第5話 辺境伯の仕事と、届いた歌声
大陸暦681年、花咲の月
三度目の誕生日を迎える頃には、私はすっかり城の人気者になっていた。たどたどしい幼児言葉で話せるようになり、自分の足であちこち探検して回る私を、侍女や兵士たちは目を細めて見守ってくれている。家族の愛情は言うまでもない。
「にいしゃま、だっこ!」
「はいはい、レオ兄様が抱っこしてあげようね」
私がそう言って腕を伸ばすと、最近はもっぱら長兄のレオナルドが、読んでいた本を静かに閉じて私を抱き上げてくれる。
お父様は数日前から「未開の地への定時巡回」と言って、兵士たちを連れて城を留守にしている。
「俺も行く!」と駄々をこねていたギルバート兄様は、お母様に「あなたのお仕事は、パスティエールと城を守ることですわ」と優しく諭され、しぶしぶ残っていた。
この頃になると、私は断片的な情報をつなぎ合わせ、自分が生まれたこの「ゼノン辺境伯領」がどのような場所なのか、おぼろげながらに理解し始めていた。
まず、この領地の西側には、『未開の地』と呼ばれる広大な森や山脈が広がっているらしい。地図を見たことがあるけれど、そこはインクの染みが広がったように真っ黒に塗りつぶされていて、何も描かれていなかった。そして父たちは、定期的にその危険な場所へ『魔獣討伐』に出かけていくのだ。
さらに、その森のずっと向こう側には、『帝国』という別の国があるらしかった。レオナルド兄様が読んでいた難しい本には、『帝国との緩衝地帯における小競合いの記録』なんて言葉が書かれていた。つまり、西の森には恐ろしい獣がいて、その向こうには仲の悪い人間の国がある。なるほど、ここは常に危険と隣り合わせの、最前線らしい。
その事実を、私は肌で感じることになる。その日、私はお母様に抱っこされて、城のバルコニーから領都アイアン・フォルトを見下ろしていた。眼下では、多くの人々が砦の門へと続く大通りに集まり、何事かと騒いでいる。
「おかあしゃま、あれ、なぁに?」
「お父様たちが、お務めからお帰りになったのですよ」
お母様が指さす先、ゆっくりと開かれていく巨大な城門から、一団の兵士たちが姿を現した。彼らの鎧は泥に汚れ、ところどころが傷ついている。誰もが疲れた顔をしていたけれど、その足取りは誇らしげだった。
その隊列の先頭。一頭の大きな軍馬の上で、誰よりも堂々と、しかし疲労の色を隠せないでいる男がいた。私のお父様、ライナス・ゼノンその人だった。
そして、お父様の後ろの荷台に、私はそれを見た。
(…うわ…おおきい…)
荷台に乗せられていたのは、巨大な猪のような生き物の亡骸だった。体長は馬車よりも大きく、牙は私の背丈ほどもある。全身がゴワゴワとした黒い毛で覆われ、その毛の間からは、不気味な紫色の瘴気のようなオーラがゆらゆらと立ち上っているのが『瞳』で見えた。あれが、『魔獣』。
「うおおお!辺境伯様、万歳!」
「ライナス様、お帰りなさいませ!」
魔獣の姿に一瞬怯んだ領民たちだったが、すぐにお父様と兵士たちへの感謝と賞賛の声へと変わった。手を振り、収穫した野菜を投げ、自分たちの平和を守ってくれた英雄の凱旋を心から祝っている。
お父様は、その歓声に馬上から片手を上げて応え、ゆっくりと城へと向かってくる。その横顔から放たれるオーラは、いつも私に向ける甘いものではなく、領主としての強い覚悟と責任感を宿した、烈風のような旋律を奏でていた。
「ご覧なさい、パスティエール。あれが、あなたのお父様のお仕事ですわ。民を守り、この地を豊かにする。そのために、あの方は戦うのです」
お母様の言葉は、三歳の私の心に、強く、深く刻み込まれた。お父様は、お母様は、お兄様たちは、そしてここに住む人々は、戦っているのだ。この平和な日常を守るために。前世では、誰かを守るなんて考えたこともなかった。
自分の夢に破れ、日々の仕事に追われ、ただ無気力に生きていただけ。でも、今は違う。この温かい家族を、私に笑顔を向けてくれる人々を、私も守りたい。そう、強く思った。
「おとーしゃま!」
私がバルコニーから叫ぶと、馬上のお父様がはっとしたようにこちらを見上げた。そして、領主の厳しい顔が、一瞬で、いつもの親バカな父親の顔に崩れた。
「おお、パスティ!聞こえたぞ!帰ってきたぞー!」
ぶんぶんと大きく手を振るお父様の姿を見て、胸の奥が温かくなる。私は、お父様の疲れを少しでも和らげたい一心で、小さな声で歌い始めた。前世の母が、病室でよく歌ってくれた、子守歌。
「♪…おかえりなさい~わたちのぉたからもにょ~♪」
すると、私の内なる湖から、これまでで一番大きな光の粒が、いくつも、いくつも、ふわりと浮かび上がった。その光は、バルコニーからふわりと舞い降り、歓声の中を進むお父様のオーラに、そっと溶け込んでいく。お父様の烈風のような魔力が、ほんの少しだけ、穏やかな春の風のように優しくなったのを、私の『瞳』は確かに捉えていた。
「ん…?」
馬上のお父様が、不思議そうに自分の体を見下ろし、そしてもう一度、バルコニーの私を見上げた。それは、本当に些細な変化。けれど、私にとっては、とてつもなく大きな一歩だった。私の歌は、届くのかもしれない。この、新しい世界でなら。
領民たちの歓声を聞きながら、私は決意を新たにする。いつか、私の歌で、この人たちを、この世界を守れるようになろう。そんな、三歳の誕生日を迎えたある晴れた日の出来事だった。




