第2話 旋律を識る瞳
どれくらいの時間が経ったのだろう。私の意識は、温かく柔らかな繭に包まれているかのように、穏やかな眠りの中にあった。
時折、遠くで優しい声がしたり、そっと体を揺さぶられたりするのを感じる。そのたびに、微睡みの海に浮かぶ船のように、心地よく意識が揺蕩う。
次にふと目覚めた時、世界はまだ、ひどく曖昧だった。視界はぼやけていて、光と影の染みしか判別できない。耳も同様で、まるで水の中にいるかのように、聞こえてくる音はくぐもって輪郭を失っている。自分の手足ですら、思うように動かせない。この不自由な感覚が、ひどくもどかしい。
(わたしは…誰…?)
意識が浮上するたびに、その問いが頭をもたげる。『パスティエール』。そう呼ばれた記憶がある。温かい家族の笑顔と、祝福の言葉。それが、今の私。けれど、心の奥底には、まるで分厚い霧の向こう側にある景色のように、もう一つの人生の記憶がこびりついていた。
(ちがう…私は、もっと大きくて、自分の足で歩いて、仕事をして…)
その思考に意識を向けた瞬間、奔流のように、前世の記憶が流れ込んできた。
――雨が窓を叩く音。手にしたギターのネックは、ひどく冷たかった。客席には、数えるほどしか人がいない。必死に喉を震わせても、私の歌は誰の心にも届かずに、虚しく空気に溶けていく。あの無力感。叶わなかった、歌手になるという夢の記憶。
――白い、無機質な部屋の匂い。日に日に弱々しくなっていく『母』の声。そうだ、私は、自分の夢を諦めて、がむしゃらに働いたんだ。医療費のために。芸能事務所の、裏方として。
――薄暗いライブハウスの熱気。インカムから聞こえる、舞台監督の焦った声。手にしたタイムテーブルは、汗で少しだけ滲んでいる。ステージの上で、眩い光を浴びて歌い踊る少女たちの姿。その輝きに熱狂する観客たちの歓声。私は、その光景を、舞台袖から祈るような気持ちで見つめていた。ああ、なんて、キラキラしているんだろう。
――心電図の、無機質な音が、長く、長く、響いた。握りしめた母の手は、もう何も握り返してはくれなかった。
――そして、鳴りやまない電話。積み重なる書類。冷え切ったコーヒー。夢中で走り続けた果てに、待っていたのは、深夜のオフィスでの静かな終わり。ひどく疲れていた。ただ、少しだけ眠りたかった。それだけだったはずだ。
《……可哀想に。あなたの歌は、まだ、途中のままだったのに》
不意に、声が聞こえた。目の前には、何もない。ただ、どこまでも続く、穏やかな暗闇が広がっているだけ。暖かくも寒くもない、不思議な空間。
私は、ただ魂だけの存在として、そこに浮かんでいた。声の主はわからない。男か女か、老いているのか若いのかも。ただ、その声の響きには、どこまでも深く、温かい慈愛が満ちていた。しかし、その奥底には、星々が砕けるような、途方もない悲しみと孤独が横たわっているのを、魂が感じ取っていた。
《…あなたは、よく頑張りました。けれど、あなたの旋律はあまりにも悲しい。たくさんの後悔と、諦めと、そして届かなかった祈りで、澱んでしまっている…》
その存在は、まるで我が子を悼む母親のように、悲しげに言った。
《…もう一度、歌いなさい。今度は、あなた自身の魂の歌を…》
(でも…私には、才能なんて…)
声に出したつもりはなかった。けれど、心の叫びは、確かにその存在に届いていた。デビューしたけれど、誰の心にも響かなかった。私の歌は、無力だった。その絶望が、私の魂には深く刻み込まれている。
《…いいえ。あなたには、誰よりも優しい旋律を聴き分ける耳と、誰かのために歌いたいと願う心がある。それこそが、何物にも代えがたい才能。わたくしが、この星が、あなたを必要としているのです…》
その存在は、祈るように言った。
《…だから、贈り物をあげましょう。この世界の、本当の旋律を識るための『瞳』を。今度こそ、あなたの声を、あなただけの歌を、最後まで紡ぎなさい…》
その言葉と共に、意識が遠のいていく。あたたかな光が、私を包み込んで……。
はっ、と意識が現実に引き戻される。目の前には、相変わらずぼんやりとした天井の染みが見えるだけ。今の記憶は、夢だったのだろうか。
その時だった。部屋の扉が静かに開き、誰かが入ってくる気配がした。ぼんやりとした光の塊が、私の顔を覗き込む。母、エリアーナだ。
「あらあら、起きていましたのね、パスティエール」
その声が聞こえた、次の瞬間。世界が、爆ぜた。今までモノクロームの染みでしかなかった母の姿が、突如として、言葉では表現できないほどの鮮やかな光の奔流となって私の目に飛び込んできたのだ。
優しく、暖かく、それでいて力強い…まるで揺らめく炎のような黄金色のオーラ。その光は、ただ輝いているだけではない。それは、美しい協奏曲を奏でるように、壮大かつ繊細に母の周りを流れている。
驚きは、それだけでは終わらない。母が手にしていたランプの灯りは、一点の曇りもないソプラノのように高く澄んだ光を放っている。部屋の石壁には、長い年月をかけて刻まれた荘厳なグレゴリオ聖歌のような、古びた残滓が流れている。空気中にすら、無数の小さな光の粒子が、星屑のようにきらめきながら漂っているのが見えた。世界は、光の旋律で満たされていたのだ。これが、あの声がくれた贈り物。これが、この世界の本当の姿。
圧倒的な情報量に眩暈を覚えながら、私は自分の内側へと意識を向けた。そこには、見えた。私自身の力が。
それは、どこまでも深く、静かな、巨大な湖のようだった。膨大な水量を湛えているのに、波一つない。そのあまりの広大さに、少しだけ恐怖を覚える。この力を、動かしてみたい。赤子の体で、力の限り念じてみる。うー、と唸ってみる。けれど、湖の水面は微動だにしない。まるで、分厚い氷に閉ざされているかのようだ。
(なにも…おこらない?)
前世の諦めが、再び心を覆いそうになった、その時。耳元で、母が優しい鼻歌を口ずさんだのが聞こえた。その歌声に、私の魂が反応する。あの暗闇の中の声が、脳裏に響く。
《歌いなさい》
そうだ、歌。衝動的に、私は口を開いた。言葉にはならない。ただ、「あー」とか「うー」とか、赤子が出せるだけの意味のない声。その瞬間、私は見た。私の内なる力の湖から、ぽつん、と。本当に小さな、頼りない光の粒が一つだけ、ふわりと浮かび上がったのだ。母の壮大なオーラに比べれば、それは瞬きほどの、あまりにも些細な光。けれど、それは紛れもなく、私の声に反応して生まれた、私だけの光だった。
(…うたうと、ひかる…?)
その単純な事実に気づいた途端、新しい世界のあまりの美しさと、自分の中に生まれた小さな希望の光に、私の小さな脳は耐えきれなくなった。視界が、光の洪水に飲み込まれていく。世界は、こんなにも美しく、音楽に満ちている。その事実に打ち震えながら、私の意識は、心地よい疲労感と共に、再び深い眠りの中へと沈んでいった。




