第70話 邂逅
王都到着の翌日。
私たちは、レオ兄様とギル兄様が待つ「王立魔導学園」へと向かっていた。
昨日のカエルス家による襲撃事件を受け、父上は朝一番で王宮へ「正式な抗議」と「魔導王陛下への謁見の日時確認」に向かった。
そのため、今日の学園訪問は、母上、アルフレッド先生、セリナ、そして護衛のカイルたちと共に、厳重な警戒態勢での移動となった。
馬車の中で、私は昨日の母上の圧倒的な強さを思い出し、少しだけ気が大きくなっていた。
「もしまた悪い人が来ても、今度は私が撃退してやりますわ!」
私が小さな拳を握って意気込むと、隣のセリナがクスクスと笑った。
「頼もしいですわ、パスティエール様。ですが、いざという時はセリナにお任せください」
「ふふ。意気込みは買いますが、まずはわたくし達の後ろに隠れていなさいな」
向かいの席の母上が、優雅に微笑んで私の頭を撫でた。その笑顔は、昨日の騒動の片鱗など微塵も感じさせない、いつもの優しい母上のものだった。
やがて、馬車は学園の正門前に到着した。
「すっげぇ……これが学園かよ」
先に降りたカイルが、ぽかんと口を開けて見上げている。
目の前に広がるのは、それ自体が一つの街のような、巨大な学園都市の入り口だった。
大理石で作られた壮麗な門の向こうには、緑豊かなキャンパスと、大小様々な研究棟や尖塔が立ち並んでいる。
辺境の砦のような領都とは、何もかもが違っていた。
「ここが、お兄様たちが通っている場所……」
私も緊張した面持ちで馬車を降りる。
すると、門の向こうから、見慣れた二人の人影が駆け寄ってきた。
「パスティ! 母上!」
「おう! よく来たな、パスティ!」
学園の紺色の制服に身を包んだ、レオナルド兄様とギルバート兄様だ!
「レオ兄様! ギル兄様!」
私は思わず駆け出し、二人に飛びついた。
レオ兄様は14歳になり、少し背が伸びて、眼鏡が似合う知的な美少年に成長していた。ギル兄様は12歳で、相変わらず筋肉質で元気いっぱいだが、その笑顔は以前より少しだけ大人びて見えた。
「久しぶりだね、パスティ。手紙は読んでいたけれど、やっぱり直接会うのが一番だ」
レオ兄様が優しく私の頭を撫でてくれる。
「へへっ、また少しデカくなったか? なあ、俺の新しい剣技、見てくれよ!」
ギル兄様は早速、腰の木剣を抜こうとして、レオ兄様に「こら、ここではダメだよ」と止められている。
二人の変わらない様子に、私は昨日の恐怖も忘れて、心の底からホッとした。
感動の再会も束の間、ギル兄様の視線が、私の後ろに立つカイルに向けられた。
「あん? 誰だ、その目つきの悪いチビは」
「あぁん? 誰がチビだ!」
バチバチと視線がぶつかり合う。
カイルは辺境育ちの野生児、ギル兄様は直情型の熱血漢。
相性は最悪だ。
「カイルは私の新しい専属護衛ですわ! 仲良くしてくださいね!」
私が間に割って入ると、二人は「フンッ」と同時にそっぽを向いた。やれやれ、前途多難だ。
その後、私たちは兄たちの案内で学園内を見学することになった。
広大なキャンパスには、様々な属性魔術の演習場や、ゴーレム工学の研究棟、薬草園などが整備されており、どこも活気に満ちていた。
すれ違う学生たちは、皆、真剣な眼差しで議論を交わしたり、高度な魔術制御の練習をしたりしている。
「すごい……みんな、すごく難しいことをやっているのね」
私が感心すると、レオ兄様が苦笑して、少し声を潜めた。
「ここは国内最高峰の研究機関でもあるからね」
私の『瞳』には、彼らの魔術は、複雑な数式や図形のように整然としているが、ちょっと息苦しさを感じているように見えた。
そんなことを考えながら、人気のない回廊を歩いていた時だった。
「――おや。こんなところに、愛しい孫たちが揃っているとは。嬉しい偶然だね」
背後から、上品だが、どこか湿り気を帯びた声がかけられた。 振り返ると、そこには数人の取り巻きを引き連れた、老人が立っていた。
完璧に仕立てられた銀糸のローブ。整えられた銀髪と、その隙間から覗く、笑っていない狐のような細目。
「……お父様。何の用でしょうか」
母上が、私を庇うように前に出て、冷ややかに問いかける。
やはりカエルス公爵!
昨日の今日で、まさか本人が直接現れるなんて!
これが私のもう一人のお爺様……。
しかし、カエルス公爵は母上を無視し、その細められた目を、真っ直ぐに私に向けた。
「何、孫娘の顔を見に来ただけだよ。……初めまして、パスティエール。私が祖父だ」
彼は、ゆっくりと私に歩み寄ってくる。
その一歩ごとに、私の心臓が早鐘を打つ。怖い。本能が、この男は危険だと警鐘を鳴らしている。
「……ごきげんよう、閣下」
私は精一杯の虚勢で、カーテシーをした。
カエルス公爵は満足げに頷き、私の肩に手を置こうとした。
――その瞬間。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
体が、動かない。
声が出せない。
まるで、体内の魔力が強制的に「鎮静化」され、凍りついてしまったかのようだ。
(これって……まさか……!?)
私の『瞳』には、カエルス公爵の指先から、黒いタールのような粘着質の魔力の糸が伸び、私の全身に絡みついているのが視えた。
血統魔法『調律』。
母上が使う、場を整える美しい旋律とは違う。これは、相手の魔力を強制的に支配する、悪意に満ちた「呪縛の旋律」だ!
「おや、顔色が悪いな。長旅で疲れているのだろう。私の屋敷で休むといい」
カエルス公爵は、動けない私の肩を抱き寄せ、連れ去ろうとする。
「なっ……パスティを離せ!」
「妹に何をする!」
異変に気づいたレオ兄様とギル兄様が駆け寄ろうとするが、取り巻きの教授たちが立ちはだかり、「公爵閣下のご厚意だ、控えなさい」と圧力をかける。
「お父様、その手を離しなさい!」
母上の体から、再び紅蓮の魔力が立ち上りかける。だが、ここは学園の中。昨日と同じような騒ぎを起こせば、今度こそ私たちが不利になる。カエルス公爵はそれを計算に入れて、この場所を選んだのだ。
私は、助けを求めるように母上を見たけれど、魔力が練れない、声が出せない。
胸元のポルカが、必死に熱い光を放って、この黒い糸を焼き切ろうとしているのが伝わってくる。でも、相手の拘束力の方が強い!
(負けない……! こんな理不尽、絶対におかしい!)
私が歯を食いしばって抵抗しようとした、その時だった。
――ドォォォォォン!!!
回廊の外にある中庭に、隕石が落ちたような轟音が響き渡った!
土煙が舞い上がり、学園中の窓ガラスがビリビリと震える。
「な、何事だ!?」
カエルス公爵の取り巻きたちが慌てふためく中、土煙の中から、一つの巨大な影が立ち上がった。
それは、身長3メートルはあろうかという、巨躯の熊の獣人だった。
全身を覆う厚い毛皮の上から、武骨な革鎧を纏い、その背中には丸太のような巨大な戦斧を背負っている。
その獣人は、ニヤリと笑うと、腹の底に響くような大声で笑った。
「ガハハハハハ!! なんだなんだ、湿気臭いと思ったら、古狸がここにいたか!」
獣人は、ドスドスと地響きを立てて回廊に入ってくると、私たちを取り囲んでいた取り巻きたちを、まるで小枝でも払うように軽く腕を振った。
それだけで、教授たちは枯れ葉のように数メートルも吹き飛んでいった。
そして、私を抱き寄せているカエルス公爵の目の前に立ち塞がった。
「よう、陰湿公爵。ずいぶんと若い愛人を囲ってるじゃねえか?」
獣人が放つ、圧倒的な生命力と魔力の「圧」。それは、カエルス公爵の繊細な『調律』の術式を、嵐のように乱暴にかき乱した。
ブチリ、と黒い糸が切れる音がした。
「ぷはっ……!」
私は束縛から解放され、その場に崩れ落ちそうになったところを、セリナに支えられた。
カエルス公爵は、不快そうに顔を歪めて獣人を睨みつけた。
「……野蛮な獣風情が。神聖な学園に土足で踏み込むとは、何の用だ、『剛身卿』」
剛身卿と呼ばれた熊の獣人は、鼻を鳴らした。
「用? 散歩だよ散歩。そうしたら、獲物を狙う蛇みたいな目をした古狸がいたんでな、からかいに来たのさ」
そして、彼は私の顔を覗き込んだ。その瞳は、獣のように鋭いが、不思議と温かみのある「赤色」の光を宿していた。
「……ん? その燃え立つような魔力圧……。ガハハハ! 久しぶりだなぁ、『紅蓮卿』! いや、今は辺境伯夫人だったか?」
剛身卿の視線が、母上に向けられる。
母上は、優雅に、しかし隙のない動作で扇子を開いた。
「あら、お久しぶり。相変わらず騒々しいですわね、『剛身卿』。ええ、今はただのゼノン辺境伯の妻ですわ。……ですが、売られた喧嘩を買うくらいの元気はありましてよ?」
母上の背後に、陽炎のような熱気が揺らめく。
私には、この剛身卿と呼ばれている獣人さんがどれほど偉い人なのかは分からない。けれど、彼が放つ嵐のような野性の迫力と、母上の静かで灼熱の怒りがぶつかり合って、周囲の空気がビリビリと震えているのだけは分かった。
あのカエルス公爵でさえ、この二人を同時に相手にするのは分が悪いと判断したようだ。
「……フン。興が削がれた。行くぞ」
ヴァレリウスは踵を返し、吹き飛ばされた取り巻きたちを引き連れて去っていった。
去り際、彼は囁いた。
「逃げられると思うなよ。お前の血は、私を求めている」
嵐が去り、回廊に静寂が戻る。
「……助けていただいて、ありがとうございます」
私が深々と頭を下げると、剛身卿は「ガハハ! 気にするな」と豪快に笑い、私の頭を巨大な掌でわしゃわしゃと撫でた。
(うぁぁぁ、首が折れるーっ!)
「俺はああいう気取った奴の顔を歪ませるのが趣味なだけだ。そうだ自己紹介がまだだったな、俺は、この国の魔導卿の一人、ガイア・アックスだ! 皆は『剛身卿』なんて呼ぶが、恥ずかしいったらありゃしない。ガイアって呼んでくれ!」
魔導卿!
あれ、魔導卿って魔導国に数人しかいないめっちゃ偉い人なのでは!?
私は慌ててカーテシーをとり、自己紹介を行う。
「お初にお目にかかりますガイア魔導卿。わたくし、ゼノン辺境伯の長女、パスティエール・ゼノンと申します。以後お見知りおきを」
「おうよ、しかしあの『紅蓮卿』の娘がねぇ、血は争えねえってか? ケルドでの武勇伝は聞いてるぜ、いつかもっと詳しく聞かせてくれよな」
「私からも礼を言うわガイア、ありがとう」
母上も普段の落ち着きを取り戻し、改めてガイア魔導卿にお礼をする。
「気にすんなエリアーナ、またこんど戦闘訓練しようぜ」
そう言い残すと、ガイア魔導卿は再び高笑いしながら、嵐のように去っていった。
(乱暴だけど……裏表のない、温かい人だったな)
昨日に引き続き、とんでもない事態に遭遇し、私たちはすっかり疲弊してしまった。
「……少し、静かな場所で休みたいね」
レオ兄様の提案で、私たちは気分転換も兼ねて、学園が誇る「大図書館」へ向かうことにした。
図書館は、吹き抜けの巨大な空間に、天井まで届く本棚が迷路のように立ち並ぶ、静謐な場所だった。本のインクと古い紙の匂いが、高ぶった神経を落ち着かせてくれる。
「わぁ……すごい本の数……」
私は圧倒されながら、兄たちやセリナと少し離れて、珍しい本が並ぶ棚を眺めていた。
ふと、奥の方に「古代史」のコーナーがあるのを見つけ、好奇心に駆られて足を踏み入れたのが間違いだった。
何冊か興味がありそうな本を手に取り、夢中でページをめくりながら歩いているうちに、巨大な本棚の迷路は、幼い私の方向感覚を簡単に狂わせた。
「……あれ? こっちじゃなかったかしら?」
気づけば、周囲には誰もいない。静まり返った巨大な空間に、自分の足音だけが響く。
「どうしよう、迷子になっちゃった……」
不安になりながら、出口を探してさらに奥へと進んでしまった、その時だった。
一番奥の、埃をかぶった古い歴史書の棚の前。
そこに、一人の人物がいた。
床に直座りし、自分の背丈ほどもある本の山に埋もれるようにして、一心不乱に何かを読み耽っている男だ。
年齢は父上と同じくらいだろうか。ボサボサの茶髪に、無精髭。服はヨレヨレの研究着で、あちこちにインクの染みがついている。
一見すると、うだつの上がらない万年研究生のようだ。
(……変な人)
私が遠巻きに見ていると、男はふと顔を上げ、私と目が合った。
その瞳は、深い青色をしていた。 私の『瞳』が捉えた彼の旋律は、さっきのカエルス公爵とは真逆だった。何の計算も、悪意も、野心もない。ただ純粋な知的好奇心だけで満たされた、澄み切った秋空のような旋律。
「おや、こんなところにお客さんとは珍しい。……迷子かな?」
男は、人懐っこい笑顔を浮かべた。
「あ、はい……。少し、奥に入りすぎてしまって」
「ははは、この図書館は学園屈指の迷宮だからね。大人でもよく迷うよ。……おや?」
男の視線が、私が胸に抱えていた本に向けられた。
「君も、古い本が好きなのかい? その手に持っているのは……ほう、『北方の古代伝承』か。随分と渋い趣味だね」
「ええと……少し、調べたいことがあって」
「ふむ。もしかして、最近、辺境で囁かれている『魔獣の変異』、『作物の不作』についてかな?」
男の言葉に、私は驚いて顔を上げた。
「知っているのですか!?」
「ああ。魔導院の石頭たちは『真偽不明な情報』と取り合わないが、私は興味深くてね」
男は、私の手元の古い文献を指差した。
「君の持っている本に出てくる、『浸食者』。伝承によれば、奴らは土地の魔力そのものを喰らい尽くし、最終的には大陸全土を巻き込む『大厄災』を引き起こしたとされている」
「大厄災……!」
私は息を呑む。
「そう、神話の時代――『大厄災の時代』の話さ」
男は、遠い昔を見るような目をして語り始めた。
「その頃、人間は今よりもずっと深く精霊と共存し、その力を借りて強大な古代魔法を行使していたと言われている。だが、突如現れた『浸食者』によって、世界は滅亡の危機に瀕した」
男は熱っぽく続ける。
「人間は種の存亡をかけ、エルフ、ドワーフ、亜人、獣人……そして、今では絶滅してしまった強力な竜族とも同盟を結び、世界の総力をもって、辛うじて奴らを撃退したんだ」
「竜族が、絶滅……?」
(竜、ドラゴン? が存在していたんだ、一目見てみたかったな)
「ああ。勝利の代償はあまりにも大きかった。竜族は滅び、多くの知識人が失われたことで、強力な古代魔法の伝承も途絶えてしまった。……今、私たちが使っている魔術は、その残滓に過ぎないのさ」
男は、少し寂しそうに笑うと、再び声を潜めて私の本を指差した。
「そして、ここが重要なんだが……。その大厄災の前兆として、各地で『魔獣の凶暴化』『原因不明の生命力の低下現象』が報告されていた、という記録が残っているんだよ。……今の状況と似通っていると思わないかい?」
男は嬉々として、手元の古い文献の該当箇所を私に見せてくれた。そこには、古めかしい言葉で、今の状況と酷似した現象が記述されていた。
私たちは、時間を忘れて話し込んだ。彼は、私が辺境で見てきた「魔獣の暴走」「作物が育たない」といった具体的な事象を、決して馬鹿にせず、過去の文献と照らし合わせながら、論理的に分析してくれた。
(このおじ様、すごい……。私が見てきた不安な現象を、歴史と知識で裏付けてくれる)
「おーい、パスティ! どこだー!」
遠くから、ギル兄様の呼ぶ声が聞こえた。
「いけない、戻らなきゃ。……あの、ありがとうございました、おじ様!」
「ははは、気にしないでくれ。久しぶりに楽しい議論ができたよ」
別れ際、男は私の目を真っ直ぐに見て言った。
「君は、面白い視点を持っているね。魔導院のどんな高名な学者より、よっぽど事態の本質を捉えているかもしれない。……その『探求心』、大切にしなさい」
「はい!……さようなら!」
名前も聞かないまま、私は兄たちの声がする方へ駆け出した。 不思議と、心が軽くなっていた。
別邸に戻ると、父上が興奮した様子で帰ってきたところだった。
「エリアーナ! パスティ! 決まったぞ!」
父上は、王家の紋章が入った書状を掲げた。
「明日正午、魔導王陛下が謁見を許可された! ついに、我々の報告を聞いてくださるそうだ!」
ついに、決戦の時が来る。
私は、窓の外の王都を見つめた。
お爺様は、怖かった。でも、助けてくれる人も、話を聞いてくれる人もいた。
世界は、敵ばかりじゃない。
「……よし」
私は小さく気合を入れた。明日の謁見、絶対に成功させてみせる。




