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第56話 約束の木

 作戦が成功し、ケルドの街が歓喜に沸いた翌々日の朝。


 あれほど濃密で禍々しい紫色の瘴気に覆われ、不気味な静寂と狂騒の音が支配していた響谷は、まるで嘘のようにその姿を変えていた。


 空はどこまでも高く澄み渡り、谷間を吹き抜けるまだ少し冷たい風には、土と若草の匂いが混じっている。


 小鳥たちのさえずりが、まるで世界が生まれ変わったことを祝福するように、明るく楽しげに響き渡っていた。数日前まで、ここが死と隣り合わせの魔境だったとは、とても信じられない。


 負傷した冒険者さんたちの容態も安定し、治療のための人員や物資も領都から送られてくる目途がついた。私たち辺境伯一行も、いよいよケルドを出発し、旅程の次の目的地である「森の扉の街シルヴァ」へと向かう準備を始めていた。


 しかしその前に、どうしても果たさなければならない約束があったのだ。


「パスティエール様、足元にお気をつけてくださいませ」


「ありがとう、セリナ」


 私は、先生、セリナ、ペトラ、それと数名の護衛の兵士さんたちと共に、再びあの響谷へと足を踏み入れていた。


 そして意外なことに、あの“頑固”のグレンさんも「道案内は任せろ」と、ぶっきらぼうながらもどこか誇らしげに言いながら、先頭に立ってついてきてくれていた。


 谷の入り口付近には、まだあの激戦の爪痕が生々しく残っていた。


 地面には、動きを止めたゴーレムの残骸と思われる苔むした岩石がゴロゴロと転がっている。


 崖の一部は、私の歌の力が暴走したかのように不自然に抉れ、崩落した岩が道を塞いでいる箇所もあった。


 そして、私たちが陣を構えていた広場には……みんなの希望を託した『超指向性歌声増幅砲』の残骸が、その大役を終えて静かに横たわっていた。


 あの最後の歌の衝撃に耐えきれず、砲身にも大きな亀裂が入り、痛々しい姿になっていた。それでも、朝日を浴びて鈍色の輝きを放つその姿は、まるで役目を果たし切った老兵のように、どこか誇らしげにも見えた。


 ペトラは、その残骸を一瞥すると、少しだけ寂しそうな顔でそっと表面を撫でたけれど、すぐに「よし!」と気合を入れるように顔を上げ、前を向き直った。


 彼女の中では、もう次の目標……新しい楽器作りへと気持ちが切り替わっているのだろう。


「本当に……綺麗になりましたわね……」


 セリナが、谷の奥を見渡しながら感嘆の声を漏らす。彼女の言う通り、谷の奥へ進むにつれて景色は一変していた。


 瘴気に蝕まれ、黒く枯れていた木々は、まるで枯れ木に花が咲くかのように瑞々しい緑の葉を茂らせ、地面には陽光を浴びて、紫や白の可憐な花々が咲き始めている。


 私の『瞳』には、谷全体が、穏やかで清らかな、優しい光の旋律で満たされているのが視えた。


 あの苦しみに満ちた不協和音は、もうどこにもない。心が洗われるような、美しい音色だけが響いている。


「しかし、見事でしたな。パスティエール様の歌の力……改めて驚嘆いたします」


 先生が、周囲の植物を観察しながら感心したように言う。


 私は少し照れくさくて俯いた。私だけの力じゃない。ペトラの『増幅砲』、母上の『調律』、先生や魔術師さんたちの魔力、そして何より、命懸けで戦ってくれた冒険者さんたち……みんなの力が合わさったからこそ起きた奇跡なのだ。


「よし、こっちだ。響木(ひびきぎ)なら、この谷の奥にある古い水場の近くに、良いのが生えてるはずだ」


 グレンさんが、確かな足取りで先導してくれる。


「わしが若い頃、貴族に頼まれて、上等なリュートを作るのに使ったことがある。ちっとばかし加工に癖がある木だが、仕上がりは格別でな」


 グレンさんは、道すがら、響木の特性をペトラに詳しく教えてくれているようだった。


「音の響きが良いだけじゃねえ。魔力の馴染みも良いんだ。だから、魔力付与なんかを施すにも最適でな。ただし、乾燥させすぎると割れやすいし、逆に湿気を含みすぎると音が鈍る。扱うにはちとコツがいる」


「へえー!魔力の馴染みがいいんだ!ってことは、パスティエール様の歌とも相性がいいかも!乾燥具合の見極めは……木目と重さかな?どんな道具で加工するのが一番いいの?」


 ペトラは目をキラキラさせながら、小さな手帳にすごい勢いでメモを取っている。


 もう完全に職人モードだ。グレンさんも、そんなペトラの熱意が嬉しいのか、普段の厳つい顔を少しだけ和らげて、丁寧に質問に答えてあげている。


 なんだか、本当の師弟みたいだ。


 私も、二人の会話を聞きながら、『瞳』に意識を集中させる。谷全体が美しい旋律を奏でているけれど、その中でもひときわ強く、そして複雑で豊かな響きを持つ旋律を探す。


「わたくしも、何かお手伝いを……!あ、パスティエール様、ご覧ください!」


 セリナも一生懸命、何か役に立とうとしてくれている。足元に転がっていた、ゴーレムの残骸の中から鈍く光る石のようなものを見つけて、私に見せようと駆け寄ってきた。……のは良いのだけれど。


「パスティエール様!綺麗な石を見つけました!」


 足元への注意が疎かになっていたのだろう。彼女は、ゴーレムの腕だったらしい苔むした岩の破片に、思い切り躓いた!


「ふぎゃぁっ!」


 情けない悲鳴と共に、前のめりに体が傾く。その先には、運悪く、昨日の雨でできたらしい泥水たまりが……!


 あわや顔面からダイブ、というところで、間一髪。すぐそばを歩いていたグレンさんが、ひょいと彼女の襟首を掴んで宙吊りにしてくれた。


「も、も、申し訳ありませんっ!ありがとうございます、グレン様!」


 ぶら下げられたまま、顔を真っ赤にして涙目になっているセリナ。その顔には、見事に泥が跳ねている。


「もう……セリナったら!でも、怪我がなくてよかった……。それにしても、ゴーレムを目の前にして私の前に立ちはだかってくれた時は、あんなにかっこよかったのに」


 私が笑うと、ペトラも大きなため息をつきながら呆れ顔で言った。


「セリナさん、だから前見て歩きなって……。あーあ、泥、ついちゃってるよ」


「ったく、どっちがお付きかわかんねえな。しっかりしろい、お嬢ちゃん」


 グレンさんも苦笑いを浮かべている。セリナは「うぅ……面目次第もございません……」と、さらに縮こまってしまった。


 そんな和やかな一幕の後、私たちは目的の場所へと歩を進めた。


 すると突然、空気を切り裂くような甲高い鳴き声が、谷間に響き渡った!


「キシャァァァァァ!!」


 見上げると、切り立った崖の上から、数羽の巨大な鳥……いや、鳥型の魔獣が、私たちを目掛けて急降下してくるところだった!


風裂き鷲(かぜさきわし)だ!気をつけろ!」とグレンさんが叫ぶ。


「敵襲!姫様をお守りしろ!」


 護衛兵さんたちが、即座に私と母上、ペトラ、セリナを囲むように円陣を組む!盾を構え、剣を抜く音が響く。


 先生が牽制の魔力弾を放ちながら、さらに風の精霊魔術を詠唱し、鋭い風の刃を形成する。


(焼き鳥にしたら何人前だろうか……じゅるり)


 などと緊張感の無いことを考えていたら、セリナが私の前に立ち、短剣を抜き放った。


 セリナは自身の周囲に魔力弾をいくつか待機させつつ、『水の矢』の精霊魔術の詠唱を開始する。


 グレンさんも、いつの間にか背負っていた巨大なウォーハンマーを両手で構え、ペトラを守るように前に立ちはだかっている。


「キシャアアッ!」


 魔獣たちは、風の刃を巧みにかわしながら、鋭い爪と嘴で護衛兵さんたちの盾に襲いかかる!


 ガキン!ガギン!と激しい金属音が響き、火花が散る。魔獣の動きは非常に素早く、連携も取れているようで厄介だ。


 数分の激しい攻防。しかし、護衛兵さんたちの連携は見事で、魔獣に決定的な隙を与えない。やがて、先生の風の刃と護衛兵さんたちの剣によって深手を負った魔獣たちは、状況不利と判断したのか、捨て台詞のような甲高い鳴き声を残して、森の奥へと飛び去っていった。


「……くそっ、しつこい奴らめ……」


 護衛兵の一人が、腕に負った浅い切り傷を押さえながら吐き捨てる。幸い、大きな怪我をした者はいなかったが、数名が軽傷を負っていた。


「瘴気は晴れても、ここは元々魔獣が跋扈する危険な場所です。気を引き締めましょう」


 先生が、改めて私たちに注意を促した。


(先生ごめんなさい、焼き鳥が逃げたとか考えてたわ。気を引き締めよう)


 私はちょっぴり反省。


 んん、気を取り直して、私たちは目的の水場へと向かった。そこは、谷の中でも特に清らかな空気が満ちている場所だった。


 岩の間から湧き出る水が小さな泉を作り、その周りに、ひときわ立派な木々が数本、静かに佇んでいた。


「おお……これだ。間違いねえ、響木だ」


 グレンさんが、感嘆の声を漏らす。どの木も、幹は太く、枝ぶりも見事で、美しい木目を持っている。


「どれも悪くねえが……さて、どれにするか。嬢ちゃん、お前はどう見る?」


 グレンさんに促され、ペトラは目を光らせる。


「うーん……こっちの木の方が、成長具合が良いかも。でも、こっちの木は節が少ないから加工しやすそう……」


 ペトラは、木に触れたり、軽く叩いて音を確かめたりしながら、真剣な表情で吟味している。グレンさんも、彼女の意見に耳を傾けながら、自らの経験と知識を交えてアドバイスを送る。二人の間には、もう完全にプロの職人同士の信頼関係が築かれているようだった。


 私も、改めて『瞳』でその木々を見つめた。どの木も、他の木々とは比べ物にならないほど、美しく澄んだ旋律を奏でている。


 でも、その中でも一本だけ……いや、一本の木から伸びている、ひときわ太い枝が、まるで歌うかのように、喜びと力強さに満ちた、黄金色の光を放っているのが視えた。


「グレンさん、ペトラ!あそこ!あの枝、すごく綺麗!」


 私が指差した枝を見て、グレンさんが目を見開いた。


「……ほう。姫さんの言う通りだ。確かに、こりゃあ極上品だわい!」


 ペトラも駆け寄ってきて、その枝に触れる。


「本当だ……!密度が段違いだね、これなら間違いないよ、パスティエール様!」


 私たちは、その特別な枝に感謝の祈りを捧げ、楽器を作るために必要な分だけを、グレンさんの指示のもと、兵士さんたちに丁寧に切り出してもらった。


 切り口からは、まるで黄金の樹液のように、淡い光を帯びた魔力がゆっくりと滲み出ている。ペトラは、その切り出された『響木』の欠片を、まるで生まれたばかりの赤子を抱くかのように、両手でそっと受け取った。


「これが……響木……。なんだか、本当に生きてるみたいだ……!」


 彼女は、その木片を顔に近づけ、森の香りを深く吸い込み、うっとりとした表情を浮かべている。


「パスティエール様!絶対、すごい楽器作ってみせるから!まずは楽器のことを勉強しないと!」


 私に向かって、満面の笑みで力強く宣言するペトラ。その笑顔は、朝日みたいに眩しくて、私の心まで温かくしてくれた。


 私も、彼女の隣で、響木の欠片にそっと触れてみた。しっとりと手に馴染む、温かくて優しい感触。すると、私の胸元で、小さな光の塊……チビ精霊が、嬉しそうに共鳴するように、キラキラと輝きを増した。まるで、「早くその木で歌って!」とでも言っているみたいに。


(そういえば、この子、名前どうしようかな……?あの消えていった精霊さんは、何の精霊だったのかな?聞きそびれちゃったけど……ありがとうって、ちゃんと言えたかな……)


 消えていった精霊への感謝と、新しく生まれた小さな命への愛おしさ。そして、この響木から生まれるであろう、未来の音楽への期待。私の心は、少しの不安と、たくさんの温かい気持ちで満たされていた。


 響木を手に入れた私たちは、ケルドの街へと戻り、いよいよ出発の日を迎えた。


 数日前とは打って変わり、街は活気を取り戻し、人々は笑顔で私たちを見送ってくれた。


「ありがとう!辺境伯家万歳!」

「姫様、どうかお元気で!」

「またいつでもケルドへ!」


 口々に感謝と激励の言葉を投げかけてくれる冒険者達。


 さらには代官と、ギルドマスターが見送りに来てくれた。


「エリアーナ様、パスティエール様、この度の御恩、重ねて感謝いたします。峡谷は、我々遺跡研究ギルドが責任を持って管理し、響木も大切に守り育てていくことをお約束します」


 代官が深々と頭を下げる。


「今回は我々冒険者ギルドもたいへんお世話になりました、エリアーナ様。さすがは元魔導卿……『紅蓮(ぐれん)』と呼ばれただけのことはありますね。見事な指揮でした」


 ギルドマスターが、母上に向かって、戦士としての純粋な敬意を込めて言った。


(え?『紅蓮』?元魔導卿……!?お母様、そんなすごい人だったの!?)


 初めて聞く母上の二つ名に、私は目を丸くして聞き耳を立てたけれど、母上は「昔の話ですわ」と優雅に微笑んで、涼しい顔で受け流すだけだった。むぅ、気になる……。今度、こっそり先生に聞いてみようかな。


 工房の前では、もう一つの、少しだけ寂しい別れが行われていた。


「達者でな、嬢ちゃん」


 グレンさんが、ペトラの肩を力強く、バン!と叩いた。


「お前の『ひらめき』は本物だ。だが、腕はまだまだだ!いつでも工房に顔を出せ、鍛え直してやる!」


「……うん!ありがとう、親方!もっとすごいもの作れるようになって、また必ず来るから!」


 ペトラは、目に涙をいっぱい溜めながらも、ぐっと堪えて、力強く頷き返した。グレンさんは、ぶっきらぼうに「ほらよ」と言って、小さな革の包みをペトラに手渡した。


 中には、彼女の小さな手にぴったり合うように作られた、真新しい、美しい模様の入った小さなノミが入っていた。


 きっと、グレンさんが徹夜で作ってくれた、最高の餞別の品なのだろう。


 ペトラは、そのノミを宝物のように、ぎゅっと、ぎゅっと握りしめていた。二人の間には、言葉は少なくとも、確かに深い師弟の絆が結ばれたのだ。


 たくさんの感謝と、少しの寂しさと、そして大きな希望を胸に、私たちは馬車に乗り込んだ。


 動き出した馬車の窓から、遠ざかっていくケルドの街並みと、いつまでも手を振ってくれているグレンさんや、街の人々が見える。ありがとう、ケルド。たくさんのことを学んだよ。また、きっと来るからね。


 馬車の中は、旅立ちの興奮と、心地よい疲労感が混じり合った、穏やかな空気に満ちていた。


 私は、大切に布に包まれた響木の欠片のことを想い、そして、胸元で微かに光るチビ精霊にそっと触れた。


 私たちの旅は、まだ始まったばかり。次の目的地、「森の扉の街シルヴァ」へ向けて、馬車は西の街道をゆっくりと進んでいく。


 穏やかな日差しの中、新たな希望と、そして胸元の小さな光を乗せて。

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