第91話 交易都市の喧騒
「……で、お嬢。威勢よく歩き出したのはいいが、まさかこのまま徒歩で火山まで行く気じゃねぇだろうな?」
広場を出てすぐ、先頭を歩くクロウさんが呆れたように振り返った。
「え? 違うの?」
「カァ……。あのな、獣王国ガリアを舐めちゃいけねぇ。ここから東の火山までは、普通の馬車なら片道一ヶ月はかかるぜ」
いっ、一ヶ月!?
私は想像以上の広さに絶句した。
「それに、獣人は縄張り意識が強ぇんだ。正規の許可証なしに東部の火山へ近づけば、密猟者かスパイ扱いされて、問答無用で狩られちまう。……まずは『冒険者ギルド』だ。そこで首都行きの『地竜便』の手配をする」
「えっ、地竜……!?」
私はその単語に反応して、思わず足を止めた。
「竜って……あのドラゴン? でも、竜族はずっと昔に滅んだんじゃ……」
私の疑問に、答えたのはクロウさんではなく、隣を歩いていたクラウス様だった。
「……滅んだのは、神話に語られる『古竜』や『上位竜』ですよ、テオ君……」
彼はそこで言葉を切り、コホン、とわざとらしく咳払いをした。眼鏡の位置を直す指先が、少し泳いでいる。
「……失礼。ゼノン令嬢」
「ふふっ」
ヒルダさんが口元を押さえて笑っている。クラウス様にとっても、「冒険者の薬師先生」としての旅は、板についてしまっていたみたいだ。
彼は気を取り直して、講義を続けた。
「……人間を遥かに凌駕する知能と、『竜言語魔法』を操る大陸の覇者……彼らは確かに、二千年以上前の『大厄災』の戦いで姿を消しました。しかし、今回クロウ殿が言っているのは『地竜』。分類としては『下位竜』、つまり魔獣に近い存在です」
「魔獣……?」
「ええ。知能は低いですが、強靭な肉体と持久力を持ち、魔力で強化された足は荒野を疾走します。獣王国では、これを家畜化して移動手段に用いているのです」
「へぇ……! すごい、やっぱりクラウス様は何でも知ってるんですね!」
私は尊敬の眼差しで彼を見上げた。
精霊魔術に、薬学、魔物学、そして地理や歴史。旅の間、彼が教えてくれた知識はいつも私を助けてくれた。
私は少し居住まいを正して、彼に向き直った。
「クラウス様……これからも『先生』って呼んでいいですか?」
私の言葉に、クラウス様は少し驚いたように瞬きをし、それから冷ややかな視線を向けた。
「……貴女は、分かっているのですか? 私はカエルス公爵家の密偵、言わば貴女の監視役ですよ? 監視役に教えを請うなど、甘すぎます。貴族社会ではその甘さが命取りになりますよ」
相変わらずの減らず口。でも、その瞳の奥には、確かな知性への誠実さがあることを、私は知っている。
「でも、先生は私を助けてくれたし、その知識は本物でしょう? 私は先生から、もっと色んなことを学びたいと思います」
私の真っ直ぐな視線に、クラウス様は数秒間沈黙し、やがて観念したように深いため息をついた。
「……はぁ。貴女という人は。……好きになさい」
彼はやれやれと肩をすくめ、前を向いた。
「ただし、私の講義は厳しくいきますよ。甘ったれた態度は許しません」
「はい! お願いします、先生!」
私は嬉しくなって、大きく頷いた。
カイルやセリナも、「やれやれ」と苦笑している。
やがて、街の中心にある大きな建物――冒険者ギルドが見えてきた。
獣王国のギルドは、人間の国よりもさらに荒々しい造りで、入り口には巨大な牙の装飾が施されている。
その時だった。
バァン!!
ギルドの扉が乱暴に開かれ、血相を変えた獣人たちが飛び出してきたかと思うと、中に向かって叫んだ。
「おい、手を貸せ! 怪我人だ!」
「傷薬を持って来い! ありったけの薬草だ! 急げ!」
担架に乗せられて運ばれてきたのは、血まみれの鎧を纏った獣人の冒険者たちだった。
彼らの鎧は、まるで高熱で溶かされたようにひしゃげ、深い爪痕が刻まれている。
「ひどい……。国境周辺の森の調査依頼を受けてたパーティーか?」
野次馬がざわめく中、クロウさんが素早くその怪我人の一人のそばに寄り、鎧の傷跡を見て目を見開いた。
「……おいおい、嘘だろ」
クロウさんの声が震えている。
「こいつらが戦った相手……『業火熊』の爪痕じゃねぇか」
「業火熊? 聞かない名だな」
カイルが怪訝そうに尋ねる。
「ああ、他国の人間は知らなくて当然だ。奴らは本来、遥か東の火山地帯の奥地にしか生息しない、高ランクの魔獣だ。……それが、西の端にあるこの国境近くまで降りてきてるってことは、この広い国の生態系が狂い始めているのか、もしくは元の生息地から追いやられたか……」
「ぐぅ……っ、熱ぃ……!」
負傷者が苦悶の声を上げる。傷口は焼け爛れ、泥や燃えカスが付着して酷い状態だ。
ギルド職員たちが薬草を持って駆け寄るが、手が足りていない。ここには傷を治す『祈祷術』を使える神官はいないのだ。
「先生!」
「ええ、行きましょう! セリナ殿、傷口の洗浄と冷却を!」
「はいっ、お任せください!」
先生の指示に、セリナが前に出る。彼女は冒険者たちに向け、両手をかざして詠唱した。
「清涼なる水の精霊よ、集いて応えよ! 癒やしの霧よ、形を成せ! 熱き傷を、冷まし、清めよ!――『水霧』」
セリナの手から、霧のように細かく、冷たい水が湧き出した。
それは優しく傷口を包み込み、付着した汚れを洗い流すと同時に、火傷の熱をシューッという音と共に鎮めていく。
「あ、ぁ……痛みが、引いていく……」
苦しんでいた獣人の呼吸が、冷たい水と鎮痛効果のおかげで少し落ち着く。
傷そのものは治らない。けれど、これなら処置ができる。
「素晴らしい魔力制御です、セリナ殿。……さあ、今のうちに!」
ヒルダさんが傷薬の瓶を開け、先生が手際よく軟膏を塗り、包帯を巻いていくが、その表情は険しい。
(マリアさんなら……!)
私はハッとした。
「先生! マリアさんを呼んで来よう! マリアさんなら、この傷も……!」
まだ近くにいるはずだ。彼女の『祈祷術』なら彼らを救える。
私が駆け出そうとした時、先生が処置の手を止めずに鋭い声で制した。
「いけません!」
「えっ……なんで!?」
「獣王国と聖教国は敵対しています、そのため獣王国には教会が存在しません」
先生は小声で早口に言った。
「この状況で、祈祷術を使えばどうなるか。……『聖教国の関係者』だと疑われるのは彼女です。彼女はまだ、この街での信用を得ていない。巻き込めば、彼女の新しい生活を壊すことになります」
「っ……!」
(なら……私が歌えば……!)
私は、喉元まで出かかった歌を、拳を握りしめて飲み込んだ。
私が歌えば、疑われるのは私だけで済む。でも……。
「……我慢しなさい、ゼノン令嬢」
先生が、私の心を読んだように囁いた。
「貴女の力は、ここで安易に使うべきものではない。……私を信じて。薬学の知識で、最善を尽くします」
「……はい」
私は唇を噛み、先生の助手に徹した。
「……酷い。外傷以上に、筋肉と骨がボロボロだ。これはまるで……自らの肉体を燃料にして焼き尽くしたような……」
私の『瞳』にも、彼らの生命力が著しく削れ、魂の灯火が小さくなっているのが視えた。
「『活法術』の代償だ」
クロウさんが、沈痛な面持ちで教えてくれた。
「魔力を使って肉体のリミッターを外し、無理やり身体能力を爆発的に上げる、俺たち獣人独自の戦闘技術さ。……格上の化け物相手に、寿命を削ってでも生き延びるために使ったんだろうよ」
活法術。
それは、実力主義の獣王国において、弱者が強者に抗うための諸刃の剣。彼らの戦いの過酷さを、私はまざまざと見せつけられた気がした。
「……は、ぁ……」
先生の懸命な処置と、気付け薬を嗅がせたことで、リーダー格の馬獣人が意識を取り戻した。
「おい、しっかりしろ! 何があった!?」
クロウさんが問いかける。
彼は、虚ろな目で天井を見つめ、震える声で語り出した。
「……化け物だ……。あいつら、痛みを感じていなかった……」
「痛み?」
「ああ……。腕を斬り飛ばしても、槍で腹を貫いても、悲鳴一つ上げずに襲いかかってきやがった……。まるで、死ぬことさえ忘れた狂戦士みたいに……」
男は恐怖に顔を歪め、信じられない言葉を口にした。
「……まるで……御伽噺の『命紋魔法』のように……」
その言葉が出た瞬間、周囲の獣人たちが息を呑んだ。
「命紋魔法……?」
私が聞き返すと、横にいたクラウス先生の表情が、これまでにないほど険しいものに変わった。
「……おかしいですね」
先生は、傷ついた獣人の体をもう一度確認しながら、低い声で言った。
「命紋魔法は、二千年以上前……『大厄災』の時代に失われた古代魔法です。そして何より、あれは『術者が自らの命を燃やして力を得る』自己強化の魔法のはず」
先生は、クロウさんを見上げた。
「知能の低い魔獣が、今は無き古代魔法を使えるとも思えません……」
「……情報不足だな。……こいつは、厄介なことになりそうだぜ」
クロウさんが、憎々しげに吐き捨てた。
事態は、私たちが想像していたよりもずっと深刻で、静かに進行しているのかもしれない。
クロウさんが、帽子を目深に被り直した。
「今の話じゃ、グラント火山は厳戒態勢かもしれん。正規の手続きなしに火山に向かえば、俺たちが不審者扱いされてしまう」
彼は私を見て、ニヤリと笑った。
「まずは首都ガリアへ行って、大将――獣王レオニダスに仁義を通す必要がある。情報を共有し、正規の許可を得るんだ」
「……分かりました」
私は力強く頷いた。
火山の異変、古代魔法の謎、そして苦しむ人々。放っておくわけにはいかない。
「行こう! 獣王様のいる首都へ!」
私たちはギルドを後にし、獣王国の中心、武の都ガリアへと向かう「地竜便」の手配へと走った。




