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第45話 狂騒の残響

 命からがら宿舎へ撤退した私たちを待っていたのは、まるで分厚い鉛が空気を満たしているかのような、重苦しい沈黙だった。


 峡谷で目の当たりにした絶対的な脅威と、この場における最強戦力である母上と先生の精霊魔術が完全に封じられたという事実に、誰もが顔に疲労と緊張を色濃く浮かべていた。


 セリナは、今にも零れ落ちそうなほどお茶を注いだカップを、震える手で私の前に差し出した。


その顔は青ざめ、私を心配する色と、自らの無力さに苛まれる色とが、痛々しいほどに混じり合っている。


「パスティエール様…」


「ありがとう、セリナ。大丈夫よ」


 私は彼女を安心させるように微笑んでみせたが、その声が自分でも驚くほどか細く、弱々しく響いた。


 部屋の隅では、ペトラが膝を抱え、小さな体を縮こませるようにして座り込んでいた。しかし、その横顔は血の気を失いながらも、瞳だけは虚ろではなく、何かを必死に分析するかのようにギラついていた。


「…音だけをピンポイントで…?どういう理屈…?」


 恐怖で震えながらも、彼女の脳は、目の前で起きた未知の現象を必死に理解しようとフル回転していた。


 私はそっと立ち上がると、ペトラの隣に静かに腰を下ろし、氷のように冷たくなった彼女の手を、両手でそっと包み込んだ。ペトラの肩が、びくりと小さく跳ねる。


「……っ!パスティエール様…?」


「怖かったわね」


 言葉をかけると、ペトラの強張っていた顔がふっと緩み、こらえていた涙が一筋、ぽろりと頬を伝った。


「…こ、怖かった…けど、それより...あんなの理屈が通ってないよ…!なんらかの要因があるはず」


 彼女はそう言うと、私の手を強く、強く握り返してきた。


 私の『瞳』には、宿舎の壁を隔てた今もなお、あの「響谷」の方角から、苦痛に満ちた紫色の不協和音が、陽炎のようにゆらゆらと立ち上っているのが視えていた。


 部屋の中央では、母上とアルフレッド先生、そして護衛隊長が、テーブルに広げられた地図を囲み、厳しい表情で議論を交わしていた。


「我々の最大の武器である精霊魔術が、完全に無力化されました。これは想定外の事態です。基礎魔術と物理攻撃だけであの数のゴーレムを突破するのは、多大な犠牲を払ったとしても不可能に近いです。」


 母上が、戦術的な行き詰まりを冷静に、しかし悔しさを滲ませた声で告げる。


 指揮官として、そしてこの場における最強の戦力として、その言葉の重みは誰よりも母上自身が感じているはずだった。


「ええ。それに、あの現象は、明らかに意思がある」


先生は、こめかみを揉みながら、自らの仮説をさらに深化させていく。


「こちらが幻聴に惑わされないと判るやいなや、単純な音の大きさによる直接攻撃に切り替えてきた。そして、エリアーナ様の詠唱が始まった瞬間、それをピンポイントでかき消した。…」


 護衛隊長が、苦虫を噛み潰したような顔で口を開いた。


「では、一度領都へ戻り、魔術師団を含む大規模な調査団を組織し直すべきでは…」


それは、この場で最も合理的で、最も安全な選択肢だった。

しかし、それでは遅すぎる。瘴気の浸食は、待ってはくれない。


 誰もが唇を噛み、打つ手なしという重苦しい現実に、再び部屋は沈黙に支配された。


 その、絶望に満ちた沈黙を破ったのは、私だった。


私はペトラの手をそっと離し、意を決して立ち上がると、大人たちが囲むテーブルへと歩み寄った。


「あの音は、ただの意地悪な呪いじゃないみたいでした」


 私の唐突な言葉に、母上も先生も、驚いたように顔を上げる。


 私は、自分にしか視えなかった光景を、自分にしか聞こえなかった声を、懸命に言葉にして紡いだ。


「すごく綺麗だったものが、壊れてしまったみたいな……そんな音でした。錆びついて、めちゃくちゃな音を立てている、大きなオルゴールみたいに。そして、その奥で……本当に小さな声で、『助けて』って聞こえたんです。あの紫色のぐちゃぐちゃな旋律の、一番深いところで、ずっと泣いているみたいでした。だから、思ったんです」


 私は一度言葉を切り、テーブルにいる全員の顔を、一人ひとり見回した。


そして、私の、この旅の答えを告げた。


「あれを壊すんじゃなくて……私の歌で、眠らせてあげることはできないかなって」


 私の、あまりにも突拍子もない提案に、部屋の空気は張り詰めた。


 誰もが言葉を失い、全ての視線がただ一人、母上であるエリアーナ・ゼノンに注がれる。


 この場の最高指揮官である彼女の判断に、全てが懸かっていた。


 母上は、何も言わなかった。


 ただ、そのラピスラズリの瞳で、じっと私を見つめている。


その表情からは、母上としての不安や動揺といった感情は一切読み取れない。


 そこにあったのは、戦場に立つ者が浮かべる、鋼のような意思を宿した『指揮官』の顔だった。


彼 女は私を、守るべきか弱い娘としてではなく、一つの戦術を提言する、対等な存在として見ていた。


 長い、長い沈黙の末、母上は静かに口を開いた。その声は、氷のように冷たく、しかし、不思議なほどの信頼を帯びていた。


「……パスティエール。それは、あなたの『戦い』なのですね?」


 問いかけの形をしていながら、それは確認だった。


 私の覚悟の深さを、その重さを、見極めようとする言葉だった。私は、母上の視線をまっすぐに受け止め、ただ一言、はっきりと答えた。


「はい、母上」


 その返事を聞くと、母上は一度だけ、固く目を閉じた。

ほんの一瞬、その眉間に深い皺が刻まれたのを、私は見逃さなかった。


 それは、指揮官の仮面の下で、一人の母上親としての心が引き裂かれるような痛みを感じていた証だったのかもしれない。


 だが、次に開かれた母上の瞳に、もはや迷いはなかった。


「わかりました」


 母上は、私からアルフレッド先生と護衛隊長へと視線を移し、凛とした声で宣言した。


「これより、パスティエールの提案を基軸とした、『響谷』攻略作戦を立案します」


 その言葉に、アルフレッド先生が深く、そして満足そうに頷いた。

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