第87話 白亜の聖都
雪に閉ざされた宿場町を出発する朝。
私たちは、怪我で動けない若者の枕元に立っていた。
「……俺は行けませんが、これを」
彼は震える手で、懐から一つの銀色のロザリオを取り出し、私に託した。それは、マリアさんがいつも身につけていたものだった。
使い込まれ、祈りの手垢で少し黒ずんだ、安物の銀細工。けれど、どんな宝石よりも温かい輝きを放っているように見えた。
「どうして、これを僕たちに?」
私が尋ねると、若者は熱に浮かされた瞳で、けれどはっきりと答えた。
「マリア様は、自らを犠牲にしてまで、あなた方を逃がしました。……つまり、あなた方こそがマリア様の託した『希望』なのです」
彼は、私たちをただの旅人ではなく、マリアの意志を継ぐ者として認めてくれたのだ。
「首都には私達『反教会派』の同志が身を隠しています。そのロザリオは地下のアジトに入るための通行証代わりです。……それと、これが地図と合言葉です。同志たちが、きっと力になってくれるはずです」
若者は、震える手で走り書きの羊皮紙をクラウス先生に渡すと、祈るように両手を合わせた。
「お願いします……マリア様たちを、助けてください」
「任せて。必ず、助け出すから」
私はロザリオを強く握りしめ、彼の目を見て約束した。
猛吹雪が弱まった隙を突き、私たちは出発した。
険しい山道を越え、数日後。
ついに、私たちの目の前に、その巨大な都市が姿を現した。
聖教国エリュシオンの首都、聖都サンクトゥム。
巨大なカルデラのようなすり鉢状の地形。その内側斜面にへばりつくようにして、数千もの石造りの建物が並んでいる。
驚くべきは、その色彩だ。
建物も、道路も、城壁も、全てが徹底的に「白」で統一されているのだ。
中央の広場には、天を衝くような巨大な尖塔を持つ大聖堂が鎮座し、冬の陽光を反射して神々しく輝いている。
「……綺麗だな」
巡礼者のローブを纏い、顔を隠したカイルがポツリと呟く。
「ええ。ですが……何か変です」
セリナが寒気を感じたように腕をさする。
私も、同じ違和感を抱いていた。
あまりにも白すぎる。汚れ一つないその潔癖さが、かえって生き物の気配を感じさせない「墓標」のように見えたのだ。
街は、明日の正午に行われる「浄化の儀式」――つまりマリアさんたちの処刑を見物に来た人々で溢れかえっていた。
検問は厳しかったが、私たちは巡礼者に紛れ、冒険者証とクラウス先生の弁舌、そして私の「病弱な子供」の演技で無事に通過した。
街の中に入ると、その違和感の正体がはっきりした。
私の『瞳』に視える世界は、白くなどなかった。
街を行き交う人々、祈りを捧げる巡礼者たち。
彼らの胸からは、無数の小さな光――「純粋な祈り」が立ち上っていた。
それは本来、神様へと届くべき、美しく澄んだ魔力の輝きだった。
しかし。
その光は、神様へは届いていなかった。
街の中心に鎮座する大聖堂が、まるで巨大な掃除機のように、人々の祈りを根こそぎ吸い込んでいたのだ。
(……ひどい)
私は、その光の行方を目で追った。
吸い上げられた膨大な魔力は、大聖堂の地下深くに貯め込まれている。
そして、私は気付いた。
その地下深くのさらに奥底――大地そのものから、圧倒的な「光」が溢れ出そうとしていることに。
この星の鼓動のような、脈打つ温かい光。きっとあれが、この国が崇める「アステリア様」の正体だ。
その光は、地上から降り注ぐ純粋な祈りを感じ取り、それに応えようとして、優しく輝きを増しているように見えた。
まるで、「愛しい子供たちよ、力を貸してあげましょう」と、大地から手を差し伸べているみたいに。
でも、その手は届かない。
大聖堂の地下に何重にも張り巡らされた「黒い靄」が、大地と地上を分断する分厚い蓋になっていた。
神様からは、「綺麗な祈り」は見えていても、その祈りを搾取している教会の悪意は見えていない。
そして、アステリア様が善意で送り返した恩寵も、大聖堂を通して教会に横取りされ、決して民衆へは届かない。
(……騙されてる)
私は奥歯を噛み締めた。
教会は、信者たちの「純粋な祈り」を餌にして、神様を呼び寄せている。
そして、神様が善意で貸してくれた力を、掠め取って自分たちの欲望のために使っているんだ。
情報収集のため、私たちは中央広場で足を止めた。
きらびやかな法衣を纏った司祭が、壇上から熱弁を振るっている。
「聞け、迷える子らよ! 奇跡とは神からの無償の贈り物ではない。己の罪を償うための『対価』である!」
司祭の声が広場に響く。
「人は生まれながらに罪を背負っている!聖句を唱えよ! 一言一句違わず、思考を止めてただ祈れ!さすれば、その信仰心は神へ届かん!」
信者たちが一斉に跪き、一言一句同じリズムで、呪文のような祈りを捧げ始める。
すると、吸い上げられた魔力が大聖堂を経由して再分配され、数人の体に淡い光が灯った。軽い怪我や病が癒えていく。
「おお、奇跡だ……! 神よ!」
人々は涙を流して感謝し、さらに熱狂的に祈りを捧げる。
その光景を、クラウス先生が冷ややかな目で見つめていた。
「……なるほど。これが現代の聖教国が使う『祈祷術』ですか」
先生が小声で解説する。
「彼らがやっているのは魔術ではありません。集団催眠に近い宗教です。定型文の詠唱を強要することで、個人の思考を停止させ、精神を同調させる。……そして、そこから生まれた巨大な『信仰心』を、神殿という濾過装置に通して、術として再分配している」
先生は眼鏡の奥の瞳を細めた。
「かつて、この地には『神聖魔法』と呼ばれる、清らかな魂のみが扱える奇跡があったと聞きます。ですが……今目の前にあるのは、そんな高尚なものではない。他人の魔力を巻き上げて善人面をする、悪辣な宗教だ」
ヘクターさんが、不快そうに唾を吐き捨てた。
「胸糞悪い祭りだぜ。……行くぞ、テオ。長居は無用だ」
私たちはメインストリートを離れ、入り組んだスラム街へと潜り込んだ。
表通りの白さとは裏腹に、そこは汚水と腐臭が漂う、忘れられた場所だった。
指定された古びた井戸の前で、一人の老人が座り込んでいた。
私が無言で「銀のロザリオ」を見せ、合言葉を告げると、老人は私たちを地下へと招き入れた。
「わしの名はシメオン。かつてはこの街で神官をしておった。……ついてきなさい」
シメオンさんに案内されたのは、都市の地下に広がる「旧地下水路」だった。
地上は白くて綺麗だが嘘っぽい。地下は暗くて汚いが、そこには確かに「真実」を求める人々の熱気があった。
アジトの奥まった一角で、私たちは足を止めた。
そこには、太古に描かれたと思われる、煤けた壁画があった。
「……これは、聖教国の建国神話ですね」
シメオンさんが頷き、悲しげに壁画を見上げた。
「教会の教えでは、聖女エリュシア様が祈りで荒ぶる神を『鎮め』、管理下に置いたことになっている。……だが、真実は違う」
シメオンさんは、壁画に描かれた光り輝く存在を指差した。
「かつて聖女様が使っていたのは、魂の共鳴によって神と対話する『神聖魔法』だった。そこには支配も、魔力の搾取もなかった。ただ純粋な『願い』が、神の心に届いていたのだ」
壁画の中の聖女エリュシアは、神と笑顔で手を取り合っている。
そこにあるのは、互いを支配する「鎖」ではなく、互いを慈しみ合う「友愛」の姿だった。
「しかし、神聖魔法を使えるのは、清らかな魂を持つごく一部の者だけ……。権力を欲した教会は、それを嫌った」
シメオンさんの声に悔しさが滲む。
「奴らは『神聖魔法』を歴史から抹消し、代わりに誰でも形式さえ踏めば発動できる『祈祷術』を開発した。……言葉による自己暗示で精神を縛り、無理やり神から力を引き出す、冒涜的な技術をな」
私は、壁画に描かれた「アステリア様」の姿をじっと見つめた。
人の形をしているけれど、その体は光の粒の集合体として描かれている。
私の『瞳』は、壁画に残る微かな魔力の残滓――「旋律」を捉えていた。
その光の波長。
どこまでも澄んでいて、温かくて、懐かしい色。
(……似てる)
記憶の奥底が揺さぶられる。
私がこの世界に転生してくる時、暗闇の中で私を導いてくれた、あの温かくて、どこか悲しげな『声』。
そして、魔導国で出会った『泉の精霊様』や『凪と豊漁の精霊様』……彼らから感じた、純粋な自然のエネルギー。
(もしかして……アステリア様と精霊様って、同じ存在……?)
確証はない。でも、もしそうなら。 『祈祷術』も『精霊魔術』も、『言語』が違うだけで、『接続先』は同じなんじゃないか?
精霊魔術は、精霊に対して強制力のある『命令』を送って力を借りる。
祈祷術は、神様に対して下からすがりつく『祈願』を送って力を借りる。
今の聖教国は、神様を騙しているというより……人々の祈りを燃料にして、神様の力を自動的に引き出す『自動処理』を勝手に組み上げているだけなんだ。
そこに「心」の交流はない。ただの入力と出力。
(……許せない)
私の中で、マリアさんを助ける理由に加えて、もう一つ、強烈な動機が生まれた。
あの大聖堂に張られた目隠しを剥がして、神様に真実を伝えてあげたい。
さらに奥へ進むと、突き当たりに巨大な金属の扉があった。
クラウス先生が調べたところ、それは古代の「水門」か「調整弁」のようだった。
私は、扉に耳を当ててみた。
分厚い金属の向こうから、微かに、本当に微かにだけど、「水の流れる音」と、「外の風の匂い」がする気がした。
そして、そこには微弱な精霊の気配もある。
その夜。地下アジトの一室で、私たちは最後の作戦会議を行った。
「……いいか、よく聞け」
ヘクターさんが、地図の一点を指差して低い声で告げる。
「決行は、明日の正午。『浄化の儀式』が最高潮に達し、大司教が処刑の合図を出した、その瞬間だ」
作戦は大胆だった。
処刑台の下は、かつての大貯水槽の空洞になっている。
地下から支柱を破壊し、処刑台ごとマリアさんたちを「落とす」のだ。
「問題は、突入のタイミングですね」
セリナが懸念を示す。
「地下にいては、地上の様子が分かりません」
「だから、地上の『目』が必要だ。……誰かが民衆に紛れ込んで、正確な合図を送らなきゃならねぇが……」
ヘクターさんが腕を組み、渋い顔をする。武装した大人が広場にいれば、即座に怪しまれるからだ。
私は一歩、前に出た。
「僕がやるよ」
「テオ?」
「僕が先行して広場に行って、合図を送る」
「馬鹿野郎、危険すぎる!お前は守られる側だぞ。それに、どうやってタイミングを計るつもりだ?」
ヘクターさんが即座に却下しようとするが、私は引かなかった。
私には『瞳』の力がある。魔力の流れを見れば、儀式の進行具合――処刑執行の「殺気」が膨れ上がる瞬間が、誰よりも正確に分かる。
でも、それを口にするわけにはいかない。
「……分かるんだ」
私はヘクターさんの目を真っ直ぐに見上げた。
「ラクスでマリアさんが襲われた時も、港で魔獣が出た時も……僕は『嫌な予感』がした。今回も、一番危ない瞬間が肌で分かる気がする」
根拠のない言葉だ。
けれど、これまでの旅で私が示した「勘の鋭さ」を、ヘクターさんは知っている。
「それに……大人じゃ目立つけど、子供の僕なら警戒されにくい。いざとなれば、『身体強化』で逃げ切れる自信もある」
私はニッと笑ってみせた。
「ヘクターさんも知ってるでしょ?僕の『身体強化』。本気で走れば、風よりも速いよ」
私の言葉に、ヘクターさんは言葉を詰まらせた。
魔力で身体能力を強化するだけの基礎魔術だが、私の魔力で行えば、その出力は常識外れだ。純粋な「逃げ足」なら、ここにいる誰よりも上だという自負がある。
「……ちっ。可愛げのないガキだぜ」
ヘクターさんはガシガシと頭を掻き、観念したように息を吐いた。
「分ーったよ。その代わり、少しでもヤバいと思ったら即座に逃げろ。いいな?」
「うん、約束する」
「で、合図だが……」
ヘクターさんは悪戯っぽく笑った。
「ガキの特権を使え。『迷子のフリ』をして、派手に泣きわめくんだ。警備の気が逸れた瞬間、それを合図に俺たちが床をぶち破る」
「ええー……」
なんとも締まらない合図だ。でも、確かにそれなら怪しまれないかもしれない。
役割分担が決まった。
地下班は、ヘクターさん、カイル、セリナ、クラウス先生。支柱を破壊し、落下してくる瓦礫からマリアたちを守る。
地上班は、私とヒルダさん。私は合図役、ヒルダさんは遠距離からの援護と、私の脱出サポートだ。
そして――。
「相手は国だ。失敗すれば死ぬぞ」
ヘクターさんの言葉に、全員が力強く頷く。
部屋の空気が、ピリッとした緊張感に包まれる。
私は一人、天井を見上げた。
この分厚い岩盤の遥か上、大聖堂の頂に囚われている「光」に向かって、心の中で語りかける。
地上の広場で合図を送ったら、私もその穴に飛び込んで、みんなと一緒に逃げる。
「待ってて、マリアさん!」




