第43話 幻惑の呪い
大陸暦685年、青嵐の月
領都アイアン・フォルトを出発してから、四十日目。
宿場町リベルでの賑やかな日々を後にしてから、実に十四日もの過酷な旅路を経て、私たちのキャラバンはついに領内最北端の街、「遺跡の街ケルド」に到着した。
北へ向かうにつれて、街道は徐々にその様相を変えていった。リベル周辺の活気ある商業路は姿を消し、道は舗装されていない荒れた開拓路へと変わる。
車窓から見える風景も、岩がちな丘陵や、厳しい気候に耐えるように背を低くして生える灌木ばかりが目立つようになった。夜の冷え込みは厳しく、野営の焚き火がひと際暖かく感じられた。
そんな長い道中は、新しく仲間になったペトラと、私たちとの距離を縮めるための、大切な時間でもあった。
最初は誰とも口を利かず、ただ黙々と与えられた仕事をこなすだけだった彼女も、兵士たちが修理の相談などで親しげに話しかけたり、私が彼女の作る木彫りの絡繰りを絶賛したりするうちに、少しずつその気だるげな態度を和らげていった。
特に、キャラバンの備品が壊れるたびに、すぐにそれを直してしまう彼女の職人技は、すでに兵士たちの間で噂となりつつあった。
そして、長い旅の果てにたどり着いたケルドの街は、私の想像を遥かに超える、独特の景観を持っていた。街の城壁そのものが、古代の巨大な遺跡の残骸を再利用して作られている。
家々は、崩れかけた石造りの建造物に寄り添うように、あるいはその内部をくり抜くようにして建てられていた。武骨な領都とも、活気あるリベルとも違う、悠久の歴史の重みと、未知に挑むフロンティア精神が同居した、静かな熱気を帯びた空気が、この街を支配していた。
一行を出迎えたのは、この街の代官であり、同時に「遺跡研究ギルド」の長も務めるという、学者肌の初老の男性だった。
彼は、母上の姿を見ると、安堵と、そして隠しきれない疲労が入り混じった複雑な表情で、深々と頭を下げた。
「エリアーナ様、そしてパスティエール様。ようこそ、ケルドへ。お待ちしておりました」
代官の館は、研究ギルドの支部も兼ねており、その廊下には発掘された遺物のスケッチや、古代文字の拓本などが所狭しと飾られていた。
通された応接室で、私たちは早速、この街が抱える深刻な問題について報告を受けることになった。
「ご存知の通り、この街は、北に広がる古代遺跡群の調査・発掘を主な産業としております。しかし、ここ数ヶ月、その遺跡が点在する『響谷』で、原因不明の幻惑現象が発生し、全ての活動が停滞しておるのです」
「我々は、それを『幻惑の呪い』と呼んでおります」
代官は、苦々しい表情で語り始めた。冒険者ギルドに寄せられた報告によれば、峡谷に入った者たちは、様々な奇怪な現象に悩まされているらしい。
「あるパーティーは、『仲間の声が全く届かなくなった』と。またあるパーティーは、『右へ進め、という指示が、左へ行け、と聞こえた』と。さらには、『背後から、ありもしない魔獣の咆哮が聞こえ、パニックに陥った』という報告までございます」
その幻惑によって冒険者たちの連携は乱れ、遺跡の番人であるゴーレムに背後を取られたり、仲間同士で剣を向け合う寸前の混乱に陥ったりする被害が続出。
結果として、遭難者や死傷者が急増し、現在、冒険者ギルドは峡谷への立ち入りを原則禁止にしているという。
話を聞きながら、私は『瞳』を凝らし、窓の外、街の北に広がる峡谷の方角を見つめていた。そこには、これまでの瘴気汚染の地と同じように、濁った紫色の旋律、濃い瘴気が漂っていた。
その旋律は、まるで美しい楽器が無理やり引き裂かれるかのような、耳を塞ぎたくなるほどの不協和音を奏でている。私の頭の中にまで、その不快な音が直接響いてくるようだ。
(何かが、とても苦しんでいる…)
私は、その旋律の奥にある悲痛な叫びを、確かに感じ取っていた。
一方、私の隣に座っていたペトラの表情も、険しいものに変わっていた。
「つまり、その『幻惑の呪い』とやらを解決しない限り、『響木』は手に入らないってことか…」
ペトラはぽつりと呟いた。
セリナは、私の顔色の悪さに気づいたのだろう。ただただ心配そうに、私の顔を覗き込んでいる。
「パスティエール様、お顔の色が…。大丈夫でございますか?」
私の『瞳』に視えている苦痛の旋律が、私の表情にも出てしまっているらしかった。
「ふむ…」
アルフレッド先生が、深い思索の顔で口を開く。
「文献にはない現象ですな。ですが、その幻惑が魔力的なものであることは、間違いないでしょう。まずは、実際に被害に遭った冒険者たちから、直接話を聞く必要がありそうですな」
先生の言葉に、母上も頷く。
「ええ。明日は、冒険者ギルドへ聞き取り調査に向かいましょう」
その夜。宿舎の一室で、私とセリナ、そしてペトラは、三人で集まっていた。
窓の外、北の闇に沈む峡谷を見つめながら、私は二人に語りかけた。
「……あの谷に『響木』があると効きました。でも、そこへ行くには、恐ろしい呪いを解かなければなりません」
私はペトラに向き直った。
「危険な場所です。それでも、ペトラは一緒に来てくれますか?」
私の真剣な問いかけに、ペトラはニヤリと不敵に笑った。
「当たり前だよ、パスティエール様。最高の素材がそこにあるなら、呪いだろうが幽霊だろうが関係ない。わたしが欲しいのは『響木』だ。誰にも渡さないよ」
「ふふ、頼もしいです」
セリナも、満面の笑みで胸を張る。
「わたくしも、もちろんです!パスティエール様の新しい楽器のためなら、どんな場所へもお供します!」
峡谷の謎を解き明かすこと。そして、最高の楽器の素材である『響木』を手に入れること。
私たちの旅に、また一つ、明確で、そして困難な目標が定まったのだった。




