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第76話 嵐の前の静けさ

 北部農村の森の出来事から、数日が過ぎた。


 農村の異変に関する調査は、クラウス様が「持ち帰ったデータの詳細な分析が必要」として一時中断しており、城内には嵐の前の静けさのような空気が漂っていた。


 そんなある日の早朝。訓練場には、今日も元気な掛け声と悲鳴が響き渡っていた。


「せいっ!はぁっ!……くぅっ、当たらない!」


 私は身軽な訓練着で身を沈め、身体強化で全身をバネのようにして、お爺様に突っ込んでいく。


 お爺様も素手だ。今日は武器を持たない、純粋な体術と魔力制御の訓練なのだ。


「甘いわ!力任せに突っ込むなと何度言ったら分かる!」


 お爺様は私の突きを最小限の動きでかわすと、カウンターのデコピンを私の額にお見舞いした。


「あうっ!」


 私は派手に後ろへ転がった。


「今だ、セリナ!」


「は、はいっ!たぁーっ!」


 私の隙を突いて、カイルが正面から、セリナが背後から同時に仕掛ける。二人とも動きは悪くない。


 しかし、お爺様はまるで背中にも目があるかのように、カイルの拳を掌で受け流し、同時にセリナの蹴りをひらりと避けた。


「連携が雑じゃ!呼吸を合わせんか!」


 ドカッ、バキッ、という鈍い音と共に、二人もまとめて投げ飛ばされた。


「うぐっ……くそっ、先代様強すぎだろ……!」


「も、申し訳ありません……面目次第もございません……」


 私たちは三人仲良く地面に大の字になった。やっぱり、先代辺境伯は伊達じゃない。


「ゼェゼェ……。あー、疲れた」


 訓練後の休憩時間。私たちが木陰で息を切らせていると、訓練場の屋根の上でサボっていたクロウが、あくびをしながら降りてきた。


「カァーッ。朝っぱらから元気だねぇ、お前ら」


「あ、クロウ様。見てらしたの?」


 私がとっさに外面を作り、体を起こすと、クロウは面倒くさそうに翼を振った。


「今更そんな畏まった喋り方しなくていいぜ?お転婆嬢ちゃん。うるさくて目が覚めちまったよ。……しっかし、爺さん相手によくやるぜ」


 クロウの立派な黒い翼を見ていると、ふと好奇心が湧いてきた。


「じゃあ、クロウさんって呼びます。その翼で、私を乗っけて飛ぶことってできます?」


「あぁん?カァッ!?勘弁してくれ、お嬢ちゃん」


 クロウは嫌そうに顔をしかめた。


「俺は人間のガキを運ぶ趣味はねぇよ。重いし、うるせぇし、ロクなことがねぇ」


「えー、ケチ。じゃあ、獣王国ってどんなところなのか教えてくれますか?」


「ケチ言うなっ。獣王国な……ここよりずっと騒がしくて、力が全ての国さ。弱肉強食、それが掟だ」


 クロウは少し遠い目をして、短く答えた。その瞳の奥に、一瞬だけ鋭い光が宿ったのを私は見逃さなかった。


 故郷を懐かしんでいるのか、それとも嫌な思い出があるのか、今の私にはまだ読み取れない。


 ふと、クロウが真顔で私に問いかけてきた。


「……なぁ、お嬢ちゃん。あんた、貴族だろ?なんで俺みたいな『獣人』を嫌わねぇんだ?」


 私はきょとんとしてしまった。


「え?なんでって……だってクロウさん、面白いし、翼かっこいいじゃない。種族なんて関係ありません」


 私は隣でへばっているセリナとカイルを見た。


「セリナだって、カイルだって、血の繋がりはないけど、私の大切な家族です。それと同じだよ」


 クロウは少し驚いたような顔をして、フンと鼻を鳴らした。


「……変わったお貴族様もいたもんだな。ま、嫌いじゃねぇぜ、そういうの」


 彼はニヤリと笑って、私の頭をポンと撫でた。


 休憩を終え、私はクロウを誘うことにした。


「そうだ、ペトラの様子見てこなくちゃ。ずっと工房にこもってるの。クロウさんも一緒に行かない?」


「あぁ?俺はパスだ。埃っぽいのは御免だぜ」


「あら、残念。王都でも見たことのない珍しい物が見られるかもしれませんよ」


「……王都にないもの?」


 クロウの片眉がピクリと跳ねた。情報屋としての勘が働いたようだ。


「……ほう。ま、暇つぶしにはなるか」


 クロウは渋々といった様子を装ってついてきてくれた。


 ブロック親方の工房に入ると、そこは相変わらずの混沌ぶりだった。図面と工具が散乱し、機械油と金属の匂いが充満している。


 工房の奥の作業机では、ペトラが何やら奇妙なラッパのような形の機械と格闘していた。


「うーん、ここの曲線が……あ、パスティ!来てたの?」


 顔に油汚れをつけたペトラが、私たちに気づいて顔を上げた。


「うん、様子を見にね。……あ、紹介するね。こちら、王都から来てる調査員のクロウさん」


 私が紹介すると、クロウは工房の中を見回して口笛を吹いた。


「へぇ。面白ぇガラクタ作ってんじゃねぇか」


「ガラクタじゃないよ!」


 ペトラが頬を膨らませて抗議する。


「これは音を記録する『蓄音機』の試作品!こっちは音を遠くまで飛ばす『魔導スピーカー』!パスティのアイデアなんだから!」「ほう?音を記録、ねぇ……」


 クロウは興味深そうにラッパ型の機械を覗き込んだ。


「王都にも奇妙奇天烈なものが多いが、こんな辺境にも面白そうなもんがあるんだな。……こいつは、使いようによっちゃ化けるぜ」


「王都の奇天烈なものの話をもっと詳しく!」


 あ、ペトラに捕まったわねクロウさん。ご愁傷様。


 工房ではしばらく、技術屋と情報屋のおしゃべりに花が咲いた。



 その日の夕暮れ時。 私は一人、中庭に出て歌を歌っていた。


 先日の森での戦闘は、私にとって大きな経験だった。


 これまでやってきた大規模な浄化だけじゃなく、私の歌は、襲ってくる魔獣の瘴気をその場で、すぐに弱めることもできた。


 でも、この力をもっと実戦的な「守る力」として使えないかなあ、などとぼんやり考えながら、夕焼けだからお家に帰ろうと、前世のどこかで聞いたような歌を口ずさむ。


 歌い終わってふと気配を感じて振り返ると、回廊の柱の陰にクラウス様が立っていた。


 彼は少し疲れた顔をしていたが、私の歌を聞いて足を止めていたようだ。


「あ、クラウス様!」


 私が声をかけると、彼はバツが悪そうに眼鏡の位置を直した。


「……失礼。少し、耳に入ったもので」


 私は彼に駆け寄った。聞きたいことが山ほどあったのだ。


「あの、こないだの氷の魔術、すごかったです!アルフレッド先生からは水や風の魔術は教わりましたけど、氷の精霊魔術があるなんて初めて知りました!」


 私は目を輝かせて質問攻めにした。


「あれって、水の精霊魔術とは違うんですか?どうやって氷を作ってるんですか?なんで使える人が少ないんですか?」


 クラウス様は私の勢いにたじろぎつつも、学術的な質問には真面目に答えてくれた。


「……いいですか。一般的に氷の精霊魔術は水の精霊魔術の亜種とされていますが、術式構成は根本から異なります。単に水を操るのではなく、大気中の熱を急速に奪取し、固定化するプロセスが必要で、非常に高度な魔力制御が求められるため、習得者が少ないのです」


 彼は早口で専門的な解説を始めた。さすが魔導院のエリート、知識量がすごい。


「へぇー、なるほど!熱を奪う、かぁ……」


 一通り質問に答えてもらった後、私はポケットから小さな包みを取り出した。


「教えてくれてありがとうございます、クラウス様!こちらお礼です」


「……これは?」


 クラウス様は警戒した様子で包みを見る。


「私がペトラに頼んで作ってもらった『特製コンロ』で、つきっきりで温度調節を頑張った、秘蔵レシピの『生キャラメル』!口に入れた瞬間に溶ける自信作です。疲れてる時は甘いものが一番です、ぜひご賞味下さい」


 私は無理やり彼の手のひらにキャラメルを乗せた。 クラウス様はしばらく包みを見つめていたが、意を決したように口に入れた。


 瞬間。彼の鉄面皮が、ほんの一瞬だけ、とろけるように崩れた。


「……んッ!」 


 彼はハッとして、すぐに元のすました顔に戻った。


「……疲労回復には糖分が有効です。……悪くない味ですね」


 そう言って、彼は眼鏡を直しながらそっぽを向いた。


「……あの」


「はい?」


「……もう一つ、ありませんか?」


「えっ?」


「い、いえ!何でもない!失礼する!」


 クラウス様は真っ赤になって、逃げるようにそそくさと立ち去ってしまった。その耳が、夕焼けよりも赤くなっているのが見えた。


 嵐の前の、ほんのひと時の穏やかな時間。 少しだけ、みんなとの距離が縮まった気がした一日だった。

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