表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/39

第29話 罠

 砂浜での発見から一夜が明けた、港町サザンの早朝。


 港は、いつもの活気とは違う、張り詰めた緊張感に包まれていた。母上が編成した、少数精鋭の調査隊が出航の準備を進めている。


 船に乗る直前、母上は私の前に屈み込むと、その真剣な翡翠色(ひすいいろ)の瞳で、私の瞳をじっと見つめた。


「パスティエール。あなたに、危険な役目をお願いしなければなりません」


 その声は、いつもの優しい母上のものではなく、辺境伯夫人としての、厳しい響きを持っていた。


「昨日の会議で、通常の魔術や捜索では手掛かりが見つからないことは分かりました。あなたのその不思議な感覚だけが、今の私たちに残された唯一の手がかりなのです」


 母上は、私の両肩に、そっと手を置いた。


「危険な役目になることは分かっています。けれど、わたくしたちと共に船に乗り、もう一度、その『音』の(みなもと)を指し示してはもらえませんか?」


 それは、命令ではなかった。一人の子供としてではなく、特異な能力を持つ協力者として、私の意志を問う、真摯な問いかけだった。


 怖い。けれど、私が役に立てる、唯一の機会。


「…はい、母上。わたくし、やります」


 私の答えに、母上は「ありがとう」とだけ言って、私の頭を一度だけ、優しく撫でた。


(これがわたしにできること、ならがんばらなくちゃ!)


 私たちは、一隻の中型の漁船に乗り込み、港を静かに出航した。


 船には、母上と先生、私とセリナ、そして護衛兵と、この辺りの海を知り尽くした魚人の冒険者たち。船が岸から離れるにつれて、私の心臓は、不安と、そしてそれ以上に強い使命感で、どくどくと高鳴っていた。


「パスティエール様、寒くありませんか?」


 隣で、セリナが心配そうに、私の肩に毛布をかけてくれる。彼女の顔は、緊張でこわばっていた。


「うん、大丈夫よ。ありがとうセリナ」


 私が指し示した沖合の一点に近づくにつれて、海の様子は一変した。穏やかだった青い海は、どす黒い藍色(あいいろ)に変わり、不気味な灰色の霧が立ち込め始める。


 そして、私の魂に直接響いてくる、あの不協和音。それは、近づけば近づくほど、頭をかきむしりたくなるような、狂気の旋律となって私を苛んだ。


「…母上。この辺りです。…真下から、聞こえます…!」


 船が速度を落とし、静かに波間に(ただよ)う。そこは、肉眼では何も見えない、ただの海の上だった。


 しかし、私たちはすぐに異様な光景を目の当たりにした。


 船の周囲に、最近破壊されたのであろう、漁船の残骸がいくつも浮かんでいるのだ。まるで、見えない壁にでもぶつかったかのように、この一点を中心にして、残骸が奇妙な円を描いて漂っている。


 そして、その木片の表面が、まるで砂糖菓子のように、薄紫色(うすむらさきいろ)の、きらきらと輝く結晶体のような物質で覆われているのだ。


 その結晶体からも、瘴気と同じ、不快な旋律が放たれている。


「…ふむ。これは、自然物ではなさそうですな。まるで、何かの生物が作り出した巣…あるいは、罠のようです」


 アルフレッド先生が、険しい顔で呟いた、その時だった。


「――来るぞ!」


 船の先頭で見張りをしていた魚人の冒険者が、鋭い警告を発した。


 彼の言葉と同時に、私たちの船を取り囲むように、水面が、ごぽり、ごぽりと泡立ち始める。


 そして、そこから、無数の影が、一斉に姿を現した。


 それは、これまで見たどの魔獣とも違う、異様な姿をしていた。


(うわっ、きもっ!なんのいきものだこれ)


 水面から見えるのは蛇のようにしなやかな触手に、その先端にはカマキリのような鋭い鎌。そして、その触手は船の残骸に付着していたのと同じ、不気味な紫色の結晶体で覆われている。


「こ、この触手の形は…鬼蜘蛛海星(オニグモヒトデ)か!?だが、なんだこの全身を覆う紫色の結晶は!こんな姿、見たことがねぇぞ!」と冒険者が叫ぶ。


(ヒトデ!?本体は海の中ってこと!?)


「囲まれました!」


「まずい、数が多すぎる!」


 無数の触手が船に絡みつき、兵士たちの間に、緊張が走る。


 母上と先生が、即座に精霊魔術の詠唱を始める。


 私の『瞳』には、無数の魔獣たちが奏でる狂気の不協和音が、荒れ狂う嵐のように、私たちの小さな船に殺到してくるのが視えていた。


 それはただの音じゃない。生き物の断末魔と、底知れぬ悪意が混ざり合った、魂を削り取るような呪詛の奔流だ。


(いやっ、入ってこないで!)


 私は思わず手で耳を覆い、ガタガタと震えだした。


「パスティエール様!」


 セリナが、私を庇うように、その震える手で、短剣を強く、強く握りしめた。


 その時、一本の触手が滑るようにして、私めがけて、その凶刃を振りかざした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ