第75話 蠢く泥
私たちは馬車を降り、村人が恐れる北の森へと足を踏み入れた。
今回の調査メンバーは、私、セリナ、お爺様、辺境伯家の護衛兵団から選抜された精鋭数名と、その中に混じって兵士見習いのカイル。そして、クラウス様が率いる魔導院の調査チームだ。クロウ様は上空からの偵察のために先行している。
森の中は、異様だった。 鳥のさえずり一つ聞こえない、不気味な静寂。木々の葉は緑色を失い、灰色にくすんでいる。空気が重く、湿った土と、何か腐ったような嫌な臭いが鼻をつく。
「……これは、ひどいな」
お爺様が険しい顔で呟く。カイルたち護衛兵も、油断なく周囲を警戒している。
一方、クラウス様たち魔導院チームは、別の意味で混乱していた。
「クラウス様!計器が……計器が異常な数値を!」
部下の魔導師たちが、手に持った測定器を見ながら慌てふためいている。
クラウス様自身も、懐から取り出した自分の測定器を睨みつけていた。針はデタラメに振れ、使い物にならない。
「……落ち着きなさい。計器の故障か?いや、あり得ない。魔導院の最新機器だぞ……」
彼は冷静さを保とうとしているが、その声には焦りの色が滲んでいた。
「カァ……。おい、エリート様方。こっちだ」
その時、上空からクロウ様が降りてきた。
「教科書にゃ載ってねぇ光景が広がってるぜ」
クロウ様の案内で、私たちは森の奥の、少し開けた場所に出た。
その光景を見た瞬間、全員が息を呑んだ。
そこだけ、世界が切り取られたように「歪んで」いた。
蜃気楼のように揺らめく空間の中心から、タールのようなドス黒い泥――高濃度の瘴気がじわじわと滲み出し、周囲の草木を枯らし、色を奪っている。
「なっ……これは……!」
クラウス様が絶句する。測定器は完全に沈黙した。部下たちは恐怖に顔を引きつらせ、後ずさる。
私の『瞳』には、その歪みから、聞くに堪えない不協和音が絶えず響き渡っているのが視えた。
ブモォォォッ!!
その時、森の茂みから、一頭の巨大な魔獣が飛び出してきた。
鎧猪だ!全身を黒曜石のような硬い甲殻で覆われた、生ける重戦車のような魔獣。
鎧猪は、何かに追われるようにパニック状態で走り出し、あろうことか、歪みから滲み出す黒い泥に足を取られた。
――次の瞬間、悪夢のような光景が繰り広げられた。
「ギィィィェェェッ!!」
鎧猪が苦悶の絶叫を上げる。黒い泥が生き物のように体にまとわりつき、その強固な甲殻がメキメキと音を立てて赤黒く変色し、刺々しく歪んでいく。双眸は赤く濁り、口からは紫色の涎が垂れ流される。
目の前で、普通の魔獣が、瘴気に汚染された禍々しい「異形の怪物」へと変貌したのだ。
「ひっ……!?」
調査員の一人が腰を抜かして悲鳴を上げる。
変異した鎧猪は、狂気に満ちた赤い目で私たちを睨みつけると、凄まじい勢いで突進してきた!
「総員、構え!!」
「させねぇよ!」
お爺様が一喝し、カイルと兵士たちが前に出て盾を構える。
ドォォォン!!
激しい衝突音が響く。強化された甲殻の突進力は凄まじく、防御陣形が崩壊寸前だ。槍で突いても、硬い甲殻に弾かれてまともなダメージが入らない!
その時、呆然としていたクラウス様が、弾かれたように前に出た。
「……クッ!護衛も任務のうちです!」
クラウス様は一瞬たじろいだが、すぐに眼鏡の位置を指で押し上げ、冷徹な魔導師の顔に戻った。彼は左手を突き出し、複雑な印を結ぶ。
「凍てつく大気の精霊よ、集いて応えよ!冷徹なる鎖よ、形を成せ!我が敵の四肢を、氷結させ拘束せよ!――《氷結鎖縛》!!」
(えっ、氷の精霊魔術!?氷雪系最強ってこと!?)
クラウス様が杖を振るうと、周囲の空気が急速に冷却され、白い冷気が渦を巻いた。
バキキキキッ!
鎧猪の足元の地面から、巨大な氷の棘と鎖が突き出し、その四肢を瞬時に凍結させて動きを封じた!
「今だ!やれ!」
お爺様の号令で、護衛兵たちが一斉に攻撃を仕掛ける。 しかし、次の瞬間。
バリィィィン!!
凍りついたはずの鎧猪が、痛覚が麻痺しているのか、自身の足の肉が引きちぎれるのも構わず暴れ、力ずくで氷の拘束を砕いてしまったのだ!
「なっ……バカな!私の氷を、力ずくで!?」
クラウス様が驚愕に目を見開く。物理も精霊魔術も効きにくい。このままでは全滅する!
私は、護衛兵の後方で大きく息を吸い込んだ。
(これじゃダメだ!私があの瘴気を払わなくちゃ!)
私は、心を鎮め、浄化の願いを込めて即興で歌い始めた。
『――清らかなる風よ 淀みを払い 命の息吹を ここに取り戻して――』
歌声が響き渡ると同時に、胸元のポルカが熱を帯びた。
ドクン、ドクン。
私の心臓の鼓動とリンクするように、激しく脈打ち、眩い光を放った!
ポルカの光の粒が、私の歌に乗った魔力を核として爆発的に増幅される。可視化された光の波紋は、鎧猪にまとわりつく赤黒い瘴気を一瞬で霧散させていく。
「ギィッ……!?」
瘴気が薄れたことで、猪の動きが鈍った。
「今だ!カイル、首を狙え!クラウス殿、奴の足元を再度凍らせろ!」
お爺様の号令が飛ぶ。
クラウス様は一瞬躊躇したが、すぐに体勢を立て直し、再び氷魔術で猪の足を封じた。今度は砕かれない。
「うぉぉぉっ!でやぁぁぁっ!!」
カイルが渾身の力で剣を振るい、甲殻の隙間である首元を正確に斬り裂いた。
ドサッ……。
巨体が地に伏す。
すると、猪の体を覆っていた赤黒い変異が、嘘のようにスーッと引いていき、後には普通の鎧猪の死骸だけが残された。
私の歌の影響なのか、歌い終わると同時に、空間の「歪み」も霧が晴れるように消えて無くなった。
「……纏わりついていた泥が、消えた?ただの鎧猪に戻ったのか?」
クラウス様は呆然と死骸を見つめ、震える手で眼鏡を直した。
彼は私を見て、その極端な魔力放出に気が付いたのか、顔が一瞬だけ引きつるのが分かった。
(しまったっ!咄嗟のことだったとはいえ、クラウス様の前で歌とポルカの力を見せてしまった!)
「……これは、未知の新種の寄生生物による、一時的な凶暴化でしょう。ええ、神経毒による錯乱です。サンプルが消失した以上、未知の魔力現象とは断定できません。断定できませんとも」
目の前の非現実的な光景に動揺しつつも、彼は早口でまくし立て、必死に自身の論理にしがみつこうとしていた。
「違います!あれは、普通の魔獣が瘴気に汚染されて変わってしまった姿です!」
私が反論しても、彼は頑なに首を横に振るだけだった。けれど、眼鏡の奥の瞳が揺らぎ、その指先が微かに震えているのを、私は見逃さなかった。
私たちは、疲労困憊で村へと撤退した。 馬車に戻るクラウス様の背中は、行きよりもずっと小さく見えた。




