第78話 【幕間】理の崩壊
まさか私が、こんな辺境に派遣されるとは。
カエルス公爵からの命令とはいえ、あの「妄言」を確かめるためだけに、この私が。
私はクラウス・フォン・ベルンシュタイン。
ベルンシュタイン子爵家の次男であり、魔導院の一等魔導官だ。
元来、家督を継ぐのは優秀な兄の役目だった。
だが、兄は魔獣討伐で戦死した。
急遽、跡取りとなった私は、亡き兄の代わりに家を支え、盛り立てねばならなかった。
失敗は許されない。
私は必死に魔導学を修め、最短で一等魔導官へと上り詰めたのだ。
だというのに。将来を嘱望され、「公爵の懐刀」などと呼ばれるまでになったこの私が、なぜこんな何もない田舎で、幼い少女の監視などという任務に就かねばならないのか。
これは、必死にしがみついてきた出世街道からの脱落を意味するのではないかという焦りが、常に私の心を苛んでいた。
私の人生は、常に合理性と秩序の上に築かれてきた。
それが、この泥臭く非効率な辺境で、根底から揺さぶられることになるとは、夢にも思っていなかった。
最初の評価は、単純だった。
ゼノン令嬢は、単なる情緒不安定な少女。もしくは、辺境貴族が王都の関心を引こうと仕組んだ狂言か、どちらかだ。
そう結論づけていた。あの農村での出来事が起きるまでは。
あの北の森の「歪み」、あの魔獣の変異。
私の『魔力感知』は、異常な魔力変動を捉えていた。既存の魔導学では説明がつかない、未知の現象。
だが、あの少女の歌が、全てを鎮めた。
……あり得ない。歌が魔力に干渉する?
言霊魔術の理論は知っているが、あれとは根本的に異なる。
詠唱も術式構築もない、純粋な魔力の奔流……。
そんなものが実在するなら、我々の魔導学は基礎から書き直さねばならない。
そして、極めつけはあの泉での出来事だ。
私の『魔力感知』は、完全に限界を超えた。視覚、聴覚、全ての感覚が、許容量を超えた情報に悲鳴を上げた。あの純粋で、しかし測り知れない高密度の魔力体。……あれが、本当に『精霊』だというのか?
「馬鹿な。お伽話の存在が……本当に……!?」
あの時、私は確かにそう口走った。
学者としての誇りも、冷静さも、全てが崩れ去った瞬間だった。
あれは、ただの魔力体ではない。『意思』と『知性』を持った、高次の存在。……神話の時代に戻ったとでも言うのか?
魔導院の教育では、古代精霊魔法は「不確定な精霊のご機嫌に頼る、不安定で危険な旧技術」だと教えられてきた。
大厄災の時代、人類はその不安定さゆえに滅亡の危機に瀕し、それを教訓として、自らの意志で魔力を制御する、合理的で安全な「現代魔術」を体系化したのだと。
だが、目の前の現実はどうだ?
あの泉に現れた精霊は、不安定どころか、高度な知性と理性、そして現代魔術を遥かに凌駕する力を持っていた。我々の最新鋭の測定器など、彼女の前では玩具も同然だった。
そして「浸蝕者」。
魔導院が「過去の神話的脅威」として片付けていた存在が、今もなお、我々の感知し得ない場所で、世界を蝕んでいるというのか。
私が絶対の真理だと信じ、積み上げてきた「現代魔術の優位性」は……井の中の蛙の、驕りご高慢だったのか?
ゼノン令嬢はたしかに言った。『浸蝕者』だと。そして、遥か東の火山で力が強まっていると。
……まさか、あの少女の『妄言』が、全て真実だとでも言うのか?
私の積み上げてきた魔導学の常識が、音を立てて崩れていく。
あの夕暮れ。中庭で歌を口ずさむ少女の横顔に、私は目を奪われた。
森の泉で舞うその所作は、まるで水そのもので……。合理性など、微塵もない。だが、私の心は確かに、揺さぶられた。
魔力量でも、術式の構成でもなく、ただ、その存在そのものを「美しい」と思ってしまった。
「幼い少女の監視」という任務を超え、一人の人間として、彼女に惹かれている自分がいることを、認めざるを得なかった。
そういえば、以前、彼女がくれた「キャラメル」という菓子があったな。あの甘さは……疲れた身体に、確かに染み渡った。また、食べたいと……そう、感じてしまった。
カエルス公爵には何と報告すればいい?
机に向かい、ペンを執るが、手が進まない。
「精霊が顕現し、世界が危機に瀕している」とでも?
そんなことを言えば、カエルス公爵からは切り捨てられ貴族派閥からも追放されかねない。
我が子爵家にも累が及ぶだろう。
やっとの思いで手にした地位も、家の将来も、全て失うことになる。
公爵は言った。
孫娘であるゼノン令嬢の血統魔法『調律』の調査が真の目的だと。
だが、蓋を開けてみれば、魔導国の常識全てがひっくり返るような出来事ばかりではないか。
公爵は、何かを知っていて私を派遣したのか?それとも、彼もまた、真実を知らないのか?
私は魔導官であり、ベルンシュタイン家の子息。この身を捧げ、カエルス公爵家に仕えるのが私の使命だ。兄の代わりに、家を守らねばならないのだ。
だが……目の前の現実を無視することは、学者として、人間として許されるのか?
あの日、泉から戻ったゼノン令嬢は両親に、浸蝕者の脅威が迫っているであろう火山に行かせろと熱弁していた。
その声には、迷いがなかった。己の使命を信じ、危険な場所へ自ら赴こうとする、強い意志が込められていた。
……彼女は、迷っていない。それに比べて、私はどうだ?組織の顔色を窺い、保身のために真実から目を背けようとしている。
私は、自分の胸に手を当てた。そこにあるのは、魔導院のバッジだ。私が血の滲むような努力で手に入れた、エリートの証。
だが、合理性とは、現実を直視することから始まるはずだ。 ならば、私の取るべき行動は……。




