第88話 絶望
翌日。正午少し前。
私はフードを目深に被り、大聖堂前広場の群衆の中に紛れ込んでいた。
広場は、処刑を見物に来た人々で埋め尽くされていた。
しかし、そこに熱気はない。あるのは、重苦しい沈黙と、どこか怯えたような視線だけ。
皆、心の中では処刑なんて見たくないのだ。けれど、来なければ「信心が足りない」と密告されるのを恐れて、こうして立ち尽くしている。
(……気持ち悪い)
私は胸の奥で吐き気を覚えた。
私の『瞳』には、この広場を覆う異様な光景が見えていた。
あの大聖堂が、今も群集から魔力を少しずつ吸い上げているのだ。
強制的な魔力の搾取が、人々の心を押し潰し、思考を奪っている。
(……こんなの、祈られる神様だって可哀想だ)
ゴォォォン……ゴォォォン……
正午を告げる鐘が鳴り響く。
大聖堂のバルコニーに、豪華絢爛な法衣を纏った太った男――大司教が現れた。
「迷える子羊たちよ!見よ、神の正義を!」
大司教が両手を広げると、広場の中心にある処刑台がせり上がった。
そこには、木杭に縛り付けられたマリアさんとハンス司祭の姿があった。ぐったりとして意識があるかも怪しい。足元には、大量の薪が積まれている。
「彼らは悪魔に魂を売り、神聖なる教会を転覆させようとした大罪人である! よって、浄化の炎をもってその罪を雪ぐ!」
大司教が松明を掲げる。
僧兵たちが槍を構え、処刑台を取り囲む。
民衆が息を呑む。
(……今だ!)
私は大きく息を吸い込み、静まり返った広場で、ありったけの声を張り上げた。
「うわぁぁぁぁぁん!! ママぁぁぁーーッ!!」
甲高い子供の泣き声が、張り詰めた空気を切り裂いた。
民衆が驚いて振り返り、警備の僧兵たちの視線が一瞬、私の方へ向く。
「なんだ? 子供か?」
「おい、誰か黙らせろ!」
大司教が不快そうに眉をひそめ、松明を持つ手が止まった。
その、一瞬の隙。
ドゴォォォォン!!!
広場の石畳が爆ぜ、処刑台と僧兵たちの間の地面が、内側から弾け飛んだ。
地下からヘクターさんたちが支柱を破壊したのだ。
処刑台が崩れ、マリアさんたちが悲鳴と共に奈落の底へと落ちていく。
――頼んだよ、セリナ!
地下ではセリナたちが待機している。彼女の風の精霊魔術なら、人質を確実に受け止められるはずだ。
「なっ、なんだ!? 敵襲か!?」
大司教が狼狽える。
さらに、群衆の中から鋭い風が巻き起こる。
『――鋭き風の精霊よ、集いて応えよ! 見えざる刃よ、形を成せ! 敵を切り裂き、貫け!――《風の刃》!』
同じく地上班として潜んでいたヒルダさんが放った不可視の刃が、薪に点火しようとしていた処刑人の手元を襲い、松明を弾き飛ばした。
同時に、崩落した穴からヘクターさんとカイルが飛び出してきた。
「よぉ、神の使いにしちゃあ、随分と悪人面だな!」
カイルが僧兵たちを蹴散らし、広場に踊り出る。
「今よ、テオ!」
ヒルダさんの合図。
私はフードを脱ぎ捨てた。
「……行くよ!」
体内の魔力を一気に循環させる。
筋肉、骨格、神経。全てが魔力で満たされ、世界がスローモーションに見える。
『身体強化』。
私は地面を蹴った。
ドンッ! という衝撃音と共に、私は弾丸のように加速した。
「なっ、なんだあのガキは!?」
僧兵たちが槍を突き出すが、そんなものは止まって見える。
私は槍の穂先をひらりと躱し、壁のように立ちはだかる僧兵の肩を足場にして、戦場となった広場を駆ける。
マリアさんたちは無事に地下へ落ちた。あとは私たちも穴へ飛び込んで逃げるだけ。
作戦は成功だ。そう思った、その時だった。
「逃がさんぞ、異端者ども!!」
上空から、雷のような怒号が降ってきた。
ヒュオッ。
重苦しい風圧と共に、大聖堂のバルコニーから黒い影が広場へと飛び降りてくる。
ズドォォォン!!
広場の中央に、隕石が落ちたような衝撃が走った。
土煙が晴れると、そこには深々と抉れたクレーターの中心に、一人の男が立っていた。
膝を曲げることすらなく、直立不動で着地したその男は、ゆらりと首を巡らせた。
黒い法衣を纏った、見上げるごとき巨躯。
(あいつが、マリアさんを捕らえたという異端審問官、ギースか!?)
彼は穴を塞ぐように立ちふさがり、逃げ道を断った。
そして、呼吸をするように、不気味な『祈り』を口にした。
『――我は神の剣、我は神の盾なり! 迷いは無し、痛みも無し!――』
ギースの全身から、バチバチと白濁した魔力が噴き出す。
ボコォッ、グギギギッ!
法衣の下で筋肉が異常に膨張し、骨格すらもがきしみを上げて肥大化していく。露出した肌は、生き物とは思えないドス黒い金属光沢を帯び始めた。
『――この身は城壁、この拳は攻城槌!不義を討つ力を!異端を砕く剛力を!アステリアの敵を滅ぼすまで、我が足は止まらぬ!!――』
「チッ、化け物が……! カイル、やるぞ!」
「おうよ!」
ヘクターさんとカイルが同時に斬りかかる。
魔力で強化されたヘクターさんの槍がギースの喉元を、カイルの剣が心臓を狙う。岩をも砕く必殺の連撃。
しかし。
ガギィィィンッ!!!!
耳をつんざくような金属音が響き、二人の武器が弾かれた。
いや、弾かれただけではない。
「なっ……槍の穂先が……曲がった!?」
「馬鹿な……斬れてねぇどころか、刃が欠けたぞ!?」
ギースは避ける素振りすら見せず、それを「喉」と「胸板」だけで受け止めたのだ。傷一つない。
「軟弱」
ギースが退屈そうに腕を振るった。
ただの裏拳。しかし、そこから生じた風圧だけで、私の頬が切れた。
ドゴォォォッ!!
「がはっ……!?」
「ぐ、うぅ……ッ!!」
ヘクターさんとカイルが、ボールのように吹き飛ばされ、大聖堂の石壁に激突した。
ヘクターさんの重厚な鎧が、紙細工のようにひしゃげている。
「リーダー! カイル!」
「ぐ……ッ! 化け物め……! ただ硬いだけじゃねぇ……重さが桁違いだ……!」
ヘクターさんが大量の血を吐きながら、震える足で立ち上がろうとする。
私の『瞳』には、ギースの体内で循環する異常な魔力が見えていた。
常人を遥かに超える魔力を、全て「筋肉の密度」と「硬度」の強化だけに費やしている。
純粋暴力の権化。
「リーダー! 気をつけて! そいつ『基礎魔術』と『祈祷術』の両方で身体強化してる!!」
速くて、硬くて、重い。シンプルゆえに最強の暴力。
「殺せ!異端者を一人も生かして帰すな!精霊魔術の使い手も必ず捕らえろ!」
ギースの号令に、周囲の僧兵たちも呼応した。
『――我は神の剣、我は神の盾なり!――』
『――迷いは無し、痛みも無し!――』
百人近い僧兵たちが、一斉に同じ詠唱を叫び始めた。
彼らの目には理性の光がない。あるのは、盲目的な信仰と、敵を排除するという殺意だけ。
広場が、異様な狂気に包まれる。
「させないわよ!」
ヒルダさんが弓を連射する。正確無比な矢が、ギースの両目と喉を次々と射抜いていく。
だが。
キンッ、キンッ、キンッ!
矢はギースの眼球に触れた瞬間、ガラスのように砕け散った。
瞬き一つしていない。
「蚊が止まったか?」
ギースがニヤリと笑い、ヒルダさんへ向き直る。その殺気だけで、ヒルダさんの動きが止まった。
「嘘……でしょ……?」
僧兵たちが殺到し、ヒルダさんを包囲しようとする。
私も、前に飛び出した。
『身体強化』で加速した小さな体は、僧兵たちにとっては捉えどころのない弾丸だ。
「っらぁ!」
私は僧兵の懐に潜り込み、強化した足払いで体勢を崩す。
さらに別の僧兵の槍を掴み、その勢いを利用して背中へ蹴りを入れた。
「ぐわっ! なんだこのガキ、すばしっこい!」
手応えはある。でも、倒しても倒しても、すぐに立ち上がってくる。
まるでゾンビの群れだ。
その間にも、ギースはヘクターさんたちを圧倒していた。
ヘクターさんの『魔力障壁』ごと、ただの正拳突きで粉砕し、カイルの剣技を鋼鉄の皮膚で弾き返す。
このままではジリ貧だ。
私が助けに入ろうとした、その時。
「おのれ、神聖な儀式を汚すとは……!」
大聖堂のバルコニーで、大司教が顔を真っ赤にして叫んだ。
彼は杖を掲げ、全魔力を解放した。
『――天にまします我らが主、アステリアよ。此処は約束の地、汝の庭なり。光よ満ちよ、闇を払え。敬虔なる者には祝福を、不敬なる者には跪きを。大気よ、重石となりて罪人を圧せよ。何人も、神の御前にて立っていることは許されぬ――!!《神聖領域》!!』
ゴォォォォォ……!
大聖堂の尖塔から、ドス黒く濁った白い光の波――「ノイズ」が噴き出した。
それは滝のように広場全体に降り注いだ。
ズシッ。
広場にいた全ての人々が、その場に跪いた。
いや、強制的に土下座させられたのだ。
恐怖、重圧、絶対服従。空間そのものが、思考を塗り潰すような圧力を放っている。
「あ……うぅ……」
ヒルダさんが、弓を取り落として膝をつく。ヘクターさんもカイルも、地面に縫い付けられたように動けない。
私も、地面に膝をついた。体が鉛のように重い。
広場の群衆も皆、地面にひれ伏している。
逆に、その光を浴びた僧兵やギースの体は赤く発光し、筋肉がさらに膨張していく。
「神の威光が満ちる。……さあ、懺悔の時間だ」
ギースが一歩踏み出すたびに、地面が揺れる。
彼は動けないヘクターさんの前に立ち、その太い腕を振り上げた。
単純で、回避不能な、死の宣告。
万事休す。
絶望が心を支配していく。




