第65話 【幕間】焦燥
魔導国アルカディア、王都エレメンシア。
魔導院『真理の庭』の白亜の塔が夕陽に染まる頃、カエルス公爵家の屋敷は、その広大な敷地を深い影に沈めていた。
書斎の主、ヴァレリウス・カエルス公爵は、紫檀のデスクで肘をつき、静かに目を閉じていた。
彼の手元には、一通の書類の写しが置かれている。
それは、彼が魔導院の保守派――すなわち「貴族派閥」の長として、その影響力を最大限に行使し、魔導院の名においてゼノン辺境伯領へと送付させた「公式調査要求書」であった。
要求の名目は、「辺境伯領内における、従来の魔術体系から逸脱した『歌』による大規模事象の発生、および、その行使者たるパスティエール・ゼノンに対する、魔導院『真理の庭』による聴取と調査の必要性について」。
要するに、自らの孫娘を「異端の疑いあり」として、王都へ召喚せよ、という最後通牒に等しい圧力であった。
数週間前――港町サザンで「精霊顕現」なる報告を受けた時、ヴァレリウスは即座にその異常性を看破していた。
当初は「漁師の与太話」と一蹴したものの、孫娘「パスティエール」の名が上がり、詳細な報告書に目を通した瞬間、彼は確信したのだ。
(…『調律』ではない。エリアーナをも遥かに凌駕する、世界の理に直接干渉する力。辺境に置いておくには危険すぎる「最高の切り札」だ)
彼は即座に密偵に監視を強化させ、機が熟すのを待っていた。
だが、その後に彼の『目』がもたらした「遺跡の街ケルド」からの続報は、彼の冷徹な計算すら上回るものであった。
曰く、「歌」が『響谷』の瘴気を浄化した。
曰く、「歌」が古代のゴーレムを鎮圧した。
(サザンの精霊顕現だけではないだと…?瘴気の浄化に、ゴーレムの鎮圧…?あの小娘、わずか数週間で、どれだけの力を開花させている!)
「機が熟すのを待つ」などという悠長な段階は終わった。
このまま辺境に放置すれば、あの力はゼノン家か、最悪の場合、魔導王オリオンの手に渡ってしまう。
ヴァレリウスは、即座に手を打った。
それが、この「調査要求書」だった。
(どちらにせよ、あの『力』は辺境の土くれ共に預けておくには過ぎた代物。我がカエルス公爵家が管理下に置き、魔導院と国を掌握するための『駒』とする)
彼は自らの手を見つめた。
老いさらばえ、浮き出た血管。
かつて『調律の貴公子』と謳われた魔力も、全盛期に比べれば衰えを隠せない。
カエルス家の悲願。貴族による完全なる魔導支配。
それを成すには、既存の『調律』だけでは足りなかった。
だが、あの小娘の力があれば。
(……我が血族から生まれた最高傑作。なんとしても、私の手元に置かねばならん)
辺境伯が、この魔導院からの要求にどう出てくるか。
あの田舎者が、魔導院を敵に回す度胸などあるまい。
王都へ召喚させさえすれば、あとはこちらの土俵。あの小娘を確保するのは造作もない。
ヴァレリウスは、ライナスからの「命乞い」に近い返答を、静かに待っていた。
その静寂を破り、書斎の影が揺らめいた。
音もなく現れた密偵が、深く膝をつく。先だってサザンの報告を持ってきた男である。
「公爵様。ゼノン辺境伯領にて、動きがございました」
ヴァレリウスは、デスクに置かれた書類の写しから目を離さない。
「…ほう。魔導院からの『調査要求』に対する返答か?」
「…いえ。ゼノン辺境伯は、魔導院の要求を完全に無視。一切の返答なく、先ほど、王宮に対し『魔導王陛下への緊急謁見』の申請がなされました」
ヴァレリウスの手が、初めて止まった。
彼はゆっくりと顔を上げ、氷のように冷たい双眸で密偵を見据えた。
「…何?辺境の守りを空けて、自ら王都へ来ると?」
「はっ。名目は『侵蝕者の脅威に関する緊急報告』。同行者リストに…エリアーナ様、アルフレッド・バルド、そして、件のパスティエール・ゼノンの名が」
書斎に、圧殺するような沈黙が落ちた。
ヴァレリウスの脳裏で、いくつもの計算が、音を立てて崩れていく。
(馬鹿な!あの田舎者が、何を考えている!?)
魔導院の調査要求を「無視」するだと?
あろうことか、平民上がりの魔導王に直接取り入る気か!
しかも、名目が『侵蝕者』だと?
(あの辺境伯め…!ケルドの瘴気の原因をそれに結びつけおったか!それを大義名分に、あの小娘を王に差し出すつもりか!)
ヴァレリウスは、現魔導王オリオンという男を、心の底から侮蔑していた。
血統も持たぬ平民が、魔術の才覚と政治力だけで王位に就いた、成り上がり者。貴族の「責務」も知らぬ実利主義の権化。
そのオリオンが、国の「盾」たる辺境伯からの『侵蝕者』の報告と、ケルドの『奇跡』を聞けば、どう動くか。
(…必ず、あの娘を王家の庇護下に置こうとする!)
「国家の脅威『浸蝕者』」に対抗しうる「未知の力」。「国益」という大義名分が立てば、魔導院が「異端の疑い」などと口を挟む余地はなくなる。
ライナスは、ヴァレリウスが最も嫌う政敵を「盾」にすることで、ヴァレリウスの圧力を真正面から無力化しようというのだ。
(あの猪武者が、このような手を思いつくはずがない…!)
ヴァレリウスの脳裏に、王都を捨て、辺境伯に嫁いだ娘の顔が浮かんだ。
(…エリアーナめ…!お前が入れ知恵したか!)
ヴァレリウスは、即座にそう結論付けた。
カエルス公爵家の内情も、魔導院の政治力学も知り尽くしたあの娘が、夫にこの最悪の「カウンター」を授けたに違いない、と。
ヴァレリウスは、しばし目を閉じ、激しい焦燥と怒りを、冷徹な思考の底に沈めていった。
やがて、彼はゆっくりと目を開けた。
「…フン。こちらが『調査』を要求するよりも先に、魔導王を『盾』にするつもりか。上等だ」
もはや、魔導院を使った外堀からの圧力は間に合わない。
王都へ来るというのなら、王に謁見される前に、こちらが先に『駒』を奪う。
彼は、密偵に新たな指示を出した。
「『目』に伝えよ。王都へ来るというのなら、歓迎の準備を整えよ、と」
密偵は、主の意図を正確に読み取り、微動だにしない。
「魔導王の謁見の前に、孫娘と『二人きり』で話をする機会を設けよ。祖父として、な」
ヴァレリウスの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
「…平民あがりの魔導王に取り入ろうとするのならば、こちらは『血』の繋がりを使うまでだ」
あの小娘が、どれほどの力を持っていようと、まだ子供。
父親も母親もいない場所で、実の祖父から、カエルス公爵家の偉大さと、彼女が持つ『調律』の血の高貴さを説けば、どうなるか。
「我がカエルス家の『調律』の血が、辺境の泥と王都の高貴なる血、どちらの『家族』を選ぶか…見ものだな」
密偵が音もなく闇に消える。
ヴァレリウスは、手元の「調査要求書」の写しを指先で弄ぶと、 ――クシャリ。 音を立てて、それを握り潰した。




