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第52話 迫りくる巨影とタイムリミット

 三十分。


 それが、私たちに与えられた、運命の時間だった。


 先生が懐中時計の蓋を開け、作戦開始を告げた瞬間から、まるで世界から色が失われたかのように、私の意識はその一点…静かに時を刻む針の音だけに集中していた。


 私は、峡谷の入り口、これから設置されるであろう『増幅砲』の基点となる場所に立っている。


背後には母上と、ゼノン家が誇る精鋭の護衛兵たちが、私を中心に鉄壁の円陣を組んでくれている。彼らの存在は心強いけれど、今の私にできることは、ただ祈ることだけだった。


 峡谷の奥深くからは、第一部隊の激しい戦闘音が、まるで遠い嵐の前の雷鳴のように、断続的に響いてくる。ゴォォン!という鈍い金属音。


 ガガガガ…というゴーレムの重々しい駆動音。そして時折、それに混じって聞こえる、冒険者さんたちの勇ましい雄叫び。彼らが今、どれほど過酷な状況で戦っているのか、想像するだけで胸が締め付けられる。


 けれど、耳を澄ませば聞こえてくるのは、それだけではなかった。


 キィィィィン…!


 まるで黒板を爪で引っ掻くような、あるいはもっと鋭利な何かで脳髄を直接引っ掻かれるような、甲高い高周波音が、どこからともなく響いてくる。


 それは、物理的な音というより、もっと精神の深い部分に突き刺さるような、嫌な響きだった。思わず耳を塞ぎたくなるけれど、それでは意味がないことを、私は知っていた。


 かと思えば、ズゥゥゥン…と、今度は腹の底の、さらに奥深く…魂の芯まで響くような、重く、淀んだ低音が、地面を伝わって、あるいは空気そのものを震わせて、私たちを襲う。


それは、立っている場所の感覚を曖昧にし、平衡感覚をじわじわと狂わせるような、不快極まりない振動だった。


 これが、あの「幻惑の呪い」の余波なのだ。安全地帯であるはずの峡谷の入り口にいる私たちですら、これほどの不快感と圧迫感を感じるのだ。


 今まさに、あの呪いのど真ん中で作業をしている第二部隊と第三部隊の皆さんは、そして、さらに奥深くで戦っている第一部隊の皆さんは、一体どれほどの苦痛に耐えているのだろう…?


 私は、ただ目を閉じて、泉の精霊様と、そして仲間たちの無事を祈ることしかできない。


(第一部隊の皆さん、第二部隊、第三部隊の皆さん、ペトラ、グレンさん…どうか、どうかご無事で…!)


 隣にいるセリナが、私の手をそっと握ってくれた。彼女の手は、やっぱり小刻みに震えていて、その不安が痛いほど伝わってくる。


「パスティエール様…」


 心配そうに私の顔を覗き込むセリナに、私は努めて穏やかな笑顔を作り、彼女の手をぎゅっと握り返して、小さく、しかしはっきりと囁いた。


「大丈夫よ、セリナ」


 私の心臓だって、今にも破裂しそうなほど速く打っているけれど、セリナの前では、しっかりしなくちゃ。彼女は、私の初めての友達で、私の大切な人なのだから。


 その時、先生が懐中時計を確認し、静かに、しかし重い声で告げた。


「…まもなく十分経過。…第一部隊の『水のヴェール』の効果は、もうほとんど残っていないでしょう」


 先生の言葉と、それを裏付けるかのように一層激しくなった峡谷奥からの戦闘音、そして強まる異音に、私の胸が締め付けられる。セリナも息を呑むのがわかった。


 第一部隊の皆さんは、これから『耳栓兜』だけを頼りに、あの激しい戦闘を続けなければならないのだ。


 水のヴェールという最後の盾を失った彼らが、どれほどの苦痛と恐怖に耐えているのか…。想像しただけで、涙が滲みそうになるのを必死でこらえた。


 さらに数分が経過した頃だった。


 峡谷の入り口付近の闇から、息を切らせた人影が飛び出してきた。第三部隊に所属する、斥候さんだ!彼は伝令として、内部の状況を知らせに戻ってきてくれたのだ。


 彼は耳栓兜を慌ててずらすと、母上の隣に控える護衛兵に、早口で状況を報告し始めた。声を出してはいけない峡谷内部から戻ってきたばかりで、まだ緊張が解けていないのだろう。その声は少し上ずり、肩で大きく息をしている。


 護衛兵は、その報告を聞き取ると、すぐに母上へと向き直り、冷静に内容を伝えた。


「『増幅砲』、第三パーツまで連結完了!現在、第四パーツ固定中!……ですが地形が悪く、難航しています!」


 第三パーツまで…!全長五十メートルの砲身のうち、半分近くまで進んでいる!


「ですが…」護衛兵は続けた。


「予定より若干遅延しております。原因は、予想以上に峡谷の地形が険しく、パーツを水平に固定するための場所の調整に時間を要している、とのことです」


 護衛兵は、さらに続ける。


「第三部隊の現状を報告します。第二部隊設営地点の周囲にて、ゴーレムを数体確認。現在、第三部隊が陽動及び足止め交戦中です。第二部隊への直接の脅威は、今のところありません」


 私たちは一人で戦っているんじゃない。皆が、それぞれの持ち場で、命懸けで戦ってくれているのだ。


 報告を終えた斥候さんは、礼をする間もなく、再び峡谷へと駆け戻っていこうとする。その顔は青ざめ、額には脂汗が滲んでいる。


 水のヴェールと耳栓兜があっても、あの呪いの中での活動は、精神的な消耗が相当なものなのだろう。私とセリナは、その勇敢な背中に、ただ深く頭を下げることしかできなかった。


 時は、無情に過ぎていく。

 先生が持つ懐中時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。


 峡谷の奥からの戦闘音は、もはや轟音と言ってもいいほどに激しさを増していた。それに呼応するように、こちらまで届く呪いの余波…キィィンという高周波音や、ズゥゥンという重低音も、明らかにその強度と頻度を増している。


 まるで、峡谷そのものが怒り、侵入者である私たちを排除しようと牙を剥き始めたかのようだ。


 先生が、懐中時計を睨みつけながら、厳しい声で告げた。


「…まもなく二十分経過。残り時間、あと十分です」


「あと十分…!」


 セリナが、私の手をさらに強く握りしめた。彼女の声が、恐怖で震えているのがわかった。あと十分で、あの巨大な砲を完成させなければならない。間に合うのだろうか…?


 キィィィィィィン!!


 突然、今までで一番強烈な高周波音が、私たちの脳天を突き抜けた!


「ひっ…!」


 セリナが小さな悲鳴を上げて、思わず両耳を塞ぐ。私も、頭の芯が痺れるような感覚に、一瞬、目の前が白くなった。護衛の兵士さんたちも、わずかに体勢を崩している。


(これが…呪いの本格的な反撃…!?)


 その、耳をつんざくような異音が鳴り響く中、再び、伝令の斥候さんが峡谷から転がり出るようにして現れた。


 しかし、彼の様子が明らかにおかしかった。耳栓兜の上から両耳を強く押さえ、足元がおぼつかず、まるで酔っ払いのようにふらついている。その顔は土気色で、瞳孔が開ききっているように見えた。


「どうしました!?しっかりなさい!」


 先生が駆け寄り、彼の肩を支える。


 斥候さんは、うわ言のように、必死に言葉を絞り出した。その声はかすれ、途切れ途切れで、聞き取るのもやっとだった。


「第二…部隊…第四パーツ…こ、固定完了…!第五…搬入中…!し、しかし…!」


 彼は、ぜえぜえと息をつきながら、絶望的な言葉を続けた。


「ゴ、ゴーレム…!お、大型…のゴーレムが!せ、接近…!う、うわあああっ!」


 彼は、突然、頭を抱えてその場に蹲ってしまった。幻聴か、あるいは別の何かが見えているのかもしれない。呪いが、ついに彼の精神を蝕み始めたのだ…!


「彼を後方へ!」


 先生の指示で、冒険者たちが駆け寄り、彼を担架に乗せて運び去っていく。


 斥候が意識を失う直前、彼の震える指が、峡谷の入り口…私たちがいる広場の方向を指し示していた。


(まさか…!?)


 私の悪寒は、すぐに現実となる。


 ズゥゥゥン…ゴゴゴゴ…!


 地面を揺るがす駆動音が、かつてないほどの強度で響き渡った。峡谷の入り口を覆う瘴気の帳が、激しく波打ち、そして、ずるりと捲れ上がる。


 姿を現したのは、巨大な影。一体、また一体と、その岩石と金属の巨体が、私たちの目の前に現れた。


 大型ゴーレムだ。 それも、三体。


 第一部隊と第三部隊の猛攻を掻い潜り、あるいは踏み潰し、ついに峡谷から、この入り口の広場まで突破してきたのだ。彼らの眼窩に宿る魔力が、赤く禍々しく輝き、私たちを睥睨していた。


「くっ…!なんてこと…!各位、戦闘準備!」


 母上が、即座に指示を飛ばす。その声は、乱れることのない鋼の響きを持っていた。


 ゼノン家が誇る護衛兵たちは、一瞬にして盾を構え、陣形を再構築する。彼らは、私と『増幅砲』を死守するべく、まさに鉄壁の壁となる。


「パスティエール様と増幅砲を守れ!障壁を展開しろ!」 


護衛隊長が叫ぶ。


兵士たちは即座に、盾を構えるの同時に魔力障壁を『増幅砲』の周囲に展開していく。


 先生は、冒険者ギルドから派遣された魔術師たちに指示を出していた。


「よし、皆、聞け!峡谷入り口であれば、精霊魔術は有効だ!奴らの関節を狙い、動きを鈍らせろ!」


「は、はいっ!」


 魔術師たちは、震えながらも、一斉に詠唱を開始した。彼らの手元から、淡い光や水の粒子が立ち上り始める。


 母上は、私の傍らに立つセリナに鋭い視線を向けた。


「セリナは、パスティエールを護衛!『障壁』の展開を最優先に!」


「はいっ!エリアーナ様!」


 セリナは、恐怖に顔を歪ませながらも、私の前に立ち、両手を構えた。彼女の掌から、透明な魔力の障壁が薄く展開される。そして、彼女はさらに、小さな声で詠唱を始めた。


『――清き水の精霊よ(イコイイサイリス)集いて応えよ(イダストオィアト)――』


 母上は、その全てを確認すると、深呼吸を一つし、両手を地面に強く押し付けた。


 その瞳には、冷静な指揮官の眼差しだけでなく、娘を護る母親としての強い決意が宿っていた。彼女の全身から、凄まじい魔力がほとばしり、地を這うように広がる。


 母上は、大地の精霊に語りかけるように、重々しく、しかし広がりを持った声で詠唱を開始した。


『――深淵なる(ネフス)大地の精霊よ(ハチダイリス)その胎動(オディア)集いて応えよ(イダストオィアト)!――』


 母上の精霊言語の詠唱が、広場の地面を震わせる。その声は、大地そのものに響き渡るかのようだった。


 その間にも、三体の大型ゴーレムが、重々しい足音を響かせながら、私たちの陣形へと突進してくる。


 ガァン!!


 先頭の一体が、巨大な岩のような拳を振り上げ、護衛隊の盾の壁に叩きつける!


 凄まじい衝撃音が響き渡り、盾を構えていた兵士さんたちの体が大きくのけぞる。しかし、彼らは決して崩れない。


 母上の詠唱が、さらに続く。


『――我が意志のままに(アガウサイ)この領域を操り給え(キヨウルルストゥヤ)地の形を変え(ハチダイカタ)流れを定めよ(エラガイェマダス)全ての土よ(エテバオダ)泥よ(オロド)岩よ(アウィ)今こそ変貌せよ(ソカミオブネフ)――《大地(グランド)操作(マニュピレーション)》!』


 母上の両腕が大きく広げられ、掌を地面に向けたままゆっくりと回される。その指先が、大地に紋様を描くように動いた瞬間――。


 ズドォォン!!


 轟音が響くが、不思議と私たちが立つ地面は微動だにしない。だが、前方――ゴーレムたちの足元だけが、まるで生き物のように波打ち、泥沼へと変貌したのだ。


 巨体を支えきれなくなったゴーレムたちが、ぐらりと体勢を崩した。


 先生は既に、木の精霊魔術の詠唱を開始していた。彼の全身からは、周囲の植物の生命力と共鳴するような、温かい魔力が溢れ出している。


『――強く敵を縛し(イコユイケトイハブ)決して逃がすな(エックアナガン)――《蔓の鎖(ヴァイン・チェーン)》!』


 先生の精霊言語の詠唱が、大地と空気を揺らす。彼の両腕が胸の前で交差され、一気に前方に突き出された。指先がゴーレムを貫くように開かれると同時に、掌が掴むように数回動く。


「拘束しろ!」

 先生が叫ぶ。


 その瞬間、沼地と化した地面や、峡谷の崖から、無数の太い蔓がゴーレムの巨体に向けて一斉に生え伸びた。蔓はゴーレムの関節や胴体に絡みつき、その動きをさらに拘束する。


 ゴーレムは、蔓を振りほどこうと暴れるが、足元が沼地になっているため、上手く動けない。チャンスだ!


『――力を持って(アラクエトトム)飛べ(エボ)貫け(エクナ)――《水の矢(ウォーター・アロー)!》』


 セリナの『水の矢』の詠唱が完了する。彼女の両手から、鋭く凝縮された水の矢が、真っ直ぐにゴーレムの一体の膝関節へと放たれた!


 キュン!という音と共に、水の矢がゴーレムの硬い装甲に食い込み、その巨体が再びぐらりと揺らぐ。


「よし!セリナ、よくやった!」


 先生が叫んだ。


「他の者も続け!関節を狙え!」


 魔術師たちも、一斉に『水の矢』や『岩石の弾丸』などの攻撃魔術をゴーレムに向けて放ち、ゴーレムの巨体に次々と着弾した。


 その間、私は、ただ見ていることしかできなかった。


 私が今できることは、仲間たちが稼いでくれたこの時間で、来るべき『増幅砲』の起動に備えることだけ。この場での戦闘に加わることはできない。


 母上は、大地を操りゴーレムの足元を固めると、休む間もなく次の詠唱に入っていた。


 先生が、懐中時計を睨みつけ、悲痛な叫びを上げた。


「残り時間、あと八分!!」


 八分…。


 私たちに残された時間は、あまりにも少ない。この強大なゴーレムを完全に足止めできるのか?


 そして、この八分間で、峡谷内部の第二部隊は、全長五十メートルの巨大な砲を、本当に完成させることができるのだろうか?


 私の心臓が、激しく、激しく脈打つ。


 果たして、私たちはこの大型ゴーレムの進行を止められるのか。第二部隊は時間内に『超指向性歌声増幅砲』を完成させることができるのだろうか――!?

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