第82話 賄賂と本音
領都を出発してから、数時間が経過していた。
私たちは、王都エレメンシアへ向かう大型の乗合馬車に揺られている。
この馬車は商人たちが共同で運行しているもので、私たち『六重奏』のメンバーは、乗客の護衛を引き受ける代わりに格安の運賃で便乗させてもらっていた。
ここまでは計画通り。
問題は、この馬車の乗り心地が、想像を絶するほど最悪だということだ。
「……うう、気持ち悪い……」
私は青ざめた顔で、馬車の壁にもたれかかっていた。
貴族用のサスペンション付き高級馬車とは違い、この武骨な大型馬車は、車輪が拾う路面の凹凸を、一切の妥協なくダイレクトに乗客の尻と三半規管に伝えてくる。
ガタン! ゴトン! ドスッ!
そのたびに、お尻の皮が悲鳴を上げ、胃の中身が逆流しそうになる。まるで洗濯機の中に放り込まれた靴下の気分だ。
(クッション……私の特製ふかふかクッション……なんで持ってこなかったの私のバカァ!)
荷物になるからと置いてきたことを、これほど後悔したことはない。
隣を見ると、セリナも土気色の顔で口元を押さえている。
「テ、テオ君、大丈夫……? 膝枕……しましょうか……うっぷ」
「セリナ姉ちゃんこそ……無理しないで……吐くなら窓の外だよ……」
二人してグロッキー状態だ。
そして向かいの席では、クラウス様が死んだ魚のような目で虚空の一点を見つめていた。眼鏡が振動でズレているが、直す気力すら残っていないらしい。
「……合理的ではありません。この振動係数は、人体の耐久構造を明らかに無視しています……設計者に問いたい、これは拷問器具ですかと……」
ぶつぶつと呪詛のような分析を呟いている。完全に思考回路がバグっているようだ。
対照的に、平気な顔をしているのがヘクターさん、ヒルダさん、カイルの三人だ。
彼らは揺れに合わせて無意識に体勢を調整しており、全く意に介していない。
「なんだお前ら、情けねぇな。こんなの揺れてるうちに入らねぇぞ」
カイルが呆れたように言いながら、干し肉をガジガジと齧っている。信じられない、この地獄のシェイク状態で食事ができるなんて、三半規管が鋼鉄でできているに違いない。
「……慣れの問題ですね。重心を低く保ち、揺れを膝で吸収するのです」
ヒルダさんが涼しい顔でアドバイスをくれるが、今の私にはそれを実践する余裕すらない。
そんな私たちの死に体を見て、同乗していた他の冒険者パーティが、ニヤニヤと下卑た笑い声を上げた。
「おいおい、見ろよあの青瓢箪とチビ。もう伸びてやがる」
「あんなんで護衛が務まんのかよ? 俺たちの足手まといにならなきゃいいがな」
柄の悪い男たちのからかいに、クラウス先生の眉がピクリと動いたが、反論する元気はないようだ。
すかさず、ヘクターさんが割って入った。
「へっ、笑ってやってくれ。こいつは腕利きの薬師だが、どうも虚弱体質でな。王都で店を開くために、俺たちが護衛兼荷物持ちとして雇われてるのさ。そこのチビと姉ちゃんは、その見習いだ」
事前に決めておいた設定を、ヘクターさんが手慣れた様子でさらりと話す。
「なるほど、薬師様ご一行ってわけか」
「へぇ、薬を持ってるなら、仲良くしとくか」
「薬師」という言葉に、冒険者たちの態度が少し軟化する。怪我と隣り合わせの彼らにとって、薬師は命綱にも等しい貴重な存在なのだ。
ふと、窓の外を見ると、はるか上空を小さな黒い点が飛んでいくのが見えた。
あの独特のシルエットは。
(あ、クロウさんだ……!)
彼は約束通り、空から私たちを見守ってくれているのだ。
(いいなぁ、クロウさん。気持ちよさそう……私も空を飛びたい……)
羨ましさと共に、空から見守られている安心感を得て、私は少しだけ吐き気を忘れることができた。
その日の夜。
馬車は街道沿いの広場に停まり、そこで野営をすることになった。
他の乗客や冒険者たちは、それぞれ火を熾して食事の準備をしている。私たち『六重奏』も、少し離れた場所に陣取った。
地面に降り立ち、焚き火の温かさに触れると、ようやく生きた心地がした。お尻の感覚も、ジンジンと痛むが存在を確認できて一安心だ。地面が揺れていないというだけで、こんなに幸せだなんて。
ヘクターさんが見張りに立ち、カイルとセリナとヒルダさんは先に仮眠をとっている。
私は、焚き火のそばで手帳に何かを書き込んでいるクラウス様の隣に座った。
クラウス様は、眼鏡に反射する炎を見つめながら、黙々と羽ペンを走らせている。
私は、ずっと聞きたかったことを、ここで聞くことにした。
「ねえ、先生」
「……なんですか、テオ君」
クラウス様は手帳から目を離さずに答える。
「正直に教えて。先生は、カエルス公爵家……私の実家から、私の『監視』を命じられているの?」
直球の質問に、ペンの動きがピタリと止まった。
クラウス様はゆっくりと顔を上げ、私を見た。その瞳は、炎の明かりを映して揺らいでいる。
「……勘ぐりすぎですよ。私はあくまで、未知の魔力現象と精霊の調査が目的です。研究者としての知的好奇心ですよ」
表情を変えず、淡々とはぐらかす。いつもの「仮面」だ。
でも、今の私には分かる。この人は、ただの任務だけでここまで付いてくるような人じゃない。
私は、懐から小さな包み紙を取り出した。
「ふーん、そっか。……じゃあ、これあげない」
焚き火の光に照らされた、茶色い小さな塊。
クラウス様の目が、磁石に吸い寄せられるように釘付けになった。
「……それは」
「『生キャラメル』。口に入れた瞬間、とろけちゃう極上の甘味。この間のよりも、ミルクをたっぷり使った自信作なんだけどなぁ~」
私は包み紙を少し開き、甘い香りを漂わせる。
「今日の馬車の旅、疲れたなぁ。甘いもので脳みそに栄養あげないと、明日も辛いだろうなぁ」
クラウス様が、ごくりと喉を鳴らすのが聞こえた。
彼があの時、私のキャラメルを食べて一瞬だけ見せた「素の顔」。あれ以来、彼が甘いものに目がないことはバレバレなのだ。
「……卑怯な交渉術ですね」
「へへへ、使えるものはなんでも使えって、カイルに教わったもん!」
クラウス様は観念したように深いため息をつき、震える手を差し出した。
「……取引成立です」
私はニッと笑って、キャラメルを彼の手のひらに乗せた。
クラウス様は神聖な儀式のように包みを開け、キャラメルを口に放り込む。
途端に、その眉間の皺がほどけ、恍惚とした表情が浮かんだ。
「……んん。……濃厚な甘みと、鼻に抜ける焦がしバターの香り……これです、この味……」
研究者の顔が完全に崩壊している。
「どうやって作ったのですか? 前回のものより滑らかさが段違いです。火加減ですか?」
「ふふーん! 企業秘密! 他にもプリンとかシュークリームとか、お菓子のレシピなら山ほど知ってるんだから!」
私がドヤ顔で胸を張ると、クラウス様はハッとして我に返り、咳払いをして眼鏡を直した。
「……コホン。……理解できませんね」
彼は、真面目な顔に戻って私を見つめた。
「それだけの知識があれば、レシピを売るだけで一生遊んで暮らせる巨万の富が築けるでしょう。なぜ、わざわざ身分を捨て、こんな危険な旅に自ら飛び込むのです?」
それは、監視対象としてではなく、一人の人間としての純粋な疑問のように聞こえた。
私は焚き火を見つめた。パチパチと爆ぜる火の粉が、夜空に吸い込まれていく。
「『泉の精霊様』と『豊漁と凪の精霊様』に頼まれたから……っていうのもあるけど」
私は膝を抱え、静かに答えた。
「私の歌で、誰かが救われるなら。瘴気を払って、みんなが笑って暮らせる世界を守れるなら……それが、私がここにいる意味だと思うんだ」
一度死んで、拾った命。
前世では、仕事に追われ、過労で倒れて……何も成せぬまま終わってしまった命。
でも今も歌える喉がある。支えてくれる仲間がいる。
だったら、後悔しないように使い切りたい。もう二度と、「やり残した」なんて思いたくないから。
「……子供とは思えない、達観した考えですね」
クラウス様がポツリと漏らした。
「でも、嫌いじゃありませんよ。その無謀な使命感」
クラウス様は少しだけ口元を緩めると、手帳をパタンと閉じた。
「……カエルス公爵家からの命令は、確かに『監視』でした。彼らはあなたの特異な力を危険視し、あるいは利用しようとしています」
彼は、小さな声で、でもはっきりと告げた。
「ですが、私がここにいるのは、私の意志です。あなたのその『使命』がどこへ行き着くのか……この目で見届けたくなったのです」
それは、彼なりの「共犯者宣言」だったのかもしれない。監視者ではなく、観測者として、あるいは協力者として。
「ありがとう、先生」
私が笑うと、クラウス様は照れくさそうに顔を背けた。
「……礼には及びません。賄賂の分は働くだけです。さあ、もう寝なさい。明日は山越えです、さらに道が悪くなりますよ」
「ええーっ!? まだ悪くなるの!?」
私の悲鳴が、夜の野営地に吸い込まれていった。
お尻の受難は、まだまだ続きそうだ。




