第37話 アイドル交響曲
領都アイアン・フォルトを出発してから、二十二日目。
私たちのキャラバンは、ついに領内最大の宿場町『リベル』に到着した。
領都の武骨さ、サザンの潮風、ライムスの洗練とも違う。この街は、もっと雑多で、混沌としていて、それでいてエネルギッシュな生命力に満ち溢れていた。
石畳の道には、数えきれないほどの人々が行き交い、その肩が触れ合わんばかりの熱気だ。聞こえてくる言葉も、魔導国の公用語だけではない。
商人らしき男たちの鋭いアクセント、船乗りたちの陽気な巻き舌、そしてエルフの流麗な響きや、ドワーフの腹の底から響くような低い声。
様々な国の言葉が、まるで一つの巨大な交響曲のように混ざり合っている。
露店に並ぶ品々もそうだ。南方の国から来たであろう色鮮やかな織物、北方のドワーフが作った武骨な武具、東方のスパイスの刺激的な香り。この街には、世界中の「文化」がごった煮のように集まっているのだ。
ドワーフ、エルフ、そして様々な種類の獣人や亜人。これまで訪れたどの街よりも多くの種族が、ここではごく当たり前のように肩を寄せ合って暮らしているようだった。
一行を出迎えたのは代官ではなく、この街の自治を担うという「商人ギルド」の恰幅の良いギルド長だった。彼は母上の姿を見ると、商売人らしい笑顔を浮かべて丁重に頭を下げた。
「これはこれは、エリアーナ様。ようこそリベルへお越しくださいました。お待ちしておりましたぞ」
「ギルド長。ご壮健そうで何よりですわ。滞在中、お世話になります」
母上も、いつもの優雅な笑みで応じる。私たちはギルド長に案内され、ギルドが所有するという最高級の宿舎へと通された。
宿舎へ向かう馬車の中、私は母上にそっと尋ねた。
「母上、この街には代官様はいらっしゃらないのですか?商人ギルドの方が、街の代表のようですけれど」
私の問いに、母上は「良いところに気づきましたわね」と優しく微笑んだ。
「この宿場町リベルは、領内の他のどの街とも成り立ちが違う、特別な場所なのです」
母上は、ゆっくりと説明を始めた。
「領都アイアン・フォルトが『砦』として計画的に作られたのに対し、この街は元々ただの街道の交差点でした。そこに旅人相手の宿屋ができ、やがて商人が集まり、自然に市場ができていった…いわば、人々の営みの中から、自然に生まれた街なのです」
「では、なぜ代官様が?」
「ええ。お義父さま…ガレオス様がまだ領主でいらした頃、この街の統治について、とても合理的な判断を下されました。『商業のことは、その道のプロである商人たちに任せるのが一番良い』と。その代わり、商人ギルドには巨額の税金を納めることと、ゼノン家への絶対的な忠誠を誓わせたのです」
なるほど。行政はギルドに任せ、領主は国防と最終的な統治権を握る。役割分担というわけか。
「だから、この街では、ギルド長が代官の役割も担っているのですよ」
母上の説明に、私はこの国の、そしてお爺様の合理的な考え方に、改めて感心した。
昼食を終え、少し休憩した後、私は逸る心を抑えきれずにセリナの手を引いた。
「セリナ!少しだけ、街を散策しに行きましょう!」
「パ、パスティエール様!ですが、護衛の方々の準備が…!」
「大丈夫よ、すぐそこの広場までですもの」
セリナの心配そうな声を背中に受けながら、私は宿舎を飛び出した。
中央広場は、街の熱気をそのまま凝縮したような場所だった。様々な露店が軒を連ね、見たこともない品々が並んでいる。
香辛料の刺激的な香り、焼きたてのパンの甘い匂い、そして人々の汗と土の匂い。その全てが、私の五感を刺激する。
しかし、その活気ある雰囲気の中に、一つだけ、明らかに異質な不協和音が混じっていた。広場の一角。人だかりができている場所から、怒声が聞こえてくる。
「だから言っておるだろう!これは我が一族に伝わる、三ヶ月陽の光に晒した『大蜥蜴の干し肉』だ!銀貨二十枚でも安いくらいだ!」
声を荒らげているのは、硬質な鱗に覆われた、屈強なリザードマンの戦士さんだ。
「お言葉ですが、鱗のお方。わたくしの鼻はごまかせませんよ。確かに上質な肉ですが、乾燥期間はせいぜい一ヶ月といったところ。それに、使っている香辛料…これは南方のものですね?あなた方の一族が使う伝統的な岩塩の香りとは違います」
しなやかな尻尾を揺らしながら、冷静に、しかし一歩も引かずに反論しているのは、猫獣人の女性商人さんだった。
どうやら、リザードマンさんが売る干し肉の真贋について、口論になっているらしい。互いの種族の誇りが懸かっているのか、その議論はどんどん白熱していく。周囲の人々も、「やれやれ」「また始まったよ」と呆れながらも、面白そうに遠巻きに見守っているだけだ。
私の『瞳』には、二人の間を行き交う、怒りに満ちた不協和音の旋律が、広場全体の穏やかなハーモニーを掻き乱していくのが視えていた。
(このままじゃ、もっとひどいことになる…)
せっかく、色々な種族が肩を寄せ合って暮らしている、素敵な場所なのに。
母上との約束が、脳裏をよぎる。「人前で、あなたのその特異な力を見せるのは、まだ早すぎます」と。
(でも、魔力を使わずに、ただ歌うだけなら…。それに、音楽には、言葉や種族の壁を超える力があるって、私は知ってる!)
私は意を決すると、セリナに合図を送り、ちびギターを受け取った。
ポロン、と。
私は、人だかりから少し離れた噴水の縁に腰かけると、ちびギターの弦を爪弾いた。
そして、陽気で、誰の心にもすっと入り込むような、軽快なカントリーソングを歌い始めた。
最初は、誰も私の存在に気づかなかった。けれど、私の楽しげな歌声は、喧騒の中でも不思議とよく通った。
一人、また一人と、人々が私の歌に気づき、その視線がこちらへ集まってくる。
「なんだ?」
「どこかの吟遊詩人か?」
「いや、子供だぞ…?」
ざわめきが、少しずつ、手拍子に変わっていく。 険悪だった広場の空気が、私の奏でる陽気なメロディによって、ゆっくりと溶かされていくのが、私の『瞳』には視えた。
口論していたリザードマンさんと猫獣人さんも、いつの間にか怒鳴り合うのをやめ、ばつが悪そうにこちらを見ている。
一曲歌い終わると、広場は温かい拍手に包まれた。
「もう一曲!」
「嬢ちゃん、上手いじゃないか!」
アンコールの声に、私はすっかり調子に乗ってしまった。
「はいっ!ありがとうございます!」
二曲目を歌い始めると、信じられないことが起きた。
人だかりの中から、背中にリュートを背負った優雅なエルフの青年がすっと前に進み出て、私のメロディに合わせるように、演奏を始めたのだ。
さらに、それを見ていたゴリラの獣人さんが、楽しそうに「ウッホ!」と一つ吠えると、そのたくましい胸を、ドコドコと力強いビートで叩き始めた!魂を揺さぶるような、陽気なドラミングだった!
私の歌とギター、エルフさんのリュート、ゴリラ獣人さんの胸ドラム!即席のバンドの誕生に、広場の熱気は最高潮に達する。
三曲目を歌い終える頃には、もはや誰もが笑顔で、体を揺らしていた。
(こうなったら、私の本気を見せてあげる!)
私の心の中で、前世の歌手魂が、ついに燃え上がった。
私は、即席バンドの二人に悪戯っぽく笑いかける。
「次、すっごく速くなりますけど、合わせてついてきてくださいね!」
二人は、楽しそうに頷いて応える。
そして、私はその場で立ち上がり、可愛さと楽しさを全面に押し出した、アップテンポなナンバーを歌い始める!
(この世界では異質な歌だろうけど、こんな美少女が愛を込めて歌うんだっ!刮目せよっ)
エルフさんのリュートが、ゴリラさんのドラムが、私の歌を力強く後押ししてくれる!私は、歌いながら、この小さな体で、フリフリに踊ってみせる!
「キャー!!お嬢様ー!素敵ですー!」
私の隣で、いつの間にか侍女の仮面を脱ぎ捨てたセリナが、合いの手を入れてくる!その姿は、もはや護衛ではなく、ただの熱狂的なファンだ!
最初は、私の突然の変貌に呆気にとられていた広場の人々も、その楽しげな雰囲気と、セリナの熱狂に導かれるように、ぎこちない手拍子を始めた。
口論していたリザードマンさんと猫獣人さんも、最初は呆然としていたが、やがて互いの顔を見て、ぷっと吹き出した。
そして、次の瞬間には、二人とも大きな口を開けて笑いながら、周りの人々と同じように、手拍子を打っていた!
歌が終わり、私がアイドルのように、びしっと決めポーズをとると、広場は今日一番の大歓声に包まれた!
「ふぅ…。小娘の歌を聞いていたら、細かいことなんざどうでもよくなったわ。おい、猫の。悪かったな。これを食え。南方の香辛料も悪くねえんだ」
リザードマンさんが、干し肉のかけらを差し出す。
「こちらこそ、野暮なことを言いました。…いただきます。…うん、美味しい!」
猫獣人さんが、それを受け取ってにっこりと笑う。広場の他の人々からも、「かわいいぞー!」「また歌ってくれよ!」と、温かいコールが飛んできた。
大成功!
私は、興奮冷めやらぬまま、セリナとハイタッチを交わす。
「セリナ、合いの手完璧だったわよ!」
「パスティエール様こそ、最高のパフォーマンスでした…!」
主従を超えた絆が、そこにはあった。
私は、自分の歌が、魔力を乗せなくても、こんな風に人の心を動かし、繋ぐ力があることに気づいた。これも、私の大切な力なんだ。この旅で、また一つ、新しい発見をした気がした。
【幕間】
その様子を、宿舎の窓から、エリアーナとアルフレッドが、静かに見守っていた。
「…まさか、魔力を乗せないただの歌で、あれほど周りの者の心を動かすとは。驚きましたわ」
エリアーナは、広場で喝采を浴びる娘の姿を見つめながら、感嘆の息を漏らす。
「しかし、見事でしたな。見ず知らずの者たちまでを巻き込み、即席の楽団まで作り上げてしまうとは…」
アルフレッドも、その光景に目を細めていた。
「ええ。文化も、種族も違う者たちの心を、一つに繋ぐ力…」
エリアーナの言葉に、アルフレッドは深く頷く。
「実に、興味深い。パスティエール様の『歌』は、我々の想像を遥かに超えた可能性を秘めているやもしれませんな」
エリアーナは、娘の成長と、その力が孕む未来の可能性に、誇らしさと一抹の不安が入り混じった、複雑な微笑みを浮かべていた。




