第58話 北の要塞に響く歌
シルヴァに到着してから、数日が過ぎた。
この「森の扉の街」は、私がこれまでに見てきたどの街とも、その空気が根本的に異なっていた。
領都アイアン・フォルトの武骨な活気とも、港町サザンの陽気な喧騒とも、遺跡の街ケルドの探求心と緊張感が入り混じった雰囲気とも違う。
シルヴァを支配しているのは、ただ一つ。深淵の森に対する、研ぎ澄まされた『規律』と『覚悟』だった。
早朝、私は遠くから聞こえる警鐘の音と、規則正しい兵士さんたちの行進の音で目を覚ます。
領都にいた頃のように、小鳥のさえずりや焼いたパンのいい匂いで目覚める朝は、ここにはないらしい。
常に臨戦態勢にある街の空気が、窓の隙間から入り込む冷気と共に、肌をピリピリと刺すようだった。
ここ数日、私は母上や先生と共に、守備隊長であるバルガス隊長の案内で、街の施設や訓練の様子を見学させてもらっていた。
特に印象的だったのは、城壁に隣接した治癒院で行われていた「救護訓練」だった。そこでは、負傷兵を安全な場所へ迅速に運び、応急処置を施す、非常に実践的な訓練が繰り返されていた。
「ぐずぐずするな!その一秒が生死を分けるんだぞ!」
「判断を誤るな!仲間を見殺しにする気か!」
バルガス隊長の厳しい檄が飛ぶ。
日常的に負傷者が出ることを前提とした訓練の厳しさが、私の胸に重くのしかかった。
私の『瞳』には、彼らの奏でる旋律が視えていた。
規律正しく、鋼のように強靭な色。だが、その奥深くで、何かが擦り切れるような、細かな不協和音が鳴り続けている。
それは、終わりの見えない緊張と、常に死と隣り合わせの環境がもたらす「心の摩耗」だ。旋律は、いつ切れてもおかしくないくらい、細く張り詰めていた。
その日の午後、辺境伯家の別宅で行われた母上とバルガス隊長との会談に、私は同席させてもらっていた。
「兵士たちの士気は高い。訓練も滞りなく行っています」
バルガス隊長は、分厚い腕を組んで報告する。
「ですが、エリアーナ様。正直に申し上げて、兵たちの精神的な負荷は限界に近い。森との睨み合いは、こちらの神経ばかりをすり減らします。交代で領都に休養を送るのが、もう追いつかないほどで……」
その言葉に、私は今朝見た兵士さんたちの、疲弊した旋律を思い出していた。
(私に、できることがあるかもしれない……)
ケルドでの成功が、私に小さな勇気を与えてくれていた。
私は、そっと手を挙げた。
「あの……バルガス隊長」
母上とバルガス隊長の視線が、私に集まる。
「もし、ご迷惑でなければ……兵士の皆さんのために、わたくし、歌わせていただくことはできませんでしょうか?」
「……歌、でございますか?」
「はい。ほんの少しでも、皆さんの心を休めていただくための……その……『慰問コンサート』を開きたいのです」
私の突然の提案に、バルガス隊長は虚を突かれたように目を見開いた。
「……コンサート?パスティエール様、失礼ながら、ここは戦場ですぞ。歌で兵の腹が膨れるか?傷が癒えるか?それとも、魔獣が退くか?」
その口調は厳しく、現実的だった。悪意はない。けれど、最前線の指揮官として、「歌」の優先順位は低い。
だが、重い空気を破ったのは母上の声だった。
「良いでしょう」
「エリアーナ様?」
「バルガス。兵士たちの精神的なケアも、指揮官の務めの一つですわ。パスティエールの意図は、そこにあるのでしょう」
「……はっ。エリアーナ様がそうおっしゃるなら」
バルガス隊長は渋々ながらも頷いた。
「ですが、訓練スケジュールもあります。二日後の夜、夕食後に訓練場の片隅をお貸しいたします」
「ありがとうございます、母上、バルガス隊長!」
許可が出た瞬間、私の頭の中で、前世の記憶――無数のライブやイベントを設営した日々――が、カチリと音を立てて蘇った。
(やるからには、中途半端はダメよね……!)
私の心のプロデューサースイッチが入った。
「では、早速準備に取り掛かりますわ!」
私は別宅に戻るやいなや、先生、セリナ、そしてペトラを集めて緊急作戦会議を開いた。
「ペトラ!あなたにはステージ設営の技術指揮官をお願いします!音が広場全体に響くように、反響板を設計して!あと、リズム隊も編成します!」
「え、反響板!?リズム隊!?」
「反響板は私の後ろを囲うように!リズム隊は空き樽や空き箱、盾を使って!護衛兵さんたちをまとめて、リズム隊のリーダーも兼任してもらいます!」
「な……面白そう!やってみる!」
ペトラの瞳が、技術者としての好奇心で輝きだした。よし、技術班とリズム隊確保!
「セリナ!あなたは衣装・ヘアメイク担当、兼、舞台演出です!リベルで調達したドレスをステージ衣装に仕立て直して!本番ではあなたの《風の息吹》で、私の髪と衣装を効果的に揺らしてくださいまし!」
「は、はいっ!承知いたしました!パスティエール様を世界一可愛くしてみせますわ!」
よし、衣装・演出班もOK!
「先生!先生には照明をお願いします!《光の玉》の応用で、私だけを照らすスポットライトを作れますわよね?リハーサルは明日の夜です!」
「は、はあ……照明、でございますか……?」
先生は目を丸くして少し引き気味だが、大丈夫、先生ならできる!
「そして母上!」
「……わたくしも、ですの?」
「はい!母上には舞台効果をお願いしますわ!《陽炎》の魔術で、ステージの周囲の空気を揺らめかせ、幻想的な雰囲気を作ってくださいまし!」
「……パスティ?あなた、少し……いえ、かなり、はしゃぎ過ぎでは……?」
母上が本気で心配そうな顔をしているが、私は止まらない。
「もちろんです!兵士の皆さんを本気で癒すためには、本気の舞台が必要なのです!」
「……わかりましたわ。精々、やりすぎてバルガスに叱られない程度になさい」
母上は深いため息をつきながらも、承諾してくれた。やった!
こうして、シルヴァでの「慰問コンサート」の準備が始まった。
訓練場では、バルガス隊長から「命令だ、協力しろ」と言われた兵士さんたちから、案の定不満が噴出していた。
「はぁ!?ステージ設営?」
「なんで俺たちがこんな……ただでさえ疲れてるってのに」
「どうせ貴族のお遊びだろ」
冷ややかな視線と不満の声。
訓練場の隅で木剣を振っていたカイルも、「……ふん、やっぱりお姫様のお遊びかよ」と吐き捨て、こちらに見向きもしない。
だけど、ペトラはそんな空気などお構いなしだった。
「そこの板、角度が違う!もっと内側に!」
「そこの樽、音が鈍い!こっちのを使え!」
彼女の的確すぎる指示と技術者としての熱意に、兵士さんたちも次第に巻き込まれていった。
そして、提案から二日後の夜。
夕食後、訓練場の片隅に、ペトラたちが組み上げた反響板付きのステージが完成していた。
集まった兵士さんたちは、相変わらず遠巻きで、腕組みをして冷ややかにこちらを見ている。後方ではバルガス隊長が厳しい顔で腕組みをし、カイルも訓練場の隅で素振りを続けていた。
私は、セリナに完璧にセットアップされたステージ衣装で、ステージに立った。
胸にはポルカが「任せて!」とでも言うように輝き、その小さな手には愛用の『ちびギター』が握られている。
(緊張する……!でも、これは私のステージ。私の戦い……!)
私は静かに微笑み、息を吸い込んだ。
一曲目。まずは、彼らのささくれた心を鎮めるために。
ちびギターをそっと爪弾く。ポロン……と、澄んだ音が響いた。
穏やかなバラードを歌い始める。
しかし広場は広く、私の声は思ったより響かない。兵士さんたちのざわめきにかき消されてしまいそうだ。
(だめだ、声が届いてない……!みんなの心に届けたいのに……!)
焦りが胸をよぎる。ああ、こんな時、前世にあった『マイク』があれば……! 私が心の底から強く願った、その瞬間だった。
トクン!
胸元のポルカが、私の『願い』に応えるように激しく脈打ち、眩い光を放った!
(え!?)
次のフレーズを歌った瞬間、自分の声が、まるでマイクを使ったかのように増幅され、クリアで温かい音色となって広場全体に響き渡った!
「……なっ!?」
「声が……でかくなった?いや、響いて……」
ざわめきが止まる。全ての視線が、私に集中する。
その瞬間を、仲間たちが見逃すはずがなかった。
先生が詠唱を始め、無数の小さな光の玉が広場に広がり、幻想的な銀色の光でステージを彩る。
母上の《陽炎》が、ステージの周囲に穏やかな熱気流を生み出し、光を揺らめかせる。
そして、セリナの《風の息吹》が、私の歌に合わせて髪とドレスをドラマチックに揺らした。
幻想的な光景と、どこまでも響き渡る優しい歌声に、兵士さんたちは言葉を失っていた。
バルガス隊長が目を見開き、カイルも手を止めて呆然と見つめている。
私の『瞳』には、彼らの張り詰めていた鋼の旋律が、少しずつ解きほぐされていくのが視えた。
一人の兵士が、無言で涙をこぼした。
一曲目が終わり、広場は静寂に包まれた。
私は、ペトラに合図を送った。
今度は、皆の心を鼓舞するための、勇ましい曲だ!
私がギターをかき鳴らすと同時に、ペトラと護衛兵たちによるリズム隊が、大地を揺るがすビートを刻み始めた!
ドン!ドドン!ドン!
先生の光が点滅し、母上の陽炎が燃え上がり、セリナの風が強まる!
「うおお……!なんだこりゃあ!」
「すげえぞ!」
誰かが手拍子を始めた。それが波紋のように広がり、兵士さんたちが足を踏み鳴らし始める。
私の『瞳』には、彼らの旋律が熱を帯びた赤や橙色へと変わっていくのが視えた!
私はさらにテンポを上げ、踊りながら観客を煽る!
(やるしかないよね!)
曲が終わり、私が天を指差しポーズを決めた瞬間。
地鳴りのような大歓声と拍手が、北の要塞の夜空を震わせた!
「「「うおおおおおおおっ!!!」」」
「姫様、すげえ!」
「最高だ!」
「涙が止まらねえ……!」
兵士さんたちが、子供のようにはしゃいでいる。
バルガス隊長が「静まれ!」と一喝するけれど、その口元は確かに笑っていた。
カイルも、呆然としたまま、その旋律を素直な感動の色に染めていた。
私は、鳴り止まない歓声に応え、もう一度深くお辞儀をした。
シルヴァの厳しい街にも、私たちの歌は、確かに届いたのだ。




