第55話 新しい出会い
薄まったとはいえ、まだ淡く漂う灰色の瘴気のせいで、峡谷内部の様子は、はっきりとは見えない。
広場にいる誰もが、固唾を呑んでその結果を待っていた。 第一部隊、第二部隊、第三部隊……彼らは、今、どうなっているのか……?
誰もが、目の前で起こった信じられない光景と、訪れた静寂に、ただ呆然としている。 広場に満ちていたのは、成功を確信できない不安と、同時に、奇跡へのわずかな希望だった。
その時だった。
静寂を破り、峡谷の奥の灰色の帳の中から、フラつきながらも、複数の人影が姿を現した。
一人、また一人と、増えていく人影に、広場にいた全員が息を呑む。
それは、満身創痍の仲間たちだった!
先頭にはギルドマスターが、ボロボロになりながらも、その巨体を支えて歩いてくる。
その後ろには、グレンさん、ペトラ……。そして、多くの冒険者や兵士さんたちが、互いに肩を貸し合い、あるいは這うようにして、こちらに向かってくる。
全員が、泥と血にまみれ、衣服は破れ、武器は折れている。中には、意識を失い、仲間に担がれている者もいる。
しかし、彼らの顔には、瘴気から解放された安堵と、私たちに向けられた、深々と頭を下げる感謝の念が浮かんでいた。
彼らは、峡谷の入り口にたどり着くと、その場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。
だが、その誰もが、安堵の息を吐き、互いの無事を喜び合っている。
「みんな……!みんな、生きてます……!」
セリナが、目に涙をいっぱいに溜めて、震える声で呟いた。
私も、その光景を目の当たりにして、張り詰めていた心の糸が、プツン、と音を立てて切れるのを感じた。そして、熱いものが、目からとめどなく溢れ出した。
その瞬間、ペトラが私に向かって駆け寄ってきた。
「パスティエール様……!」
ペトラは、私を力強く抱きしめた。彼女の体も傷だらけで、その体から伝わる震えと、温かい涙が、私の肩に染み込んでいく。
「パスティエール様……!よかった……!みんな、生きてる……!パスティエール様の歌、ちゃんと届いたよ……!本当に……ありがとう……!」
ペトラは、涙声で、けれど必死に言葉を紡いだ。私も、ただ、彼女の背中に腕を回し、顔を埋めて泣くことしかできなかった。
奇跡だった。
瘴気が消滅寸前に放った最後の衝撃波をまともに受け、水のヴェールも失われたあの状況で、重傷者は多数出たものの、死者は一人も出ていなかったのだ。
もしかしたら、私の最後の歌の余波が、ほんの少しだけ衝撃を和らげてくれたのかもしれない。そして、私の歌が、みんなの心を繋ぎとめてくれたのかもしれない……。
そう信じたい。でも……。
私の胸を締め付けるのは、安堵だけではなかった。
(……間に合わなかった……)
あの声……瘴気の奥で、ずっと助けを求めていた、か細い声。
私の歌は、確かに届いた。けれど、私は彼を完全に救うことはできなかった。
私の力が足りなかったから?それとも、もっと早く気づいていれば……?
後悔の念が、鉛のように重く心にのしかかる。皆が生きて帰ってきてくれた喜びの中で、私だけが、消えゆく精霊への無力感に苛まれていた。
安堵と喜びの声が広場に広がる中、私だけは、峡谷の中心から聞こえる旋律に、より強く引き寄せられていた。
それは、もはや悲しみだけではない。感謝と、そして、どこか寂しげな、別れを告げるような響きに変わっていたのだ。
その時、奇妙なことが起こった。
峡谷を覆っていた淡い灰色の瘴気が、まるで薄い霧のように、すーっと消え失せていく。そして、峡谷の中心部が露わになったのだ。
(……行かなきゃ……!)
あの声の主が、私を呼んでいる気がした。衝動的に体が動き、私は峡谷の中心部へと足を踏み出そうとした。
「パスティエール様!?お待ちください!」
セリナが慌てて私の腕を掴む。振り返ると、母上と先生、そしてペトラも、心配そうな顔でこちらを見ていた。
「母上、先生……私、行かないと……」
私の真剣な瞳を見て、母上は何かを察したように、静かに頷いた。
「……わかりました。ですが、一人では行かせません。先生、セリナ、ペトラも。護衛はここで待機。我々だけで行きましょう」
こうして、私は母上たちと共に、峡谷の中心部へと足を踏み入れた。
峡谷の中心部。
私の『瞳』には、そこに、光の粒子が凝縮されたような、半透明の、美しい存在が顕現しているのが視えた。
それは、微細な光の点が集まってできた、人の形を模した、しかしどこか曖昧な姿。その体は、今にも消え入りそうに希薄で、まるで夜明けの霧のように、儚く揺らめいていた。
(……精霊……!)
あの声の主。私の歌が、ついに彼を、苦しみから解き放ったのだ。
けれど、その姿はあまりにも儚く、弱々しい。間に合わなかった、という現実が、冷たく胸に突き刺さる。
消滅寸前の精霊の姿を認識できるのは、おそらく私だけだろう。しかし、その存在が放つ、澄み切った旋律は、その場にいる母上たちの心にも、安堵と、そして言いようのない感動を与えているようだった。
その精霊の声が、直接、私の心に響き渡る。
《……ありがとう……星の歌い手よ……》
その声は、消え入りそうなほど微かだったけれど、温かかった。私の後悔を見透かすように、優しく響いた。
《私は……『浸食者』の瘴気に……汚染され……正気を失い……長きにわたり……苦しんでいた……》
精霊の声は震えていた。どれほどの孤独と絶望の中にいたのだろう。私の想像を絶する苦しみが、その旋律から痛いほど伝わってくる。
《あなたの……歌が……私を……浄化し……正気に……戻して……くれた……》
ありがとう、と繰り返す彼の言葉に、私の涙腺がまた緩む。救えなかったと思っていたけれど、少なくとも、最後の瞬間に、安らぎを届けることはできたのかもしれない。
《しかし……私は……もう……消滅する……ようだ……》
精霊の体が、さらに希薄になっていく。光の粒子が、きらきらと舞い上がり、朝の光に溶けていく。
ああ、行かないで……!
心の中で叫んだけれど、言葉にはならなかった。
《だが……私は……また……生まれる……》
精霊は、私に微笑むかのように、優しい波動を送ってくれた。それは、諦めではなく、輪廻の摂理を受け入れる、静かな覚悟の響きだった。
せめて、安らかに眠ってほしい。
その想いが、自然と歌になって溢れ出した。私は、消えゆく彼に向けて子守歌を、そっと口ずさみ始めた。
『――眠れ……眠れ……安らかに――』
私の小さな歌声が、峡谷に響く。それは祈りの歌。
精霊は、その歌を聴きながら、穏やかな表情を浮かべ、さらにゆっくりと光の粒子へと還っていく。
《星の歌い手よ……》
精霊が、私を真っ直ぐに見つめる。その瞳の奥に、深い叡智と、そして子供のような純粋な好奇心が宿っているのが視えた。
《あなたの歌声……そして……その心の清らかさ……私は……深く……深く……感銘を受けた……》
彼の体が、さらに強く輝く。最後の力を振り絞るように。
《できればあなたに……ついて……いきたい……しかしそれも叶わぬ願い……》
その言葉は、純粋な願い。私という存在への、魂からの呼びかけ。彼の最後の望みが、私の心に温かく響いた。
彼の光の体が、完全に消滅しようとしていた。
ありがとう。さようなら。そして、また、いつか……。
子守歌を歌い続けながら、私は、彼が光の粒子となって完全に空間に溶けていくのを、ただ見送ることしかできなかった。 寂しい、という感情が、静かに胸を満たした。
しかし。 彼が完全に消え去る直前。
その光の粒子の集合体から、ひときわ小さな、しかし澄んだ光の粒が、まるで夜空に最後に残った一番星のように……ううん、新しい朝を告げる暁の星のように、生まれ出たのだ!
それは、私の掌に乗るほどの、とても小さな、光の塊。 生まれたばかりの精霊……!
(……精霊の輝き……)
その小さな光は、迷うことなく私のもとへと飛んでくる。そして、私の胸元……心臓のあたりに、まるで冷たい場所に温もりを求めるみたいに、……ううん、最初からそこが自分の居場所だったみたいに、そっと落ち着いたのだ。
他の者には、ただの光の粒子が私に寄り添ったようにしか見えないだろう。
しかし、私の『瞳』には、それがはっきりと、生きている精霊として視えていた。小さくて、頼りなくて、でも、確かな命の輝きを放っている。
その小さな精霊の想いが、直接、私の心に響く。
《……つれていって……》
それは、生まれたばかりの赤ん坊が母親を求めるような、純粋な喜びと、私への絶対的な信頼に満ちた声だった。
私は、その小さな精霊の存在に、ただただ驚き、そして胸の奥から、さっきまでの後悔や寂しさを吹き飛ばすような、温かいものが込み上げてくるのを感じた。
「……おかえりなさい……ううん、はじめまして……かな?」
私の胸元で光る小さな精霊を、そっと掌で包み込む。
トクン、トクンと、私の心臓の鼓動に合わせて、小さく、しかし確かに脈打っているようだった。この温もりは、幻じゃない。
ふと顔を上げると、母上が、険しい表情で私と、私の胸元あたりをじっと見つめているのに気づいた。
母上には、この小さな精霊の姿は見えていないはずだ。でも、何かを感じ取っている……?
母上の険しい表情から、私は、自分が何かとてつもなく珍しい、そしてもしかしたら危険な状態にあるのかもしれない、ということだけを漠然と感じ取っていた。
「パスティエール……」
母上の瞳には、娘の私を護る母親としての決意と、この事態をどう乗り切るかという、難しい顔が入り混じっていた。
私は、母上の視線を受け止めながら、胸元の小さな精霊の温かい光を感じていた。
怖い。これから何が起こるのか、想像もつかない。でも、それ以上に、この小さな光を守りたい、という気持ちが強かった。
そして、この精霊が教えてくれた、私の歌が持つ力を使って、この世界で苦しむ存在を癒やしていきたい。あの消えゆく精霊が最後に願ったように。
新たな仲間と、新たな使命。そして、自分自身に降りかかるかもしれない危険。
その全てを胸に、私は、瘴気が完全に晴れた峡谷の出口、差し込む朝陽を見つめた。
夜が明け始め、峡谷には淡い朝の光が差し込む。
瘴気は完全に晴れ、岩壁の緑が、その本来の色を取り戻している。まるで、世界が生まれ変わったかのようだ。
広場では、傷つきながらも生き残った仲間たちが、希望の光を浴びながら、互いを支え合っている。
彼らの顔には、この激戦を乗り越えた達成感と、未来への確かな希望が浮かんでいた。
私は、胸元の小さな光にそっと触れる。
「一緒に、強くなろうね」
私の心の中で、新たな精霊が、小さく、しかし確かに共鳴した。 この冒険は、まだ始まったばかりなのだと。




