第85話 路地裏の診療所
灰色の街、ラクス。
夕闇が迫るスラム街の路地裏で、私たちは一人のシスターと向き合っていた。
腐敗臭と泥の匂いが漂う中、彼女だけが、清らかな空気を纏っている。
「ここは病気が蔓延しています。早く通り過ぎた方がいいですよ」
彼女は、泥だらけの顔で、私たちを気遣うように微笑んだ。
その背後には、崩れかけた礼拝堂があり、そこには数十人もの人々が、建物の影に身を寄せ合うようにして倒れている。
彼女は言い終わると、すぐに踵を返し、礼拝堂の中に戻って行った。
そこには他にも数人が忙しなく働いていた。
彼らは皆、粗末な服を着て顔を隠しているが、その動きには無駄がなく、ただの浮浪者には見えない。
その中心で、泥だらけの修道服を着たシスターが、高熱でうなされる子供の額に手をかざし、必死に祈りを捧げていた。
『――慈愛なる光よ。痛みを忘れさせ、安らぎを与えたまえ……』
掌から淡い光が溢れる。教会で見たギラギラした光とは違う、温かい色。
しかし――光が消えても、子供の荒い呼吸は治まらない。
「……どうして……熱が下がらないの……」
彼女の声が震えている。
その肩を、近くにいた初老の男性が支えた。深くフードを被っているが、その瞳には知性と深い疲労が滲んでいる。
「……マリア、もう休め。お前まで倒れたら誰が彼らを救う」
「ですが、ハンス様……!このままではあの子が……」
(マリア……ハンス様?)
会話から名前が聞こえた。どうやら、その初老の男性がリーダー格のようだ。
私は、足を踏み出した。
「……放っておけない」
私の言葉に、ヘクターさんが驚いたように眉を上げた。
「おいテオ、関わるなって言っただろ」
「でも、このままじゃあの人も、子供たちも死んじゃう!」
私はヘクターさんを見上げた。
「さっきは我慢したよ。……でも、ここなら。誰にも見られてないここなら、助けてもいいでしょ?」
私の必死な訴えに、ヘクターさんは一度天を仰ぎ、ガシガシと頭を掻いた。
「……ったく。一度言い出したら聞かねぇのは、身に染みてますよ」
彼はニカっと笑い、私の背中をバンと叩いた。
「乗りかかった船だ。とことん付き合うぜ」
「ふふ、そうこなくちゃ」
ヒルダさんも弓を背負い直す。カイルとセリナも、覚悟を決めた顔で頷いた。
「……行きましょう」
静かな声と共に、クラウス様が前に出た。
私たちが近づくと、フードの男たちが一斉に警戒の色を見せた。
「何者だ。ここは物見遊山の場所ではないぞ」
リーダー格の男性――ハンスと呼ばれた男が鋭い声で制する。
しかし、クラウス様は動じずにシスターの元へ歩み寄った。
「……その治療法では、その子は助かりませんよ」
シスターが驚いて顔を上げる。
「え……?」
「私は通りすがりの薬師です。診せてもらえますか」
男たちが止めようとするのを手で制し、クラウス様はズカズカと子供のそばにしゃがみ込んだ。
「見てみなさい。脚に大きな裂傷がある。貴女は祈祷術で、この子の生命力を活性化させ、傷を治そうとしましたね?」
「は、はい。血を止めるのが先決でしたので、必死に祈って……」
「それが裏目に出ています」
クラウス様は厳しい口調で指摘した。
「傷口に泥や汚れがついたまま、無理やり傷を再生させてしまった。その結果、中に『毒』を閉じ込めてしまったのです」
クラウス様は、赤黒く変色した患部を指し示した。
「逃げ場を失った毒が、内側で肉を腐らせている。これが高熱の原因です。……洗わずに傷を塞ぐことは、体内に毒を飼うことと同じです。それは結果として、『緩やかな死』を招きます」
シスターは呆然としていた。周りの男たちも息を呑んでいる。
きっとこの国には「細菌」や「感染症」という概念がないのだろう。「病は信仰不足」か、あるいは「悪霊の仕業」だと思われているのかもしれない。
「で、でも……清めようにも、ここには綺麗な水もありませんし……」
「ないなら、作るのです」
クラウス様は立ち上がり、私たちに指示を飛ばした。
「リーダー、カイル!可能な限り大量の水を汲んできてください!ヒルダさんとセリナは薪を集めて!どんな水でも構いません、徹底的に煮沸させます!」
「おう、任せろ!」
「了解ですわ……じゃなくて、了解!」
皆が一斉に動き出す。
クラウス様は鞄から薬草の束と、清潔な布と、ナイフを取り出した。
「テオ君、君は私の助手を。手伝えますか?」
「はい!先生」
私は袖をまくり上げ、頷いた。
そこからは、戦場のような忙しさだった。
日は完全に落ち、辺りは漆黒の闇に包まれたが、私たちが焚いた篝火が、路地裏を赤々と照らし出した。
広場に大きな鍋が据えられ、グツグツと湯が沸かされる。
先生はナイフを火で炙り、シスターに向き直った。
「……これから、一度傷を切開し、中の膿を出します。激痛を伴いますが、必要な痛みです」
「き、切るのですか!?そんな……あの子はもう十分苦しんでいます!」
シスターが悲鳴を上げる。
「待て、薬師!」
ハンスと呼ばれた男が間に割って入った。
「子供に刃物を向けるなど、正気か!」
「信じてください」
クラウス様は男を真っ直ぐに見据えた。
「痛みを与えたいのではありません。救いたいのです。……貴方がたの『祈り』だけでは届かない場所に、手を伸ばすために」
その真剣な眼差しに、男は数秒間沈黙し、やがて苦渋の表情で道を譲った。
「……マリア、彼に任せよう。我々には、もう術がない」
処置が始まった。
膿を出し、煮沸した湯で徹底的に洗い流す。
ただ泥臭く、残酷なほど現実的な「処置」。
けれど、膿が出たことで圧迫されていた痛みが引いたのか、子供の苦悶の表情が和らぎ、荒かった呼吸が少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。
全ての患者の処置が終わった頃には、東の空が白み始めていた。
「……すごい」
シスターは、信じられないものを見る目で、ようやく安らかな寝息を立て始めた子供を見つめていた。
「私たちの祈りでは届かなかった奇跡が……貴方たちの助けによって現実となりました」
「切開における処置も、薬草の効能も、他国では数多の臨床を元に実績を積んだ技術です」
クラウス様は、汗を拭いながら静かに言った。
「その効能を正しく理解し、使うこと。そして、人として当たり前の『清潔』を保つこと。それは神への背信ではありませんよ」
「……はい……っ!」
シスターの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
リーダー格の男も、深く頭を下げた。
「……救おうとしていた我々の無知こそが、彼らを苦しめていたとは……。……感謝する、異国の薬師殿」
それから数日間、私たちは宿とスラムを往復する生活を送った。
ヘクターさんとカイルは、男たちと共に力仕事で礼拝堂を修繕し、ヒルダさんとセリナは炊き出しと洗濯を徹底した。
そして私は、シスターの手伝いをしながら、彼女と色々な話をした。
ある夜、作業の手を休めて一息ついた時、私は気になっていたことを尋ねてみた。
「ねえ、マリアさん。ここにいる人たち……ただのボランティアの人じゃないよね?」
私の問いに、マリアさんは少し驚いたように目を丸くし、それから寂しげに微笑んだ。
「……テオ君には、分かってしまうのですね」
彼女は、黙々と働くフードの男たちに視線を向けた。
「彼らは皆、元々は教会の聖職者や、熱心な信徒だった方々なのです」
「やっぱり……。動きに無駄がないもん」
「ええ。ですが、彼らは教会の腐敗に絶望し、行き場を失っていました。……私は以前、大司教様に意見したことがあるのです。『神の恩寵は、貧める者にも富める者にも、等しく与えられるべきだ』と」
マリアさんは、焚き火の炎を見つめながら静かに語る。
「それが『異端の思想』だと断じられ、私はこのスラムの礼拝堂に追いやられました。……ハンス様や、ここにいる皆さんは、そんな私を見捨てず、地位を捨てて付いてきてくださったのです」
「地位を捨ててまで……」
「はい。教会本部からは『反教会派』と呼ばれ、危険分子として監視されています。だから表立って動けず、こうして隠れるように人を救うことしかできないのです」
彼女の声には、悔しさと、それでも折れない強い意志が滲んでいた。
「間違ってるよ、そんなの」
私は、思わず声を上げた。
「人を助けてるマリアさんたちが隠れて、お金を取る司祭たちが偉そうにしてるなんて……おかしいよ」
「ふふ、ありがとうテオ君。その言葉だけで、私は救われます」
マリアさんは私の頭を優しく撫でると、眠る子供たちの方へ向き直り、静かに祈りを捧げ始めた。
「――おやすみ。いい夢を。アステリアの光が、あなたたちを守りますように……」
その時だ。
私の懐の中で、ポルカが「フォン……」と温かく震え、心地よい音色を響かせた。
(……ポルカが、安心して寝ちゃった?)
私は『瞳』で、マリアさんの祈りを見た。
魔力はとても弱い。でも、その色は、どこまでも澄んだ「温かい金色」をしていた。
彼女の祈りは、一方的な「要求」ではなく、誰かに優しく語りかけるような「温かさ」に満ちていた。
(……この人は、本物だ)
私は確信した。
アステリア様が何者かは分からないけれど、マリアさんのこの祈りこそが、この歪んだ国で唯一、本当に「届いている」声なのかもしれない。
滞在四日目の朝。
重症だった子供の熱が完全に下がり、笑顔を見せるまでになった。
「お兄ちゃん、ありがとう!」
子供が、私の服の裾を掴んで笑いかけてくれた。
「よかったぁ!もう、汚い手で傷口を触っちゃダメだよ?」
「うん!」
その笑顔を見て、私はようやく肩の荷が下りた気がした。
マリアさんは涙を浮かべて、私たち全員に頭を下げた。
「クラウス先生、テオ君、皆さん……本当にありがとうございました」
「礼には及びません。これは、我々の『共闘』の成果です」
クラウス様が静かに答える。
私たちは、そろそろ潮時だと判断した。
これ以上長居をすれば、かえって彼女たちに「異邦人との密通」の疑いがかかり、迷惑をかけてしまうかもしれない。
別れ際、クラウス様は手持ちの予備の薬品と、衛生管理について記したメモをマリアさんに手渡した。
「……この国にはない概念でしょうが、目に見えない微細な生物が存在します。これを知っているだけで、救える命が増えるはずです」
マリアさんは、そのメモを聖書のように大切に胸に抱いた。
「ありがとうございます、クラウス先生。この知識は、私が命に代えても守り、広めます。……これが、多くの人を救う鍵になると信じて」
ハンスさんも、固い握手を求めてきた。
「貴殿らの恩は忘れん。……我々も、負けてはいられんな」
私は、名残惜しさを感じながらも、マリアさんに向き直った。
「マリアさん、無理しないでね。……いつか、この国のみんながマリアさんの『光』に気づく日が、絶対に来るから」
マリアさんは驚いたように目を見開いたが、すぐに花が咲くような笑顔を見せた。
「はい。……テオ君の言葉を信じます。またいつか、お会いしましょう」
朝日に照らされた彼女たちの笑顔に見送られ、私たちはラクスを後にした。
少しだけ軽くなった足取りで、東へと向かう。
この時はまだ、誰も知らなかった。
私たちが残した「知識」と、良かれと思って行った行動が、教会の逆鱗に触れ、彼女たちの運命を大きく狂わせることになるとは。




