第4話 鏡の中の私と、身体強化
私の二度目の人生は、驚くほど穏やかに過ぎていった。幼い脳が二つの記憶の混濁に耐えきれなくなるたびに、私は赤子の特権である眠りの中に逃げ込み、目覚めればまた、温かい家族の旋律に包まれている。その繰り返しの中で、私の新しい体は着実に成長していった。
寝返りを打ち、ずり這いを覚え、そしてついに、おぼつかないながらも自分の二本の足で立てるようになった頃。私の冒険の範囲は、ベッドの上から部屋全体へと大きく広がった。
今日は母エリアーナの私室に連れてきてもらっている。母が侍女と何やら楽しげに話している隙に、私は絨毯の上をよちよちと歩き、未知なる領域へと足を踏み入れた。部屋の隅に立つ、大きな姿見。磨き上げられたその表面は、部屋の景色を映し込み、きらきらと輝いている。
(なんだろう、これ…?)
好奇心のままに、私はその輝く板へと近づいていく。すると、板の中から、私と同じくらいの背丈の子供が、同じようにこちらへ向かってくるのが見えた。
ふわふわと揺れる、パステルピンクの髪。きょとん、と大きく見開かれた、瑠璃色の瞳。薔薇の蕾のようによく整った小さな唇。フリルがたくさんついた、上等な絹の服。
私が立ち止まれば、その子も立ち止まる。私が首を傾げれば、その子もこてん、と首を傾げる。おそるおそる手を伸ばし、冷たいガラスの表面に触れると、その子の小さな手も、寸分違わず私の指先に重なった。
(…あ。そっか。これ、わたし…?)
それが、パスティエール・ゼノンとしての自分を、初めて客観的に認識した瞬間だった。そして、次の瞬間。私の頭の中に、前世の記憶が鮮明に蘇った。
(――こどもになってる…やりなおせる…)
胸が、チクリと痛んだ。叶わなかった夢の記憶。もし、あの頃の私に、この子の半分でも愛嬌があったなら。何かが変わっていただろうか。そんな感傷を打ち消すように、全く別の感情が爆発した。
(――いや、待って。そんなことより、何この子、めちゃくちゃ可愛い…!!)
かつて、多くの芸能人を見てきた審美眼が警鐘のように鳴り響く。まず、このパステルピンクの髪。唯一無二の記号性を持つ、完璧なイメージカラー。そして、まだあどけないながらも、絶妙なバランスで配置された顔のパーツ。特にこの大きな瞳は、感情を表現する上でとてつもない武器になる。これは、逸材だ。磨けば、間違いなくトップアイドルになれる…!
衝動的に、私は鏡の前でくるりと回ってみた。ふわりと広がるスカート。それに合わせて揺れる髪。鏡の中の少女は、屈託なく「きゃっきゃっ」と笑っている。今度は、バレリーナのように、そっと片手を上げてみる。幼いながらも、その姿には不思議なほどの気品と愛らしさが宿っていた。
(…はぁ〜〜〜……尊い……)
ダメだ。可愛すぎる。裏方として、そして一人のファンとして、数多の輝きを舞台袖から見つめてきた私が断言する。この子は、本物だ。鏡に映る自分の姿の、そのあまりの愛らしさに、私はその場にへなへなと座り込んでしまった。これが世に言う「悶絶」というやつか。自分の可愛さに、自分でやられる日が来るとは…。
絨毯の上に座り込み、ぜぇぜぇと息を整えながら、私はぼんやりと鏡を見つめた。鏡の中の、満面の笑みを浮かべた幼女。それが『パスティエール』。その姿を見て「尊い…」などと呟いている、心の中の自分。
それが、夢破れた歌手で、裏方で、アイドル好きだった『私』。これまでは、まるで他人のことのように感じていた二つの人格が、今、少しずつ溶け合っていくような、不思議な感覚に襲われる。輝けなかった私と、輝きを支えるのが好きだった私。そして、最高の輝きを秘めて生まれてきた、新しい私。この体で、私は、もう一度人生をやり直すのだ。
そう思うと、ふと、もどかしい気持ちが湧き上がってきた。あの日、自分の内に見つけた、巨大な魔力の湖。あれから何度も、私はあの力を体の外に出そうと試みていた。
兄様がやっていたように、手のひらに意識を集中させて、「出ろ!」と念じてみる。けれど、私の『瞳』には、力の流れが皮膚のすぐ内側で滞り、霧散していく様子が見えるだけ。私の体は、まるで蓋をされた瓶のようだ。中にどれだけ膨大な力があっても、外に出すことができない。
(やっぱり、魔力を扱うのって難しいのかな…)
もどかしい。非常にもどかしい。ただ、一つだけ分かったこともある。体外に出すのは不可能に近いが、体内であれば、この力はある程度自由に動かせるのだ。私は、湖の水を汲み上げるように、一筋の魔力の流れを作り出し、それを体中に巡らせる練習をしていた。心臓から指先へ。指先から足先へ。最初はぎこちなかったその流れも、今では随分とスムーズになっていた。
(…ん?)
その時、ふと気づいた。私は、練習のつもりで、魔力を足に集中させていた。そのまま、おぼつかない足取りで、もう一度立ち上がってみる。すると、どうだろう。さっきまで、ぷるぷると震えていた足が、嘘のように安定している。
一歩、二歩と踏み出しても、ぐらつくことがない。まるで、見えない補助輪がついたみたいに、歩くのがすごく楽だ。その場でふんふんとスクワットを繰り返してみる。端から見れば赤ん坊がスクワットをしている異様な光景だ。自分の足元を『瞳』で見る。そこには、淡い光のオーラが、私の両足を包み込むように薄く漂っていた。
(これは、魔力で筋力を強化してるのかな?)
それは、ほんの小さな一歩。けれど、私の二度目の人生における、確かな、そして力強い一歩だった。新しい発見に興奮し、何度も部屋の中を歩き回っているうちに、私の小さな体はすぐに限界を迎えた。強烈な眠気が、再び私を微睡みの海へと誘う。
(もっと…もっと、うまく、歩けるように…)
そんなことを考えながら、私の意識は、心地よい疲労感と共に、深い眠りの中へと落ちていった。




