第36話 広がる世界
領境の街ライムスを出発し、一行は次の目的地「宿場町リベル」へと向かっていた。
馬車は、これまでの海沿いの街道から一転し、領地の中央部を貫く内陸の街道を進んでいく。
車窓から見える風景は、クレストン子爵領の豊かな穀倉地帯とは異なり、より荒々しく、岩がちな丘陵や、厳しい気候に耐える牧草地が広がっていた。
これぞ、我が故郷ゼノン辺境伯領の、ありのままの姿なのだと、私は肌で感じていた。
そんな旅の初日の午後。キャラバンが、見通しの悪い岩場の隘路に差し掛かった時だった。
先頭を行く騎乗兵から、鋭い警戒の角笛が鳴り響く。
「止まれ!前方に小型魔獣の群れ!」
馬車が停止し、護衛の兵士たちが即座に私の馬車の周りを固める。
「ほう…」
窓から外を覗いた母上が、面白そうに目を細めた。
「数も、強さも、程よい。パスティエール、セリナ。絶好の実践訓練の機会ですわ」
母上のその一言で、私の心臓は緊張で跳ね上がった。周囲には、いつでも助けられるようにと、母上とアルフレッド先生、そして兵士たちが万全の態勢で私たちを見守っている。
「ではセリナ、あなたから。一体、仕留めてごらんなさい」
「は、はいっ!」
緊張した面持ちで、セリナが魔獣の正面に立つ。彼女の相手は、カピバラとアルマジロを混ぜたような、硬い甲殻を持つ魔獣『鉄鎧鼠』だ。
セリナは、いつもの訓練通り、防御を重視した低い構えで短剣を握る。そして、流暢に水の精霊魔術の詠唱を始めた。
「――イコイイサイリス・イダストオィアト!ウレラガウォラ、イカタエサ!アラクエトトム・エボ・エクナ!」
弓を射つような印から放たれた『水の矢』が、鋭い軌道を描いて魔獣に襲いかかる。
しかし、相手の反応は予想以上に素早かった。ひらりと身をひねって矢をかわすと、岩壁に激突した矢が砕け散る隙を突いて、セリナではなく、なぜか私を目がけて猛然と突進してきた。
(えっ!私!?)
「パスティエール様!」
セリナは、咄嗟に魔獣と私の間に回り込むと、必死に数枚の『魔力障壁』を重ねて展開。魔獣の突進を、轟音と共に食い止めた。そして、動きが止まった魔獣の甲殻の隙間に、躊躇なく短剣を突き立て、とどめを刺した。
「見事です、セリナ殿」と先生が褒める。
「咄嗟の判断、そして『身体強化』、『魔力障壁』、『精霊魔術』、武器の扱い。バランスよく鍛錬を積んでいますな」
母上も満足げに頷いている。その言葉に、セリナははにかみながらも、誇らしげに胸を張った。
「では、次はパスティエール。あなたも一体、やってみなさい」
母上の言葉に、私はこくりと頷き、セリナのいた場所まで進む。私の相手も、先ほどと同じ種類の魔獣だ。
私は何も持たず、ただ拳を握って構える。
「先手必勝!」
私は叫ぶと同時、『身体強化』を全身に纏い、弾丸のように突撃した。魔獣もまた、私を迎え撃つように正面から飛びかかってくる。
衝突の瞬間、私は強化された拳と脚で、流れるような連撃を魔獣の胴体に叩き込んだ。そして、振り返りざま、とどめの一撃。
(私の全力を込めて!)
体中の魔力を、右の拳、一点に集中させる。
「ぜんりょくパーンチっっ!!!」
パァァンッッ!!と、空気が破裂するような、とてつもない轟音が隘路に響き渡った。
私の拳が直撃した瞬間、魔獣は数十メートル先の崖に激突して、真っ赤な染みとなった。
しん、と静まり返る一同。
兵士たちの何人かは、あんぐりと口を開けて顎が外れそうになっている。
先生も、そしてセリナも、皆、何が起こったのか分からないという顔で、呆然と私と、遥か彼方の崖の染みを交互に見ている。
その沈黙を破ったのは、母上の、深いため息だった。
「…あなた。また、お義父様の戦い方に似てきましたわね…」
「てへっ!」
その言葉に、私はぺろっと舌を出した。
その日の野営中。
兵士たちが手際よく野営の準備を進める傍らで、私はアルフレッド先生を捕まえて、クレストン子爵との会話で出てきた、知らない言葉を聞いてみた。
焚き火のそばに小さな椅子を用意してもらい、セリナがお茶を淹れてくれる。即席の青空教室ならぬ、星空教室の始まりだ。
「あの、先生。先日、クレストン子爵様がおっしゃっていたのですが、『祈祷術』と『言霊魔術』とは、どのようなものなのですか?」
私の問いに、先生は「ほう…良い質問ですな」と、探求者の顔で目を細めた。
「どちらも、現代の『精霊魔術』とは源流を異にする、古代魔法の系譜に連なる魔術です」
先生は、講義を始めた。
「まず『言霊魔術』。これは、はるか昔に絶滅したとされる竜族が操った『竜言語魔法』の断片を、人間にも扱えるように再体系化した魔術です。彼らは、詠唱ではなく、咆哮一つで世界の理そのものを書き換えたと言われていますが、人間が扱う『言霊魔術』は、その模倣というにはあまりにも小規模です」
(言葉に、力を乗せる…。私の歌と、少し似ているのかしら?)
「そして『祈祷術』。これは、神話の時代に神々が直接行使したという『神聖魔法』の儀式を簡略化し、信仰心というフィルターを通じて奇跡を降ろす魔術です。本来の力は失われて久しいですが、それでも、傷を癒す力においては、他の追随を許しません」
「『祈祷術』は、主にどこの国で使われているのですか?」
私の問いに、先生は少しだけ難しい顔をした。
「主に、東の大国…『聖教国エリュシオン』です。あなたは座学の先生から、我が魔導国との関係性については、すでに学んでいますね?」
私は頷く。
「はい。西の帝国という共通の敵がいるため、協力関係にある、と」
「表面上は、ですな」先生は、声を少しだけ潜めた。
「今日は、その裏側にある、本当の関係についてお教えしましょう。これも、辺境伯家の令嬢として、知っておくべき『知識』です」
隣に座るセリナも、固唾をのんで先生の話に聞き入っている。
「聖教国は、我々魔導国が『世界の理』を探求すること自体を、あまり快く思っておりません。彼らは、奇跡は神のみが与える恩寵であると信じている。我々が魔術を研究し、生命の理に踏み込むような研究を進めることを、『神への冒涜』と見なし、異端として強く警戒しているのです」
「そのための『目』として、彼らは高位の聖職者を、魔導国の要職に送り込んでいます。例えば、現在の魔導院の最高幹部である六人の魔導卿の一人、エリス・ライト卿も、元は聖教国の出身。公にはされていませんがあれは、聖教国が我々を監視するために打ち込んだ、楔ですな」
背筋が、少しだけひやりとした。
「一方で、我々魔導国も、彼らの喉元に突きつける刃を研いでいます。それが、『祈祷術』の解析です。聖教国が独占するあの癒しの奇跡を、我々の論理で解明し、誰にでも扱える様に再現する。それができれば、神の権威に頼る彼らの力は、大きく揺らぐことになりましょう」
先生は、そこで一度言葉を切り、私をまっすぐに見つめた。
「つまり、両国は笑顔で握手をしながら、水面下では互いを牽制しあっている。極めて危険な、冷戦状態にあるのです」
(うーむ、結局、人間同士が一番怖いのか。こっちの世界も変わらないな)
母上が言っていた、「誰にも利用されない強さ」。その言葉の本当の重みを、私は改めて実感する。私は、自分の力を、もっと知らなければならない。誰よりも深く、正確に。
領都アイアン・フォルトを出発してから、二十二日目。
私たちのキャラバンは、ついに領地の中央に位置する「宿場町リベル」に到着しようとしていた。
「パスティエール様、じっとしていてくださいませ。まもなく到着ですわ」
セリナが、私の髪を優しく結い直してくれる。彼女は、私のパステルピンクの髪を片方の肩に流れるようにまとめると、器用な手つきでリボンを結んでくれた。活気のある商業の街に合わせて、少しだけ動きやすいサイドポニーテールだ。
鏡に映る自分の姿は、ライムスにいた時よりも、少しだけ活動的な少女に見えた。
窓の外には、これまでのどの街よりも多くの人々が行き交う、巨大な宿場町の姿が見えていた。アイアン・フォルトからの道、サザンからの道、そして私たちが来たライムスからの道、その全てがこの街で交わっている。様々な国の言葉、様々な種族の姿。街道が交わるこの街は、まるで世界の縮図のようだった。
私たちの旅は、また新しい舞台へと、その駒を進めたのだった。




