第40話 【幕間】カエルス公爵の野望
魔導国アルカディアの心臓、王都エレメンシア。
その一角に、雪花石膏の白亜の壁が聳え立つ壮麗な屋敷がある。魔導国の頂点に君臨する四大公爵家の一つ、カエルス公爵家の邸宅である。
その主、ヴァレリウス・カエルス公爵は、磨き上げられた黒曜石の床に自らの姿が映り込む書斎で、静かにチェス盤と向き合っていた。
銀狐と謳われる彼の、雪のように白い髪は、一筋の乱れもなく完璧に整えられている。
書斎の空気を震わせたのは、壁にかけられた古時計が時を告げる音だけだった。彼が指す白のビショップが、黒のナイトを盤上から静かに排除する。その時、音もなく、影が一つ、部屋の隅に姿を現した。
「…報告か」
ヴァレリウスは、盤上から視線を上げることなく、静かに問うた。
「は。お耳に入れたいことが。ゼノン辺境伯領の港町サザンより、興味深い報告が上がっております」
影、それは彼の意を受けて動く密偵であった。抑揚のない声で、淡々と事実を述べる。しかし、その内容には、およそ信じがたい、熱に浮かされたような響きが混じっていた。
「かの街では以前より魔獣による漁船の被害が発生しておりましたが、先日、それが完全に鎮圧されたとのこと。その顛末が、実に奇妙なものでして。曰く、漁師たちが歌うと、荒れ狂う海の魔獣は鎮まり、ついには古の伝承にある『豊漁と凪の精霊』なるものまでが現れた、とか」
その報告に、ヴァレリウスは初めて、盤上から顔を上げた。しかし、その口元に浮かんでいたのは、興味ではなく、侮蔑を隠さない、冷ややかな笑みだった。
「…お伽話か。辺境の漁師どもが語る、ありふれた与太話だな。海の魔獣に怯えるあまり、集団で幻でも見たのだろう。精霊の顕現だと?馬鹿馬鹿しい」
彼は、まるで興味を失ったかのように、再び盤上へと視線を落とす。彼にとって、辺境とは、粗野で、迷信深く、知性の欠片もない武辺者たちが住まう場所でしかなかった。
「ですが、公爵様」
密偵は、懐から一通の羊皮紙を取り出し、恭しく差し出した。
「こちらは、商人ギルドを通じて入手した、より詳細な報告書にございます。複数の商人や、実際の漁師の証言も含まれており、信憑性は…」
「もうよい」
ヴァレリウスは、その報告書を一瞥もせずに、手で制した。彼にとって、辺境から届く情報の価値など、その程度のものであった。
しかし、密偵は引かなかった。
「報告書によれば、その奇跡の中心にいたのは、エリアーナ様の御息女、パスティエール様、御年七歳。間違いございません」
その一文に、ヴァレリウスの指が、ぴたり、と止まった。
エリアーナの、娘。
あの、カエルス家の至宝たる才能を持ちながら、辺境の野蛮人に嫁ぐという愚行を犯した、出来損ないの娘の子供。つまり孫。
ヴァレリウスは、ゆっくりと顔を上げ、初めて、密偵の手にある報告書へと手を伸ばした。
羊皮紙に目を通すうち、彼の表情から、冷ややかな笑みが完全に消え失せていた。
歌。詠唱なき、人の言葉による歌。それが、魔獣の動きを鈍らせ、ついには精霊の顕現を促した。
ありえない。魔術の理から、あまりにも逸脱している。
だが、万が一。万が一、これが事実だとしたら。
ヴァレリウスの脳裏に、一つの可能性が浮かび上がる。カエルス公爵家に、代々、血を通じてのみ受け継がれる、奇跡の力。
(…『調律』。まさか、この小娘が我が一族の血統魔法を…?いや、違う。『調律』は、あくまで魔力を増幅させ、整えるだけの補助的な力。だが、この報告が真実なら、この小娘の力は、精霊や、世界の理そのものに直接干渉している…。これは、もはや『調律』ではない。)
その力の意味を理解した瞬間、ヴァレリウスの全身を、歓喜と呼ぶにはあまりにも冷たい、どす黒い興奮が駆け巡った。
あの、出来損ないの娘が、最高の宝を産み落としたのだ。エリアーナをも遥かに凌駕する、神にも等しい、奇跡の才能。
(辺境の野蛮人どもに持たせておくには、あまりにも惜しい。いや、危険すぎる。あれは、我が一族が、この魔導国を真に導くために、天が与え給うた、最高の切り札だ…!)
その力を手に入れれば、魔導院における自らの派閥の権威は、もはや揺るぎないものとなる。平民上がりの賢王オリオンも、その玉座から引きずり下ろすことができるやもしれない。
ヴァレリウスの瞳の奥で、底なしの野心が、静かに、しかし激しく燃え上がった。
彼は、報告書を静かに机に置くと、冷え切った声で、影に佇む密偵に新たな命令を下した。
「…視察の旅を続けさせろ。下手に手を出して、ゼノンの犬どもに感づかれるのは得策ではない」
「は」
「だが、その一挙手一投足を、決して見逃すな。何を学び、誰と会い、どのような奇跡を起こすのか。そのすべてを、余さず私に報告せよ」
「御意」
「そして、機が熟せば――」
ヴァレリウスは、チェス盤の白のクイーンを、その美しい指先でそっと撫でた。
「――その身柄を、この王都へ連れてくるのだ。孫娘の顔を見せに来たと、誰もが思うようにな」
「御意に」
影は、深々と一礼すると、音もなく、闇の中へと溶けて消えた。
一人残された書斎で、ヴァレリウスは再び、チェス盤へと向き直る。
彼の指す白のクイーンが、黒のキングに、静かにチェックを告げていた。
パスティエールの穏やかな旅の裏で、首都の最も深く、暗い場所から放たれた不協和音が、静かに、そして確実に、その旋律を奏で始めていた。




