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第90話 白き国境を越えて

 バシャァァァン!!


 猛烈な水しぶきを上げて、舟が空へ飛び出した。


 視界が一気に開ける。


 薄暗い地下水路から、白銀の世界へ。


 私たちは、聖都の外を流れる雪解けの川へと着水し、その勢いのまま対岸の雪原へと滑り込んだ。


「……はぁ、はぁ……!」


「ぬ、抜けたか……!?」


 カイルが舟から転がり落ちるようにして周囲を警戒する。


 後ろを振り返ると、断崖の中腹にある排水口から、まだ激流が滝のように噴き出しているのが見えた。


 あの水圧と高さだ。ギースといえども、生身でここまでは追ってこられないだろう。


「……見事だ」


 舟を降りたシメオンさんが、聖都の方角を見つめて呟いた。


「まさか、本当に正面から大聖堂を出し抜き、全員生還するとはな」


 彼は、懐から地図を取り出し、私たちに手渡した。


「この先、山を越えれば獣王国との国境だ。……わしは、ここまでにしておく」


「えっ? シメオンさんは、一緒に来ないの?」


 私が尋ねると、シメオンさんはニヤリと笑って首を横に振った。


「わしの戦場はあそこにある。今日の『奇跡』を目の当たりにした民衆は、動揺し、答えを求めているはずだ。彼らを導き、内側から教会を揺さぶるのが、わしの役目だ」


 シメオンさんは、私の前に膝をつき、目線を合わせた。


「感謝する、神の御子(みこ)よ。地下にいた我々にも、あの歌と光は届いていた。……あれこそが、真の救いだ。あんたが灯してくれた希望の火、決して絶やしはせんよ」


「……うん。気をつけてね、シメオンさん」


 彼は深く頷くと、雪原へと姿を消した。


「感傷に浸ってる暇はないわよ」


 ヒルダさんが鋭い声で言った。


「見て。……来たわよ」


 彼女が指差す先、聖都から続く山道に、無数の小さな影が見えた。


 僧兵団だ。人海戦術で山狩りを始めるつもりらしい。


「数は百や二百じゃきかねぇな。……急ぐぞ!」


 ヘクターさんが、衰弱しているハンス司祭を背負い上げる。


 カイルがマリアさんを支え、私たちは深い雪山へと足を踏み入れた。


 雪山の逃避行は過酷だった。


 けれど、私たちには頼れる仲間がいる。


「足跡は私が消すわ。風上へ回って!」


 ヒルダさんが最後尾で、雪を均して足跡を偽装し、私たちの「匂い」すら消していく。


「視界を遮りますわ!」


 セリナが風の精霊魔術で局地的な地吹雪を起こし、白いカーテンで私たちの姿を隠す。


 地の利と連携プレーにより、私たちは数に勝る僧兵団の捜索網を、幽霊のようにすり抜けていった。


 そして、日が傾きかけた頃。


 私たちは、聖教国と獣王国を隔てる国境付近に到達した。


「……止まれ」


 先頭のカイルが手を挙げる。


 木々の隙間から見えたのは、街道を塞ぐ巨大な「関所」と、左右の山肌に沿ってどこまでも伸びる高い「防壁」だった。


 獣人を「汚れた種族」として拒絶するために築かれた、拒絶の壁。


 関所には多くの松明が焚かれ、槍を持った僧兵たちが目を光らせている。


「……だめね。警戒されてる」


 ヒルダさんが舌打ちする。


 正面突破は不可能だ。ましてや、体力を消耗しているマリアさんたちを連れての強行突破など自殺行為に等しい。


「なら、道なき道を行くしかねぇな」


 ヘクターさんが、関所から大きく外れた、切り立った断崖絶壁を見上げた。


「あそこなら警備の目はねぇ。……普通の人間なら絶対に通らねぇルートだがな」


「私たちなら、行けます!」


 私は力強く頷くと、大きく息を吸い込んだ。


 こんな吹雪も、険しい崖も、歌って乗り越えちゃおう!


 私は、どこかで聞いたことがあるような軽快なマーチを口ずさみ始めた。


『――歩こう、歩こう、元気よく――』


『――坂道、トンネル、雪の道――』


 歌声に乗せて、私の魔力が仲間全員を包み込む。


 イメージするのは『身体強化』。でも、ただの強化じゃない。寒さを弾き飛ばすような、ポカポカした活力のイメージ!


 すると、私の懐でポルカが「キュン、キュン!」と楽しげに鳴いて震え出した。


 それに呼応するように、猛吹雪の中から、手のひらサイズの小さな光の粒が次々と飛び出してきた。


 『雪の精霊』たちだ!


 綿毛のようなふわふわした精霊や、氷の結晶の形をした精霊たちが、私の歌のリズムに合わせてクルクルと踊りだす。


 精霊たちの楽しげなダンスと、ポルカの共鳴が、歌の効力をさらに高めていく。


 劇的な変化が起きた。


「おっ!? なんだ、体が羽みてぇに軽くなりやがった!」


 先頭を行くヘクターさんが、驚きの声を上げる。


「……って、おいおい、魔力の通りまで良くなってやがる。これなら岩壁を登るなんて朝飯前だぜ!」


「ふふっ、さすがです!この歌声があれば、こんな崖、スキップで登れます!」


 セリナも余裕の笑顔で、風の精霊魔術を操りマリアさんたちの背中を軽々と押し上げる。


「……やれやれ」


 最後尾のクラウス先生が、呆れたように眼鏡の位置を直した。


「移動しながらの広域・持続型身体強化……しかも歌に乗せて、対象の魔力効率まで底上げするとは。……もう、驚く気力もありませんね。記録する手が追いつかない」


 そうぼやきつつも、その足取りは驚くほど軽い。


「ふふ、体が温かい……」


 マリアさんも、頬を紅潮させて微笑んでいる。


「厳しい修行のような祈りではなく……本来、神への祈りとは、このように明るく、希望に満ちたものなのですね」


 ハンス司祭も、老体とは思えない健脚で階段を登りながら、深く頷いた。


 猛吹雪が吹き荒れる断崖絶壁。


 本来なら命がけの難所も、私の歌と、楽しげに踊る精霊たち、そしてみんなの笑顔のおかげで、まるで楽しいハイキングコースのように越えていくことができた。


 そして。


 私たちはついに、防壁の向こう側――獣王国の領土へと降り立った。


 フッ、と体が軽くなる。


「……抜けたな。ここはもう、教会の法は及ばねぇ」


 ヘクターさんが、雪の上に大の字になって息を吐いた。


 振り返ると、夕闇に沈む聖都サンクトゥムが、遥か遠くに見えた。


 私の『瞳』には、街の上空に漂っていた黒い靄が薄れ、代わりに私が歌った時の「金色の粒子」が、まだ微かに煌めいているのが見えた。


 その夜。


 私たちは国境を越えた先の森で、火を囲んで休息を取った。


 クラウス先生の的確な処置のおかげで、マリアさんたちの顔色もだいぶ戻っている。


 パチパチと薪が爆ぜる音だけが響く中、マリアさんが静かに私の隣に座った。


「……ありがとう、テオ君」


 彼女は、焚き火の炎を見つめながら、ぽつりと呟いた。


「地下に落ちたときに……聞こえたの。テオ君の歌声が」


「え……」


「とても温かくて、力強い歌声でした。……その歌と共に、金色の光が降り注いで、私たちの傷を一瞬で癒やしてくれた」


 マリアさんは、私の方を向き、優しく微笑んだ。


「その時、思い出したの。ラクスで貴方たちが助けてくれた時のこと」


「……マリアさん」


「あの時も今日も、テオ君から感じるのはとても暖かくて、綺麗でした。……貴方だったのね。私たちを導いてくれる、『光』は」


 彼女は、確信に満ちた瞳で私を見つめ、そっと私の手を握った。


 私は……少し照れくさくなって、鼻の頭をかいた。


「……僕は、ただのテオだよ。でも……神様の声は、大きな教会の中じゃなくて、マリアさんみたいな優しい人の心の中に届くってことは、分かったよ」


 マリアさんは、一瞬きょとんとして、それから花が咲くように笑った。


 そして、私を優しく抱きしめた。


「ええ……そうね。ありがとう、私の小さな天使様」


 翌朝。


 私たちは、眼下に見える獣王国の国境の街――交易都市ベルクを目指して山を下った。


 道中、ヘクターさんとカイルが先行して魔獣を追い払う。


 マリアさんとハンス司祭も、疲労はあるものの、自由な空気を感じて足取りはしっかりしていた。


 昼過ぎ、私たちは無事に街の門をくぐった。


 そこは、聖教国とはまるで違う活気に満ちていた。


 多くの獣人、人間、多種族が行き交い、笑い合っている。


「……すごい。種族が違っても、こんなに当たり前に共存しているなんて」


 マリアさんが、目を輝かせて街の様子を見渡している。


「カァ……。待ちくたびれたぜ」


 突然、頭上からしわがれた声が降ってきた。


 見上げると、宿屋の屋根の上に、真っ黒な影が蹲っていた。


 濡羽色(ぬればいろ)の翼に、鋭い(くちばし)。どこか眠たげな瞳をしたカラスの鳥獣人――クロウさんだ!


「クロウさん!」


 私が手を振ると、彼は「よっと」と気怠げに翼を広げ、ふわりと私たちの前に降り立った。


「へいへい、無事に到着したようだな。聖教国の方角からすげぇ魔力が弾けるのが見えた時は、オジサンも流石に羽が逆立ったぜ」


 彼は嘴をカチカチと鳴らし、あくびを噛み殺しながら言った。


「ま、こっちは頼まれた通り、補給物資と情報はバッチリ集めておいたからよ。感謝してくれよな」


 クロウさんは別行動でこの街に先回りし、私たちのために動いてくれていたのだ。


「ああ、助かるぜ。予定より派手にやっちまったがな」


 ヘクターさんが苦笑しながら、クロウさんの翼の先と拳を合わせる。これで、フルメンバーが揃った。


 私たちは宿を取り、久しぶりの温かい食事を囲んだ後、今後の相談をした。


「私たちは、この街に残ろうと思います」


 マリアさんが、決意を込めた瞳で言った。


「ここには多くの種族がいますが、怪我や病気に種族の違いはありません。……聖教国で出来なかった『分け隔てない救済』を、この街で実践したいのです」


 ハンス司祭も深く頷く。


「クラウス殿に頂いた『知識』と、マリアの『力』があれば、多くの命を救えるはずだ。まずは小さな診療所から始めようと思う」


「……うん。マリアさんたちなら、きっと大丈夫」


 私は、クラウス様に頼んで用意してもらった、当面の生活費と、万が一のための紹介状を手渡した。


「もし何かあったら、この手紙を持って魔導国の最西にある『ゼノン辺境伯領』を頼って。絶対に力になってくれるから」


 街の広場で、別れの時が来た。


 マリアさんは私の前に膝をつき、優しく抱きしめてくれた。


「ありがとう、テオ君。……貴方の征く道に、神の導きがありますように」


「マリアさんも。……元気でね!」


 私たちは手を振り合い、マリアさんとハンス司祭は、雑踏の中――新しい人生へと歩み出していった。


「……さて」


 二人の背中が見えなくなるまで見送ってから、ヘクターさんが大きく伸びをした。


 そして、いつもの荒っぽい口調から、少しだけ背筋を伸ばして私に向き直った。


「非戦闘員の護送任務は完了。聖教国の監視圏も完全に抜けました。……もう、『生意気な冒険者のガキ』の演技は不要でしょう、パスティエール様」


「ふふ、ヘクターさんの『柄の悪いリーダー』役も、板についてましたけどね」


 カイルも笑いながら、剣のベルトを締め直す。


 私も、ずっと目深に被っていたフードを脱ぎ捨てた。


 風が、髪を撫でていく。


 魔力を抑え、息を潜めていた日々はもう終わりだ。


「ええ。ここからは、コソコソするのはおしまい!」


 私は胸を張って宣言した。


 聖教国は無事通過した。次はいよいよ、泉の精霊様から託された本来の使命。


 目指すは東。獣王国のさらに奥地にある、グラント山。


 そこにあるという「瘴気」を正さなければならない。


「案内頼むよ、クロウさん!」


「カァ……へいへい。俺の故郷だ、任せてくだせぇ。」


 クロウさんが、翼でキザっぽく敬礼する。


「行きましょう。クラウス様、ヘクターさん、ヒルダさん、カイル、セリナ、クロウさん!」


 私の号令に、全員が凛々しい顔つきで頷く。


「「「おう!」」」


 私たちは、新しい冒険へと堂々と歩き出した。


 目指すは、まだ見ぬ脅威と、精霊の待つ場所へ。

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