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第3話 魔力という名の湖

 幾日もの日が過ぎた。

 私の世界は、日に日に鮮明になっていった。ぼやけていた視界はくっきりとし、くぐもっていた音は明瞭になる。不自由だった手足も、少しずつだけれど、私の意志に応えてくれるようになっていた。


 ちいさな手でベッドの柵をぎゅっと掴み、「あー」だの「だーだー」だの声に出してみる。


「おお!パスティエールがしゃべったぞ!今のはダディと言ったんじゃないか?」

 私のささやかな挑戦を、父であるライナスが、まるで大陸を発見した探検家のような大声で祝福してくれる。たくましい腕が、ひょいと私を抱き上げた。高い高い。部屋の天井が、すぐそこにあるように感じた。


「すごいな、パスティ!さすが俺の娘だ!天才か!?」


(…ただの発生練習なんだけど、喜んでるからいいか)


「あなた、声が大きすぎますわ。パスティエールが驚いてしまいます」

 呆れたような母の声が聞こえるけれど、その顔は優しく笑っている。『瞳』に映る父のオーラは、いつもどおりだ。力強く、実直で、まるで荒々しい風が吹き抜けるような、少し落ち着きのない旋律。けれど、私に向けられるそれは、春のそよ風のようにどこまでも優しく、暖かかった。


 私の家族は、代わる代わる私の面倒を見てくれた。

 長兄のレオナルドは、いつも静かに本を読んでいる。けれど、私がそばに寄っていくと、必ず本を閉じて、優しく頭を撫でてくれた。彼のオーラは、幾重にも重なった精密な楽譜のようだった。知的で、落ち着いていて、まるで大地のように安定している。


 次兄のギルバートは、いつも元気いっぱいだった。私を肩車して部屋の中を駆け回ったり、「いないいないばあ」で大げさに遊んでくれたり。彼のオーラは、レオナルド兄様とは正反対。パチパチと火の粉が弾けるような、明るく情熱的な旋律だ。


 ある日のこと。床に転がって遊んでいた私の前で、そんな家族の会話が交わされた。


「母上!見てください!今日の基礎魔術の授業で習ったんです!」

 興奮した様子のギルバート兄様が、小さな手のひらに意識を集中させる。すると、彼の言葉と同時に、その手のひらの上にポン、とバスケットボールくらいの大きさの、ぼんやりとした白い光のいびつな球が浮かび上がった。


「あらあら、ギルバート。そんなに魔力を大きくしては、制御が疎かになりますわ。もっと優しく、形を保つことを意識して」

 母がそう言うと、彼女の唇からは滑らかで美しい黄金の光が流れ出し、兄様が作り出した光の球をふわりと包み込んで、そのいびつな形を綺麗な球体に整えた。


「魔力の流れそのものを意識しないと駄目だよ。ただ大きくすればいいというものじゃない」

 レオナルド兄様が冷静に指摘する。


(…まじゅつ?まりょく…?)


 今、私が見ている家族から発するオーラの様なキラキラした光は、やっぱり…。


(じゃあ、私の中にある、この湖も…)

 自分の内側を覗き込む。そこには、相変わらず静かで広大な、力の湖が広がっていた。これもきっと、魔力なのだ。


 そして、この力を動かす鍵は、もう知っている。

「あー、うー、きゃー!」


 私が意味のない声を上げると、内なる湖の水面から、ぽつり、ぽつりと小さな光の粒が浮かび上がる。まだまだ、ほんの些細(ささい)な光。けれど、間違いなく私の意志で、私の声で、魔力を動かすことができている。


 この発見は、私の心を強くした。前世では、何も成し遂げられなかった。けれど、今度の私は、この力で何かを成せるかもしれない。そんな、小さな希望の芽生えだった。


 家族との会話の断片から、私は少しずつ自分が置かれた状況を理解し始めていた。


 ここは、ゼノン辺境伯領。父は、この土地を治める領主、辺境伯。ということは、私は辺境伯令嬢、ということになる。

 どうやら私は本当に異世界転生の当事者のようだ。

 前世では、ごく普通の一般家庭で育った私にとって、それはあまりにも現実離れした響きだった。


 けれど、そんな私の戸惑いをよそに、家族は私に惜しみない愛情を注いでくれた。


 厳格で知られる父は、私の前では「うっ…天使か…?」などと言いながら、威厳も何もあったものではない。


 怜悧(れいり)で完璧な母は、私にだけは「あらあら、うふふ」と、とろけるように甘い笑顔を見せてくれる。


 冷静沈着なレオナルド兄様は、私が少しでもぐずると、どんなに難しい本を読んでいてもすぐに駆けつけてくれる。


 元気いっぱいのギルバート兄様は、私が笑うと、まるで自分の手柄のように「見たか!俺が笑わせたんだぞ!」と大喜びする。


 そして、隠居した祖父のガレオスお爺様。普段は気難しそうな顔で黙っているのに、私が彼の指をぎゅっと握ると、その武骨な顔がほんの少しだけ、本当に少しだけ、優しく綻ぶのだ。


 そのすべてが、私の瞳には美しい光の旋律となって見えていた。

 愛されている。大切にされている。その事実が、温かい光となって、私の魂を満たしていく。前世で凍り付いていた心が、少しずつ、ゆっくりと溶けていくのを感じた。


 まだ、前世の記憶がもたらす悲しみや後悔が消えたわけではない。


 けれど、今の私には、この温かい光がある。

 この光の中でなら、私はきっと、もう一度やり直せる。


 そんな予感を胸に抱きながら、私の意識は、今日もまた、家族の優しい旋律に包まれて、穏やかな眠りの中へと落ちていくのだった。



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