞬間、レンさんの雰囲気が一変した。
彼女は煙管を振るい、神速の音節で詠唱を開始する。
『――鋭き風の精霊よ、集いて応えよ!見えざる刃よ、形を成せ!――」
クラウス先生も同時に詠唱を始めているが、初手は互いに『風の刃』。相殺狙いか?
――いや、違う!
レンさんの詠唱には、恐るべき続きがあった。
『――繰り返せ、弐重、参重……加速せよ!――』
(なっ、重複詠唱!?)
私が驚愕するのと同時に、レンさんの煙管から暴風が吹き荒れた。
先生が放った単発の風の刃に対し、レンさんが放ったのは、扇状に広がる十数発の風の刃。圧倒的な「数の暴力」が、先生の魔法を一方的にかき消して襲いかかる。
「おっと、地上は物騒だぜ!」
クロウさんが即座に空へ退避する。だが、先生には逃げ場がない!
「くっ……!」
先生の前に多層展開された『魔力障壁』が、次々と飛来する風刃にガリガリと削られていく。
さらに、レンさんは強靭な脚力で高く跳躍した。一瞬で空高く舞い上がる。
「上から失礼しますねぇ!」
空中からの容赦ない追撃。再び十数発の風の刃が、無防備な先生の頭上へと降り注ぐ。
『で、出たァァッ!レン様の十八番、空中ギロチンだァァッ!』
(詠唱が速すぎる!あの連射速度、反則級だ)
ドゴォォォン!!
先生の魔力障壁が悲鳴を上げ、衝撃で石畳ごと後方へ削り取られる。
「……かはっ。……野蛮な火力ですね……」
先生が片膝をつく。防戦一方、絶体絶命。
だが、先生の目は死んでいなかった。
再度、レンさんが高く跳躍する。
「させるかよっ!」
ここでクロウさんが動いた。
レンさんが空中で追撃の風刃を放とうとした瞬間、クロウさんは急加速。彼女の視界を遮るようにその周囲を高速で旋回し始めた。
クロウさんが放つ乱気流が、レンさんの風刃の軌道を無理やり曲げる。
「あら、チョコマカと……羽虫の分際で!」
「ヘッ、その羽虫を捕まえてみな!」
空中でのドッグファイト!
レンさんは苛立ち、詠唱の矛先を地上から空中のクロウさんへと切り替える。
十数発の風刃がクロウさんを襲うが、彼は「空耳」の異名通り、風を斬る音だけで軌道を読み、翼を畳んで急降下、再び反転という神懸かった機動で翻弄していく。
(凄い……クロウさんがレンさんを空中に釘付けにしている!)
クロウさんが空中で注意を引きつけている隙に、地上のクラウス先生が反撃に出る。
『清き水の精霊よ、集いて応えよ!流れる矢よ、形を成せ!力を以て、飛べ、貫け!――』
『――繰り返せ、弐重、参重……加速せよ!――』
『水の矢』!』
(先生も重複詠唱! 負けてない!)
数本の水の矢が、着地したレンさんへ向けて放たれる。
でも――狙いが甘い!
レンさんは最小限のステップでそれを易々と回避する。矢は彼女に掠りもせず、足元の地面や周囲の壁に突き刺さり、虚しく水溜まりを作るだけだ。
「あらら? 眼鏡が曇っているんですかぁ? どこを狙っているのやら」
レンさんがクスクスと嘲笑う。上空のクロウさんも焦りの声を上げる。
「おい先生! しっかり狙えよ!?」
「……チッ」
先生が悔しそうに舌打ちをした……ように見えた。
(……あれ?おかしい。先生の魔力操作がこれほど狂うなんて考えられない。それに、まだ先生の十八番である氷の精霊魔術を使っていない……)
私は強烈な違和感を覚えた。先生の眼鏡の奥の瞳は、焦るどころか、冷徹に「盤面の完成」を確認しているように見えるのだ。
「もういいですぅ。ちょこまかと目障りですから、終わらせてあげますね」
レンさんが煙管をくわえ、優雅に回転しながら両手を広げた。
莫大な魔力が一点に練り上げられる。
『――清き水の精霊よ、集いて応えよ、万象は一つに!無形なる水流よ、形を成せ!
広がり、満たし、霧の帳を織りなせ!我が身を隠し、敵の視界を奪え!――『霧隠』!!』
プシュウウウッ!!
レンさんを中心に、濃密な乳白色の霧が爆発的に広がった。
一瞬にして闘技場全体がホワイトアウトする。
『おおっとォ! 闘技場が霧に包まれたァ! これでは指一本先も見えねぇ!』
(うわぁ、観客席まで真っ白! 完全に視界ゼロだよ!)
「おいおい、雲の中より質が悪ぃぞ!」
上空で視界を奪われたクロウさんの声。
霧の中から、レンさんの忍び笑いが響く。
「この霧は魔力を含んでいます。視界だけでなく、『魔力感知』も狂わせますよ。さあ、なぶり殺しショーの始まりです」
ヒュンッ! ドンッ!
死角から飛んでくる風の刃。先生とクロウさんは、防御することすらままならない。
――誰もが、人間側の敗北を確信した、その時だった。
霧の奥から、先生の静かな、しかし絶対的な自信に満ちた声が響いた。
「……感謝しますよ、レン殿」
「え?」
「貴女がこれほど大量の霧を出してくれたおかげで、想定より早く私の『布石』が完成しました」
カツン、と乾いた靴音が鳴る。
先生が、地面に手を触れた気配がした。
張り詰めた空気が、一気に凍てつく。
「凍てつく大気の精霊よ、集いて応えよ!冷徹なる鎖よ、形を成せ!我が敵の四肢を、氷結させ拘束せよ!――《氷結鎖縛》!!」
パキィィィィィィィンッ!!!
鼓膜を劈くような、鋭利な破砕音。
次の瞬間、闘技場に信じられない光景が広がった。
会場を覆っていた濃霧が、一瞬にして結晶化し、キラキラと輝くダイヤモンドダストとなってハラハラと落下し始めたのだ。
視界がクリアになる。そして――。
「な、なっ!? う、動けな……!?」
霧が晴れた先には、氷の彫像のように固まったレンさんの姿があった。
先生が先ほど「わざと外して」ばら撒いた水溜まり。そこから鋭い氷の棘が一斉に伸び、さらにレンさん自身が作り出した霧までもが瞬時に凍結し、彼女の手足を強固に拘束していたのだ!
『な、な、なんとォォォッ!? き、霧が……霧そのものが凍ったァァァッ!?』
『ば、馬鹿な……氷雪魔術なんて初めて見たぜ!』
『あの貧弱そうな眼鏡……何者だ!?』
先生は、氷の結晶が舞う中、静かに眼鏡の位置を直した。
「気体は冷やせば液体を経て固体になる。物理の基本ですよ」
(かっこいい!先生、最高にインテリで性格悪い――いえ、理知的だわ!)
「くっ、しまっ……!」
レンさんが脱出しようともがくが、氷は鋼鉄のように硬い。そこへ、上空からニヤリと笑うクロウさんが降ってきた。
「へっ! さすが先生、性格の悪さがそのまま魔術に出てるねぇ!」
急降下!
動けないレンさんの背後に音もなく着地すると同時に、クロウさんはレンさんの武器である煙管を鮮やかに弾き飛ばす。同時に、クロウさんの鉤爪が、彼女の細い首元にピタリと突きつけられた。
「チェックメイトだ、ウサギちゃん」
クロウさんは不敵に笑う。
「オジサンはもう『根性論』で死ぬのは御免なんでね。これからは『頭脳』で勝つ時代さ」
レンさんは目を見開き、そして深くため息をついた。
「……まいりました。寒いのと痛いのは、嫌いですぅ」
彼女が潔く両手を上げる。
『しょ、勝負ありィィィッ!!第ニ試合も、人間側の連勝だァァァッ!!』
会場が揺れるほどの大歓声。
最初は罵声を浴びせていた獣人たちが、今は「すげぇ!」「あいつら、意外とやるじゃねぇか!」と驚嘆の声を漏らしている。
やった……! これで側近二人を倒した!
先生が氷を解除すると、レンさんは寒そうに身を震わせながら退場していった。
そして。
玉座のような観覧席から、あの男がゆっくりと立ち上がる。
「ガハハハハ!武力だけでなく、策謀も一級品か!見事だ!」
獣王レオニダス。
彼は豪奢なマントを脱ぎ捨て、王者の風格を漂わせながら、一歩ずつ石舞台の中央へと歩み出てきた。
彼が踏みしめるたびに、闘技場の空気がビリビリと震える。
「さあ、余興は終わりだ。……来い、人間ども。俺を満足させてみろ!」
ラスボス降臨。
いよいよ、獣王レオニダスとの最終決戦が幕を開ける!




