第66話 王都への旅立ち
大陸歴685年、実りの月。
領都アイアン・フォルトに凱旋してから、約三週間が過ぎようとしていた。
あれほど濃密だった七十日間の旅が嘘のように、私の日常は、驚くほど「平穏」なものに戻っていた。
いや、戻っていない部分もある。
最も大きな変化は、カイルだ。
彼は、先日お爺様に完敗して以来、何かが吹っ切れたようだった。
「なっておらん!」
「その程度でワシの孫が守れるか!」
「死にたくなければ『技術』を盗め!」
早朝から響き渡るお爺様の怒声と、中庭で木剣を打ち合う凄まじい音。カイルは、あのお爺様の地獄のシゴキに、文字通り血反吐を吐きながら食らいついていた。
シルヴァで出会った頃の、生意気な少年の面影は薄れ、今は、己の未熟さを知る孤高の獣ような、研ぎ澄まされた目つきに変わりつつあった。
もう一つの変化は、ペトラだ。 彼女は、父上が「技術顧問」として正式に雇い入れたことで、領都の工房に、文字通り「住み着いて」いた。
ケルドでの『超指向性歌声増幅砲』の経験は、彼女の発明家魂に火をつけたらしい。
「あんな大砲はもう古いんだよ!アタシ、わかったんだ!パスティエール様の『歌』の力は、ただデカくすりゃいいってもんじゃない!」
「もっと繊細に、もっと指向性を持たせて、パスティエール様の『意志』そのものを『音』に乗せるんだ!」
工房を覗きに行くたび、彼女はそう言って、あの中庭で見せてくれた『魔導楽器』の設計図を広げて捲し立てる。
そして、私。
私は、侍女のセリナと一緒に、アルフレッド先生からいつも通りの魔術の基礎訓練を続けている。
ポルカの力は、今も私の中に静かに息づいている。先生との訓練で、魔力を「歌」に乗せる感覚は、少しずつ掴めてきた。
領都に帰ってきてから、父上、母上、お爺様、そして先生の四人が、執務室で難しい顔をして集まっているのを、何度か見かけていた。
ケルドであんな大変なことがあったのだ。きっと、そのための会議なのだろう。
私は、それがまさか自分の運命を左右する会議だったとは、この時、まだ知らなかった。
その日の夕食後だった。
父上から、いつになく真剣な声で呼び出しを受けた。
「パスティエール。少し大事な話がある。執務室に来なさい」
執務室の重い扉を開けると、そこには、父上が領主の席に座り、母上と先生がその脇に、お爺様が腕を組んで壁際に立っていた。
(な、なにかな…?ポルカのこと、やっぱり怒られるのかな?)
私がゴクリと息を呑むと、父上は、私をまっすぐに見つめて口火を切った。
「パスティエール。お前によく聞いてもらわねばならないことがある」
父上の声は、いつもの親バカな響きを一切消した、領主の声だった。
「我々は、王都エレメンシアへと行くことを決めた」
「えっ…?」
予想外の言葉に、私は目を瞬かせた。
「おうと…?あの、お兄様たちがいるところ!?」
やった!会えるんだ!
そう思った私の喜びは、しかし、すぐに部屋の重苦しい空気によってかき消された。
(…でも、なんで、今?しかも、父上たちがこんなに真剣な顔で?)
私の疑問に答えたのは、母上だった。
「パスティエール。ええ、レオナルドやギルバートにも会えますわ。ですが、これは遊びではありません」
母上は私の前に膝をつき、私の両肩にそっと手を置いた。
「あなたの『力』…サザンやケルドでの出来事を、魔導国のトップである魔導王オリオン陛下に、父上が直接ご報告しに行く必要がありますの」
「ちょくせつ…?」
「ええ。以前、『侵蝕者』の危険性について書類で報告したのですが…どうやら、王都では、その脅威が正しく伝わっていないようなのです」
母上の声には、静かな怒りが含まれていた。
「おそらく報告自体が握りつぶされたのですわ。…保守派の貴族派閥によって」
「そして、彼らは次なる手を打ってきました」
「魔導院『真理の庭』の名を使い、あなたの『力』に関する『公式調査』を名目に、あなたを王都へ召集するよう、文書で命じてきたのです」
「だから、パスティ。あなたがこのまま王都へ行けば、あなたは『調査対象』として、私の父であるヴァレリウス公爵の管理下に置かれてしまう」
「だからこそ、私たちは、その召集を無視し、先に魔導王陛下に直接謁見しに行くのです。王の後ろ盾を得るためにね」
「あなたが行くのです。あなたが『精霊の警告』を聞いた、たった一人の、大切な『証人』なのです」
「わたしが、しょうにん…」
王様に、会う?私が?
心臓が、恐怖と緊張でドキドキと鳴り始めた。でも、父上と母上が決めたことなら…。
「そうだ」
父上が、話を継いだ。
「この旅には、アルフレッド先生、エリアーナ、そしてお前の侍女としてセリナも同行する」
父上は一度言葉を切り、執務室の外に控えていた人影を呼んだ。
「そして、カイル」
「ハイッ!」
緊張した面持ちで、カイルが部屋に入ってきた。
「カイル。お前を、パスティエールの専属護衛に任命する」
「お、俺が…?専属…?」
突然の指名に、カイルが目を見開く。
「そうだ。王都では何が起こるか分からん。特に、エリアーナの実家…カエルス公爵家は、パスティの力を狙っている」
お爺様が、カイルに厳しい視線を送る。
「フン。まだワシには遠く及ばんが、狂犬の目からは脱した。王都の『本物』の空気を吸って、己の未熟さを知ってこい。お前の剣で、パスティを命懸けで守れ」
「……ハイッ!必ず、守り抜いてみせます!!」
カイルの震える声が、決意に満ちて響いた。
父上は「出発は、三日後だ」と告げた。
その三日間は、嵐のようだった。
王都行きが決まった途端、それまでの平穏な訓練は鳴りを潜め、母上による「王都の作法」の猛特訓が始まったのだ。
「パスティエール、公爵家の方への挨拶は、こうですわ」
母上直々の指導が、私の部屋で行われている。セリナも、私の隣で一緒に侍女としての作法を学んでいた。
「あの、母上…」
私は、おそるおそる手を挙げた。
「その『公爵家』っていうのは、母上のご実家ですよね?」
「ええ、そうですわ」
母上の手が、一瞬だけ止まる。
「私にとって…ヴァレリウスお爺様?になるんですよね、どんな人、なんですか?」
ガレオスお爺様は、厳しくて、強くて、でも優しい人だ。王都のお爺様は、一体どんな人なんだろう。
母上は、一瞬、何かを思い出すように目を伏せ、その表情がわずかに凍りついたように見えた。
だが、すぐにいつもの完璧な笑顔に戻ると、私の目を見て言った。
「…そうね。一言でいうなら、『完璧』な方よ」
「完璧…?」
「ええ。魔術も、知識も、立ち居振る舞いも、何一つ間違えない。…そして、間違いを、絶対に許さない方」
(ゴクリ…)
なんだか、お爺様とは別の意味で、すごく怖そうだ。
母上は、私の小さな手をそっと握った。
「…パスティエール。あの方は、『血』…血の繋がりを、何よりも重んじる方です」
「血…?」
「わたくしが、あの方の期待に反して王都を捨て、ライナスと結ばれた時、あの方はわたくしを『出来損ない』と断じました。…以来、わたくしは父と会っておりません」
「!」
(会ってない…?実の親とそんなに険悪なの…)
私が息を呑むと、母上は私の肩を強く掴んだ。
「あの方が、今になってわたくしたちを王都に呼ぶのは、ただ一つ。あなたの『力』に気づいたからです」
「わたしの、力…」
「だから、パスティエール。王都では、決して気を抜いてはいけません。あの方は、あなたに『優しく』接するでしょう。ですが、上辺だけを見ずに本質を見るのです、決して忘れないで」
母上の言葉の重さに、私はゴクリと唾を飲んだ。
「…じゃあ、その…私たちがご報告に行く、魔導王陛下っていうのは?その人も、ヴァレリウスお爺様みたいに、怖い人…なんですか?」
その質問を聞いた母上は、どこか懐かしむような、複雑な表情を浮かべた。
「…いいえ。オリオン陛下は、わたくしの父とは真逆の方よ」
「真逆?」
「あの方は『血』を一切信じない。あの方が信じるのは『実力』と『合理性』…そして『探求心』だけ。わたくしも魔導卿だった頃、あの方の『知』への貪欲さには舌を巻いたものだわ」
母上の目には、はっきりとした「尊敬」の色が浮かんでいた。
(お母様が、尊敬する方…)
私は、その「オリオン陛下」という人に、少し興味が湧いた。
だが、母上はすぐに表情を引き締めた。
「だからこそ、難しいの」
「え?」
「あの方は『優しい王様』ではない。あの方は『賢王』よ。パスティエール、あなたの『力』が、国にとって『有益』で『合理的』だと判断されれば…」
母上は、静かに言った。
「あの方もまた、あなたをゼノン家から引き離そうとするでしょう」
(お母様のお父様は、私を『血』として狙っていて)
(王様は、私を『力』として狙っている)
(…どっちも、怖いよ!)
「さあ、続けますわよ。辺境伯令嬢として、魔導王陛下の御前では…」
母上の指導が再開される。
(うぅ…魔術訓練の方が、百万倍マシ…!)
それが、三日後に控えた出発の準備だった。
出発前夜、私は一人、工房のペトラの元へ向かった。
王都へは一緒に行けないペトラに、ちゃんとお別れを言いたかったからだ。
工房の扉を開けると、そこはインクと油の匂い、そして魔力の熱気で満ちていた。ペトラは、山積みの設計図に埋もれるようにして、何かに没頭している。あの中庭で見せてくれた、『魔導楽器』の設計図だ。
「ペトラ」
「んあ…?パスティエール様か。どうしたの、こんな夜更けに」
「あのね、私、明日から王都に行くことになったの。だから、しばらくお別れ」
「…王都?へぇ」
ペトラは意外にもあっさりした様子で顔を上げると、面倒くさそうに頭を掻いた。
「ふーん。まあ、アタシはこっちの方が研究に集中できるからいいけどさ。王都は、なんかヤな感じの貴族がいっぱいいるんだろ?気をつけなよ」
「う、うん…」
ペトラは、進捗のあった設計図の一枚を、私に見せた。
「パスティエール様が王都から帰ってくるまでに、史上最高の『魔導楽器』を完成させてやるよ!」
その言葉は、私にとって、どんなお守りよりも心強い「約束」だった。
「ありがとうペトラ!それじゃあさついでに私のアイディアも渡していくから暇なときにでも目を通しておいて!」
そう言って私は蓄音機やらオルゴールやらドラムセットやら管楽器やら、私が覚えてる限りの音楽の知識を書き連ねたアイディア帳をペトラに渡した。
「え、すごっ。ふむふむって、こんなん私に渡して戻ってくるまで寝させないつもり?」
私とペトラはお互いの顔を見つめて、アハハと笑った。
(さて、待っててね、お兄様たち。そして、会ったこともない、お母様のお父様――ヴァレリウスお爺様)
私は窓から見える、はるか北の空を見上げた。
――そこには、まだ見ぬ王都が、私たちを待っている。




