第38話 響木
宿場町リベルでの滞在三日目のこと。
連日の視察や会議で、少しだけ疲れが見え始めた私たち一行に、母上が素晴らしい提案をしてくれた。
「今日は少し骨休めにしましょう。この街の名物だという『大浴場』へ行ってみませんか?」
その言葉に、私とセリナは「大浴場!」と声を揃えて目を輝かせた。
私たちが向かったのは、街の少し外れにある、ドワーフが経営するという巨大な公衆浴場だった。岩をダイナミックにくり抜いて作られたその建物は、浴場というよりは、もはや神殿のような荘厳さだ。中からは心地よい湯気が立ち上っている。
私たちは、女性専用の湯場へと足を踏み入れた。
「わぁ…!すごいですわ、パスティエール様!」
「本当!広いのね!」
そこは、天井の高い、広々とした空間だった。湯気を吸ってしっとりとした岩肌、床に敷き詰められた滑らかな石。そして、岩風呂や木の桶風呂など、様々な種類の湯船が揃っていた。
私とセリナは、初めて体験する大浴場に大はしゃぎ。
おそるおそる足を入れると、じんわりと温かいお湯が、旅の疲れを優しく溶かしていくようだった。
「…んはぁぁぁ〜…生き返りますわぁ〜…」
体の芯から蕩けていくような心地よさに、魂の叫びが心の奥から滲み出る。
「パスティエール、あなた、そんなところまでお義父様に似なくてもよろしいのよ」
母上に呆れたように突っ込まれるが、構うもんか。そんな母上も、久しぶりの骨休めに、心からリラックスした表情を浮かべている。
湯気の中で、私たちは侍女と主人、母上と娘という立場を少しだけ忘れ、他愛ないおしゃべりに花を咲かせた。
「思い返せば、色々なことがありましたわね」
肩までお湯に浸かりながら、私がぽつりと呟く。
「港町サザンでの海の魔獣は、本当に怖かったですわ…。でも、漁師さんたちと一緒に『ヨッコラヤッコラ節』を歌ったのは、すっごく楽しかった」
私の、子供らしい感想に、隣のセリナが顔を曇らせた。
「わたくしは…あの時は何もできず、ただ震えているだけでした…。本当に、不甲斐ないです…」
「いいえ、セリナ」
それまで黙って聞いていた母上が、セリナの肩に優しくお湯をかけた。
「あなたは立派にパスティエールを守っていましたわ。それに、あの歌の奇跡は、あなたも一生懸命に歌ってくれたからこそ、起きたのかもしれませんよ?」
「エリアーナ様…」
母上の思いがけない言葉に、セリナの瞳が潤む。彼女は、お湯の中でぎゅっと拳を握りしめると、決意を込めた声で言った。
「…はい。あの時、わたくしは自分の無力さを痛感しました。だから、誓ったのです。二度と、パスティエール様の隣でただ震えているだけの侍女にはならないと。もっと強く、賢くなって、必ずやあなた様をお守りするのだと」
「セリナ…」
彼女のひたむきな言葉に、私は胸が熱くなった。
「ライムスでは、クレストン子爵様にもお会いしましたわね。あの人、お父様やおじいさまと全然違うタイプで、少し怖かったですわ」
「あれが普通の貴族です。あなたもいずれ、ああいう者たちと渡り合わねばなりません。言葉の裏を読む訓練も、必要になりますわね」
母上の言葉に、私は気を引き締める。
「でも、一番楽しかったのは、やっぱり昨日の広場ですわ!」
「わたくし、とっても感動しました!パスティエール様と観衆の方々が、まさに一体となったあの感覚、いまでも心が震えます…!」
セリナが、昨日の興奮を思い出したかのように熱っぽく語る。
「うふふ、セリナもノリノリでしたね!合いの手も、最高だったわ!」
「うぅ…お忘れくださいませ…!(ブクブクブク)」
本気で恥ずかしがるセリナを見て、私と母上は声を立てて笑った。
遠くの男湯の方からは、護衛の兵士さんたちの楽しげな声も聞こえてくる。視察団のみんなが、この温泉で心と体を癒しているようだった。
温泉ですっかりリフレッシュした帰り道、私たちはリベルの職人街を通りかかった。
そこには、様々な種族の職人たちが工房を構え、槌の音やノミの音が小気味よく響いている。私の目は、ひときわ精巧な木工細工が並ぶ、一つの工房に釘付けになった。工房の主は、私たち人間よりもずっと背が低く、けれど器用そうな指を持つ、ハーフリング族の職人さんだった。
「これは、お嬢ちゃん。何か面白いものでもあったかい?」
私の視線に気づいた職人さんが、優しく声をかけてくれる。
「あの、わたくし、楽器を作っておりまして…」
私が、おずおずと背負っていたちびギターを見せると、職人さんは興味深そうに目を細めた。
「ほう…これは面白い造りをしているな。お嬢ちゃんが設計したのかい?」
「はい!本体は領都のドワーフの職人様にお願いして、弦は冒険者の方に集めていただいた素材でわたくしが。最後の組み立てと音の調整も、自分でやりましたの」
私の答えに、彼は感心したように頷いた。
「面白い。実に面白い発想だ。だが、これでは木材の『声』が死んでいる。…良い音を出すにはな、嬢ちゃん。ただ削るだけじゃ駄目だ。木目の一つ一つ、繊維の一本一本と対話し、それを寸分の狂いもなく仕上げる、我々ハーフリングのような起用さが必要なんだよ」
彼はそう言うと、工房の奥から、一枚の板を持ってきた。
「例えば、これだ。これは、この領地の北部、『遺跡の街ケルド』の近くでしか採れない、『響木』という特別な木材だ。軽くて丈夫なだけでなく、魔力を通しやすい性質がある」
「ひびきぎ…」
「ああ。最高の吟遊詩人が持つリュートは、皆、この木でできているのさ。もっとも、採れる場所が限られている上に、最近は魔獣のせいで森に入るのも危険らしくてな。滅多に市場には出回らん、珍しい素材だよ」
その言葉は、私の心に、新しい目標の光を灯した。 もっと良い音を。もっと、人の心に響く歌を。
そのためには、最高の素材が必要だ。
(次の目的地は、ケルド…!そこで、響木を手に入れる!)
私は、ハーフリングの職人さんに深々と頭を下げてお礼を言うと、工房を後にした。
私の胸は、次の街で、その『響木』という宝物を探すという、新しい冒険への期待で、大きく、大きく膨らんでいた




