第32話 小学5年生の運動会
その日の夕食後。
代官の館の作戦室は、昨日にも増して重苦しい空気に包まれていた。
海図を囲む母上、アルフレッド先生、ボルグさん、そして漁師ギルドの長たちの顔には、打つ手なしという絶望の色が濃く浮かんでいる。
「…あの再生力を何とかしないことには、手の打ちようがありませんわね」
母上の静かな呟きが、重く響く。けれど、誰もそれに答えることはできなかった。
私も、部屋の隅でセリナと一緒に控えていたけれど、大人たちの難しい顔を見ているだけで、胸が苦しくなった。このままでは、サザンの街は…。
その沈黙を破ったのは、私の小さな声だった。
「あの…!わたくしに、考えがあります」
全員の視線が、一斉に私に集まる。ドキドキしたけれど、ここで言わなければ後悔すると思った。
私は、街の図書館で見つけた『結晶の魔獣』の伝承のこと、そして、この港町に古くから伝わる『ヨッコラヤッコラ節』という魔除けの歌のことを、必死に説明した。
「古代の伝承に村人総出で『魔を払った』という記述がありました。そして、今もこの街には、『ヨッコラヤッコラ節』という魔除けの歌が伝わっています…。偶然とは思えません。この歌こそが、あの魔獣たちを倒す、鍵になるはずです!」
私のあまりにも突飛な話に、大人たちは呆気にとられていた。やがて、漁師ギルドの長が、困惑したように口を開く。
「…お嬢様。お気持ちは、ありがてぇ。ですが、相手はあの化け物だ。歌でどうにかなるような、甘い相手じゃねえ」
「危険すぎます。お嬢様を、これ以上危険な目に遭わせるわけには…」とボルグさんも続く。
(まぁそうよね、突拍子なさすぎるしこの子供の姿じゃ説得力ないよねー…)
彼らの反応は、もっともだった。ただの子供の、荒唐無稽な思いつき。けれど、私の瞳に宿る確信の色を見てくれたのか、母上は静かに、しかし力強く言った。
「いいえ。試す価値はあります」
母上は、私をまっすぐに見つめた。
「この子には、我々にはない力がある。その力が、古の伝承と共鳴するというのなら…。わたくしは、娘の『奇跡』に賭けてみましょう」
(…信じてくれる人がいるってこんなにも気持ちが前向きになれるのね、よーしがんばっちゃうぞ)
母上の、有無を言わせぬ決断だった。
三日後の夜明け前。
港には既に出航の準備を整えた私たちの船が、静かに停泊していた。
船に乗り込むと、少し離れた波止場に、ボルグさんと漁師の長さん、そして何人かの屈強な漁師さんたちの姿が見えた。
彼らは、心配そうな、それでいて何かを決意したような複雑な表情で、こちらを見つめている。しかし声をかける間もなく、私たちの船は静かに岸壁を離れた。
作戦は前回と同じ。
風の精霊魔術で船を空中に浮上させ、安全な高度を保つ。しかし、今回は先生も母上も、ただ固唾をのんで、私を見守っている。
船の真下には、私たちの船に誘われるように、無数の結晶体の魔獣が、不気味な渦を巻いていた。
私は、船のへさきに、足を肩幅に開いて仁王立ちになり、大きく息を吸い込んだ。
周囲は、禍々しい紫色の瘴気に満ちている。肌がピリピリと痛むほどの悪意。けれど、私は負けない。
ふと、私の鼻先に、温かい光が触れた。あの時の、小さな青い精霊だ。怯えながらも、私の側に来てくれたのだ。言葉ではない、温かい励ましが伝わってくる。
「うん、ありがとう」
私は精霊に小さく頷くと、目を閉じ、ボルグさんや街の子供たちに教えてもらった、あの力強いメロディを思い出す。
それは、海の厳しさと恵み、そして人々のたくましさが詰まった、魂の歌。
そして、ぐっと腰を落とし、まるで重い魚網を引き揚げるような振付とともに、私は腹の底から声を張り上げた。
「ハァアアアア〜〜〜!♪東の空からぁ~お天道様だぁ~♪ 海が金色ぃぃ~ 目を覚ますぅぅぅ♪」
私の魂の全てを込めた歌声が、魔力の光となって、瘴気が渦巻く海へと降り注ぐ。金色の光と、紫色の瘴気が激しくぶつかり合い、空間がビリビリと震えるのが分かった。拮抗している…!
(すごい、体中の魔力が、振付に合わせて渦を巻いてる…!)
足に力を入れ、腕を引き寄せる網引きの動作に合わせて、体内の魔力が力強く練り上げられ、歌声に乗って爆発的に放出されていくのが分かる。ただ突っ立って歌うのとは、魔力の「質」が全然違うのだ。
(そうか、歌と一緒に伝承されているこの動きはただの踊りじゃない。魔力を効率よく練り上げ、増幅させるための「儀式」なんだ!)
まるで、古代の巫女さんが行う奉納の舞や、神への祝詞みたいだ。漁師さんたちが何世代にもわたって受け継いできたこの動作には、魔術的な意味が隠されていたのかもしれない。
私は今日までのこの二日間、漁師の皆さんから『ヨッコラヤッコラ節』の歌も振付も、みっちり伝授してもらったのだ。先生も母上も、最初は少し呆れていたけれど、最後は真剣な顔で私の特訓に付き合ってくれた。
強く、強く、歌と、そして全身の動きに魔力を乗せる。その両手はまさに見えない魚網を引き寄せる、本物の漁師さんのように。
「ソラ! ヨッコラぁ~!ヤッコラぁ!!(ヨッコラヤッコラ!)ドッコイショぉ!!(ドッコイショ!!)」
(歌え歌え、踊れ踊れ、全身で気持ちをのせろっ!小5の運動会で踊ったソーラン節を思い出せっ!)
船の後方では、同じようにこの二日間特訓を受けたセリナが、少し恥ずかしそうにしながらも、一生懸命に腰を落とし、同じ振付で踊り、合いの手を入れてくれている。セリナの健気な姿が、私の心をさらに強くしてくれた。
しかし、対する魔獣の瘴気も、まるで底なし沼のように、次から次へと大量に放出され続けている。私の力だけでは、浄化するには時間がかかりそうだ。
(押し切れないっ!これじゃあ、日が暮れちゃうかも…!)
これは長期戦になる、そう感じて少し焦り始めた、その時だった。
水平線の彼方から、何十隻もの小さな漁船が、こちらへ向かってくるのが見えた!
あれは…ボルグさんたちの船だ!波止場に残っていたはずの漁師さんたちが、自分たちの船に乗って、私たちを追いかけてきてくれたんだ!
船団の中から、一人の年老いた漁師さんが、しゃがれた、しかし芯のある声で、私の歌に声を重ねてくれた。
「荒ぶる海神ぃ~♪鎮まれぇ~鎮まれぇ~ 海の底にはぁぁ~還らぬ友よぉぉ~」
その声を合図に、一人、また一人と、漁師さんたちの力強い歌声が重なっていく!潮風に焼かれた、荒々しくて、決して上手くはない男たちの歌声。けれど、そこには、この海と共に生きる人々の、何世代にもわたる切実な祈りと、歴史の重みが込められていた。
「「「「ソラ! ヨッコラぁ~!ヤッコラぁ!!(ヨッコラヤッコラ!)ドッコイショぉ!!(ドッコイショ!!)」」」
ドン、ドン、ドン!
さらに漁船から、大漁を知らせるための太鼓の音が、地響きのように鳴り響き始めた!
私の『瞳』には、その光景が奇跡となって映っていた。
漁師さんたちの力強い歌声が響くたびに、瘴気に怯えて隠れていた海の精霊たちが、次々と本来の輝きを取り戻していく!
彼らは喜びに満ちた無数の光の粒となり、漁師たちの歌声を乗せて、私の元へと集まってくる。まるで、力強い光の川が、私という海へと流れ込んでくるようだ!
太鼓の響きが、この星の心臓の鼓動みたいに、全ての魔力の旋律を一つに束ね、増幅していく!
私の鼻先にいた小さな青い精霊も、仲間たちと合流し、楽しそうに私の周りをくるくると踊り始めた。
すべての音が、一つに溶け合った。
私の歌声、漁師さんたちの祈り、太鼓の鼓動、そして精霊たちの喜び。
その調和が臨界点を超えた瞬間。私の口から、自然とある一つの音が紡がれた。それはもはや歌声ではなく、魂そのものが震えるような、澄み切った黄金の波紋だった。
――キィィィィィン……。
その音色が響いた瞬間、世界が黄金色に染まった。
爆発的にあふれ出した光が、荒れ狂う瘴気の海を、優しく、しかし絶対的な力で飲み込んでいく!
パリン、パリン、パリン…!
まるで薄い氷が砕けるような音が、あちこちで響き渡る。
魔獣たちを覆っていた、あの禍々しい紫色の結晶体が、みるみるうちに剥がれ落ちていくのが視えた!
「漁師たちを下がらせて!」
母上の号令が飛ぶ!ボルグさんが大声で退避を指示しているのが聞こえる!
好機は、今!
「先生!」
「承知!」
先生の指先から、空気を引き裂くような雷撃が放たれる!
「燃えなさい!」
母上の指先から、昨日とは比べ物にならないほどの数の炎の槍が、雨のように降り注ぐ!
水蒸気爆発の轟音と衝撃波が、辺り一面を覆い尽くす!
船が大きく揺れて、私は思わずへさきにしがみついた。
やがて、全てが晴れた後。
海面に浮かんでいたのは、もう再生も増殖もせず、ただ静かに波間に漂う、魔獣の黒い肉片だけだった。
「「「うおおおおおおおおっ!!」」」
漁船から、そして私たちの船から、天を衝くような歓声が沸き起こった!やったんだ!
その、歓喜に沸く海の中央。
水面が、穏やかなエメラルドグリーンの光を放ち始めた。光の中から、ふわりと、人の形をした何かが姿を現す。それは、立派な釣り竿を片手に、人の良さそうな笑顔を浮かべた、陽気なおじいさんの姿をしていた。
(え、恵比寿さま!?)
「…精霊の顕現…。こんな短期間に二度も!しかし、文献にない姿ですわ…」
母上と先生が、その未知なる存在に、驚きと困惑の表情を浮かべる。
しかし、漁師さんたちの船団からは、どよめきと、そして歓喜の声が上がっていた!
「おお…!伝承は、本当だったのか…!」
「『大漁じい様』だ!我らの守り神だ!」
精霊のおじいさんは、私に向かってにっこりと笑うと、その声が頭の中に直接響いてきた。
《いやぁ、大したもんだ!ワシの好きな歌を、また聞かせてくれて、ありがとうよ!ワシは豊漁と凪の精霊じゃ》
(豊漁と凪の精霊様!恵比寿さまにそっくりだわっ!)
その言葉は、どうやら私にしか聞こえていないみたいだ。周りの皆は、ただ呆然と精霊の姿を見つめている。
《だがな、嬢ちゃん。これで終わりじゃねえ。お前も感じておるだろうが、『浸食者』の気配は、日増に濃くなっておる。これは、始まりに過ぎん》
精霊様の言葉に、私は息をのむ。『浸食者』…。泉の精霊が言っていたのと同じ…。
「また浸食者…わたしは何をすればよろしいのですか?」
《この星は徐々に浸食者の瘴気に蝕まれてきている、浸食者が現れるまでに少しでも瘴気を薄めることが重要じゃ!》
「…それが私にできること……」
《ま、今日のところは、大漁だ!まずは皆に礼をくれてやる!》
《しばらくの間、この海の波は穏やかに、そしてお前たちの網は、魚でいっぱいになるだろうさ!》
精霊様はそう言うと、パチン、と指を一つ鳴らした。
その瞬間、それまで戦いの余波で荒れていた海面が、まるで鏡のように凪いだ。そして、近くの海面から、銀色の魚たちが、まるで祝福するかのように、キラキラと跳ね始めたではないか!
その、目に見える奇跡を目の当たりにして、漁師さんたちの船団から、今度こそ、本物の、心の底からの歓喜の雄叫びが上がった!
「おおおおおっ!海が…!」
「魚だ!見ろ、魚が跳ねてるぞ!」
「大漁じい様、ありがてぇ!」
そして、豊漁と凪の精霊様はもう一度、悪戯っぽく笑いながら、私だけに向き直った。
《そして、嬢ちゃん。お前さんにも、ワシからの特別な『加護』をやろう》
精霊様は、にやりと笑うと、そのごつごつした指先を、そっと私の額に触れた。
温かい、海の匂いがする光が、私の魂に直接流れ込んでくるのを感じた。
《こいつは『豊漁の加護』だ。達者でな、星の歌い手よ》
その言葉を最後に、精霊様の姿は、陽光に溶けるように、すうっと消えていった。
後に残されたのは、どこまでも穏やかな青い海と、勝利と奇跡の目撃に、いつまでも歓喜の声を上げ続ける人々の姿。
「豊漁の加護か…」
私は、自分の額にそっと触れてみた。特に何も変わった感じはしないけれど…。
「浸食者のことはまだよくわからないけれど、これで手に職を得たわ。いざとなったら、漁師さんになって暮らしていけるわね!」
私は腕を組みながら、海人らしい顔で、遠い水平線を見つめるのであった。
ゼノン辺境伯領 南方港町サザン民謡
『ヨッコラヤッコラ節』
東の空から、お天道様だ
海が金色、目を覚ます
命知らずの荒くれ共が
板子一枚、地獄の上よ!
ヨッコラヤッコラ!ドッコイショ!!
波を越えろや、風切れや
俺らの船は、沈まねぇ!
ヨッコラヤッコラ!ドッコイショ!!
重てぇ網なら、力で引けよ
引けば銀色、魚が跳ねる
汗は塩水、涙も塩水、
混ざりゃ同じだ、海になる!
ヨッコラヤッコラ!ドッコイショ!!
根性見せろや腰落とせ、
大漁旗を掲げるぞ!
ヨッコラヤッコラ!ドッコイショ!!
荒ぶる海神鎮まれ鎮まれ
海の底には、還らぬ友よ
悪しきモノ共、網には掛かるな
とっとと去ね!彼方まで!
ヨッコラヤッコラ!ドッコイショ!!
闇を払えや、光を呼べ
俺らの声が守り神!
ヨッコラヤッコラ!ドッコイショ!!
ヨッコラ!!ヤッコラ!!ドッコイショ!!!
※参考文献 「魔導国アルカディア民謡大全」




