第84話 灰色の街
国境の砦「嘆きの関所」を越え、私たちは聖教国エリュシオンの最初の街、地方都市「ラクス」に到着した。
しかし、そこに広がっていたのは、私の知る「街」の姿とはあまりにもかけ離れていた。
石造りの建物は一様に煤で黒ずみ、通りには活気がない。
行き交う人々は皆、厚手の服を着込んで背を丸め、うつむき加減に歩いている。 何より衝撃的だったのは、「暗さ」だ。
魔導国なら、夕暮れ時には見習い魔術師たちが街を巡り、街路灯に一つ一つ『光の玉』を灯して回る。
そうして街全体が温かい精霊の光に包まれるのが日常だった。
けれど、この国にはそれがない。
日が傾くにつれ、街は急速に漆黒の闇に沈んでいく。家々の窓から漏れるのは、頼りない蝋燭やランプの火だけだ。
「……まるで、数百年前に戻ったみたい」
セリナが、信じられないといった様子で呟く。
「これが、精霊魔術を禁じている国の現実か」
カイルも、周囲を警戒しながら眉をひそめる。
井戸端では、女性や子供たちが凍える手で水を汲み、重い桶を運んでいる。水の精霊魔術があれば一瞬で済む作業に、彼らは一日の大半を費やしているのだ。
(精霊魔術がないだけで、生活ってこんなに厳しいんだ……)
私は、自分がどれだけ恵まれた環境にいたのかを痛感させられた。
私たちは、通り沿いにある安宿に入った。
受付の主人は無愛想で、部屋代を請求する手だけが早かった。
「お湯を使いたいんですが」
クラウス先生が尋ねると、主人は面倒くさそうに答えた。
「銀貨一枚だ」
「高いですね。相場の五倍ですよ」
「薪が貴重なんだよ。嫌なら水で我慢しな」
私たちは顔を見合わせ、渋々銀貨を支払った。
通された部屋は薄暗く、隙間風が吹き込んでくる。小さな暖炉に薪をくべるが、部屋全体が温まるには程遠い。
「……合理的ではありませんね」
先生が、冷え切った手を火にかざしながら分析を始めた。
「精霊魔術を『神への冒涜』として禁じた結果、生産性が著しく低下しています。物流も、暖房も、衛生管理も、全てが非効率です。そのくせ、教会への『お布施』だけは義務付けられている……。これでは、民が疲弊するのも当然です」
「ああ。国全体が、ゆっくりと死に向かっているような空気だ」
ヘクターさんが、窓の外の暗闇を見つめて重く呟いた。
翌朝。
私たちは情報収集も兼ねて、街の中心にある広場へと向かった。
そこには、異様な光景が広がっていた。
広場に面した教会の前に、数十人もの人々が長蛇の列を作っていたのだ。
ゴホゴホと咳き込む老人、怪我をして血を流している男、ぐったりした子供を抱いた母親。
皆、藁をも掴む思いで、教会の扉が開くのを待っている。
やがて、重厚な鐘の音と共に扉が開き、恰幅の良い司祭が現れた。
彼は豪華な法衣を揺らし、列の先頭にいる男の前に立った。
「おお、司祭様……!どうか、この腕の痛みを……」
「よろしい。では、神への感謝の証を」
司祭が手を出した。
男は震える手で、小袋を渡す。
司祭は袋の重さを確かめると、満足げに頷き、男の腕に手をかざした。
『――慈愛なる光よ。痛みを忘れさせ、安らぎを与えたまえ――』
淡い光が灯り、男の苦痛の表情が和らぐ。これが『祈祷術』か。
「あ、ありがとうございます……!」
男は涙を流して感謝し、去っていった。
次々と治療が行われていく。しかし、私は見てしまった。
列の半ばにいた、痩せこけた母親の番が来た時のことだ。
彼女は、高熱でうなされる幼い子供を抱いていた。
「お願いします、司祭様! この子が、昨日から熱を出して……!」
「ふむ。では、感謝の証を」
母親は、ボロボロの財布から、数枚の銅貨を取り出した。
それを見た瞬間、司祭の顔から慈悲の色が消えた。
「……これだけですか?」
「す、すみません、今はこれしかなくて……でも、主人が戻れば必ず……!」
「信心が足りませんな」
司祭は冷たく言い放った。
「神の恩寵は、神への絶対的な愛に比例するのです。出直してきなさい」
「そ、そんな……! このままではこの子が……!」
母親が司祭の法衣にすがりつくが、近くにいた衛兵が乱暴に彼女を引き剥がした。
「ええい、邪魔だ! 次の者を通せ!」
突き飛ばされ、泥にまみれる母親。その腕の中で、子供が弱々しく泣き声を上げた。
(――ッ!)
私の頭の中で、何かが切れる音がした。
気づけば、私は一歩前に踏み出していた。
「待って! お金なら……!」
私が払う。そう叫んで懐に手を入れようとした瞬間。
ガシッ! 背後から、岩のような手が私の肩を掴んだ。
「……やめろ、テオ」
ヘクターさんだ。彼の声は低く、そして厳しい。
「放して! あの子が死んじゃう!」
「お前が金を出してどうする?司祭の顔に泥を塗る気か?目立つことは避けるべきだ」
「でも……ッ!」
隣を見ると、カイルも拳を震わせていた。セリナも、唇を噛んで目を逸らしている。
クラウス先生が、静かに私の耳元で囁いた。
「……今の私たちに、あの子を治す術はありません。よそ者の我々が下手に手をさしのべれば、怪しまれて目を付けられます」
そうだ。私には病気の子を治す術はない。
お金はある。薬もある。
でも、今騒ぎを起こせば私たち自身が破滅する。
目の前で苦しむ命があるのに。
助ける力を持っているのに。
何も、できない。
「……行くぞ」
ヘクターさんに引きずられる様に、私たちは教会を背にした。
遠ざかる母親の泣き声が、いつまでも耳にこびりついて離れなかった。
懐のポルカが、悲しげに「キュウ……」と小さく震えているのが分かった。
夕暮れ時。
私たちは宿に戻るため、メインストリートから外れた路地裏を通った。
そこは、スラム街だった。
腐臭と、澱んだ空気が漂う場所。
建物の陰には、教会から追い返された人々や、最初から並ぶことすら諦めた人々が、泥にまみれて横たわっていた。
その中には、朝に見かけた、あの母子の姿もあった。母親は子供を抱きしめ、うつろな目で空を見上げている。
「……アステリア様、助けて……」
「……痛い、痛いよぉ……」
虚しい祈りと、うめき声だけが響く。絶望的な光景。
私は、自分の無力さに押しつぶされそうになりながら、ただ下を向いて歩くしかなかった。
その時だ。
暗い路地の奥で、一つだけ、忙しなく動き回っている小さな影があった。
「大丈夫ですよ。すぐに楽になりますからね」
聞こえてきたのは、鈴のような、けれど芯の通った女性の声。
私は顔を上げた。
そこにいたのは、泥だらけの粗末な修道服を着た、若いシスターだった。
彼女は、泥濘に膝をつくことも厭わず、倒れている老人や子供たち一人ひとりに声をかけ、額の汗を拭い、水を飲ませている。
「……あの方は?」
彼女からは、教会で見たような豪華な光は感じられない。
けれど、彼女の周りだけ、空気が澄んでいるように見えた。
まるで、暗闇の中に灯る、小さな蝋燭の火のように。
そのシスターが、ふとこちらに気づき、顔を上げた。 私たちと、目が合った。
「……旅の方、ですか?」
彼女は、警戒する様子もなく、疲れ切った、しかし意志の強い瞳で微笑んだ。
「ここは病気が蔓延しています。早く通り過ぎた方がいいですよ」
その言葉は、自分の身よりも他人を案じる、純粋な優しさに満ちていた。
私は、直感した。
この灰色の国で、彼女は本当の「光」を知っているのかもしれない、と。




