第68話 双子都市ウェストリア
大陸歴685年、実りの月。
私の故郷、ゼノン辺境伯領と、隣接するクレストン子爵領。
二つの領地を隔てる大河「アルス川」には、魔導国でも有数の巨大な石橋が架かっている。
ゼノン領の領境の街ライムスから橋を挟んで広がるのが、物流と商業の拠点、双子都市「ウェストリア」だ。
ゴトゴトと馬車に揺られながら、私は窓の外の景色に目を輝かせた。
「わあ……!大きい!」
川の西側、私たちが今までいたゼノン領側のライムスの街は、ゼノン領の中では洒落た街並みではあったが、それでも石造りの砦や検問所が並ぶ、少し固い雰囲気だった。
けれど、石橋を渡った東側――クレストン領側に入った途端、景色は一変した。
煉瓦造りの巨大な倉庫群に、水路が張り巡らされた美しい街並み。川港には無数の輸送船が停泊し、街道には荷馬車が列をなしている。
さすがは「国の食糧庫」と呼ばれるクレストン領の玄関口だ。
「すごい活気ですね、パスティエール様」
向かいに座るセリナも、珍しそうに外を見ている。
「ええ、本当に。……ん?」
私は笑顔で答えようとして、ふと眉をひそめた。
確かに街は賑やかだ。人の声も、馬のいななきも聞こえる。
けれど、私の耳の奥には、街の喧騒とは別に、キィィン……という、極めて高い、針のような耳鳴りが響いていた。
(なに、この音……?不協和音とも違う、もっと細くて、冷たい音……)
それに、私の『瞳』に映るこの街の景色は、どこか「色が薄い」気がした。
まるで、絵の具を水で薄めすぎた絵画のような、希薄な印象を受けるのだ。
領主の館へ向かう途中、私たちは市場の視察も兼ねて、少しだけ馬車を降りて歩くことになった。
市場には、クレストン領ご自慢の農産物が所狭しと並んでいる。
私は、果物が山積みになった屋台の前で足を止めた。
「いらっしゃい!『ウェストリア林檎』だよ!蜜がたっぷり入って甘いよ!」
威勢のいいおじさんが勧めてくれたのは、真っ赤に熟れた大きな林檎だった。
(おいしそう!旅の疲れには甘いものよね!)
私は目を輝かせ、一つ手に取った。
見た目は完璧だ。傷ひとつなく、艶やかで、ずっしりと重い。
けれど。
「……あ」
あの耳鳴りが強くなった。
キィィ……ッ。
私は思わず動きを止める。
そして、無意識に魔力を込めて『瞳』を凝らした。
その瞬間、真っ赤な林檎の姿が、私の視界の中で変質する。
――灰色。
林檎の輪郭線だけは赤く見えている。
けれど、その内側にあるはずの、生命力の輝き――普通なら薄い緑や金色に見えるオーラが、完全に抜け落ちていた。
まるで、中身だけが塗り忘れたかのように、モノクロームの虚無が詰まっている。
「パスティエール様?召し上がらないのですか?」
セリナが不思議そうに覗き込んでくる。
私は、指先が冷たくなるのを感じながら、慌てて林檎を棚に戻した。
「……う、ううん。やっぱり今はいいわ。お夕食が入らなくなっちゃうもの」
「そうですか?珍しいですね、パスティエール様が買い食いを我慢するなんて」
セリナは首をかしげていたけれど、私はそれ以上、その「灰色の林檎」を見ることができなかった。
決して腐っているわけじゃない。
でも、あれは……「食べ物」としての命が、死んでいる。
街を見下ろす丘の上に建つ、クレストン子爵の館に到着した。
出迎えてくれたのは、蜂蜜色の金髪を丁寧に撫でつけた、知的な紳士。
この地の領主、アラリック・クレストン子爵だ。
「ようこそ、盟友ゼノン辺境伯、そしてエリアーナ様。遠路はるばる、よくお越しくださいました」
アラリック様は、以前お会いした時と変わらない、穏やかで洗練された笑顔を浮かべていた。
けれど、その目の下には濃い隈があり、頬が以前よりこけているのが、化粧でも隠しきれていない。
父上もそれに気づいたのか、挨拶もそこそこに問いかけた。
「アラリック、顔色が悪いぞ。……例の『不作』の件か?」
その言葉に、アラリック様は苦笑し、肩を落とした。
「……ライナス殿には隠せませんね」
応接室に通された私たちは、そこで「豊穣の賢者」の苦悩を聞くことになった。
「データ上は、完璧なのです」
アラリック様は、机の上に積まれた膨大な資料を指差した。
「土壌の成分分析、日照量、降水量、魔力濃度……全てが『例年通り』か、私の魔術による調整で『それ以上』の数値を叩き出しています。数字は嘘をつきません」
「ですが……」
彼は、悔しそうに拳を握りしめた。
「市場からの評価は散々です。『味がしない』『コクがない』『食べて数日で萎びてしまう』……と。私も食べてみましたが、確かに何かが足りない。しかし、毒も病気も検出されないのです」
合理主義者の彼にとって、原因不明の現象は最大の恐怖であり、屈辱でもあるのだろう。
「贅沢病が蔓延したのか、私の舌がおかしくなったのか……。正直、参っていますよ」
その夜、私たちを歓迎する晩餐会が開かれた。
テーブルには、豪華な料理が並んでいる。肉料理、スープ、焼きたてのパン。
けれど、私の『瞳』には、それら全てが、昼間の林檎と同じように「色が薄く」見えていた。
私は、母上の教えを必死に守り、笑顔でそれらを口に運ぶ。
(……やっぱり)
味はする。不味くはない。
でも、食べた瞬間に体に染み渡るようなエネルギーが、全く感じられない。まるで、味のついた空気を噛んでいるみたい。
「さあ、どうぞ。お飲み物も」
アラリック様が、自ら私たちのグラスに水を注いで回る。
「食料についてはお恥ずかしい限りですが、水だけは保証します。領内で最も清浄な水源から汲み上げ、徹底的に濾過した水です」
グラスに注がれた水は、クリスタルのように透き通っていて、とても美しい。
父上や母上が、グラスに手を伸ばす。
けれど、私はその水を見て、背筋が凍るような感覚に襲われた。
(……ない)
普通、清らかな水には、水の精霊の気配や、自然の魔力が宿って、キラキラと音を立てているはずだ。
なのに、このグラスの中にある液体は、無音だった。
光すら反射しないような、透明な「穴」が、そこにある。
私は、震える手を膝の上で握りしめ、意を決して口を開いた。
「……クレストン様」
母上の特訓を思い出し、私はできる限り礼儀正しく、落ち着いた声を出す。
「ん?なにかね、パスティエール嬢」
アラリック様が優しく微笑む。
「失礼ですが……このお水、少し『濾過』しすぎてはいませんか?」
「おや、お気に召しませんでしたか?不純物を極限まで取り除いた、自慢の水なのですが」
彼はそれを、純度が高いことへの賞賛だと受け取ったようだ。
私は、父上と母上の視線を感じながら、言葉を選んで核心を告げる。
「いいえ、とても透き通っていて綺麗です。……ただ」
私はグラスを見つめたまま、静かに言った。
「とても『静か』すぎて……まるで、何も入っていないようです」
「……何も?」
アラリック様の笑顔が固まる。
母上の目の色が、鋭く変わった。
毒ではない。害もない。
けれど、そこには普段の私の『瞳』には当たり前に映る、精霊や魔力の輝きが、一欠片も残っていなかった。
それは、ただ喉を潤すだけの、死んだ水。
その夜、与えられた客室で、私は母上にだけ、こっそりと感じたことを伝えた。
「……母上。ここの食べ物やお水、毒じゃないけど……ポルカが『居心地が悪い』って震えてるの」
ポルカも、私の胸の中で、光を弱めて小さくなっている。
母上は、深刻な顔で腕を組んだ。
「目に見えないレベルで、土地の『生命力』そのものが吸われている……ということね」
「腐っているわけではないから、アラリックも、王都の監査官も『異常なし』と判断する。……厄介だわ」
母上は、窓の外、暗闇に沈む豊かな穀倉地帯を見つめて呟いた。
「これが『浸食者』の影響だとしたら……この国は、戦う前に内側から干上がってしまう」
明確な証拠がない以上、ここで騒ぎ立てることはできない。アラリック様を混乱させるだけだ。
私たちは、この「見えない枯渇」の正体を突き止めるためにも、一刻も早く王都へ向かわなければならない。
翌朝。
私たちは、まだ解決の糸口が見えないアラリック様に別れを告げ、逃げるように、しかし最速で、王都エレメンシアへと馬車を走らせた。
背後に遠ざかる双子都市の風景が、私には、色を失ったモノクロームの街に見えて仕方がなかった。




