第28話 青い世界、忍び寄る歪み
港町サザンでの二日目の朝。
私は、母上に連れられて、代官の館で行われる調査会議に同席していた。
視察の一環として、領主の血を引く者がどのように問題解決に当たるのかを学ぶため、という名目だ。
私の隣では、セリナが昨日よりもさらに緊張した面持ちで、直立不動の姿勢を保っている。
会議には、代官代理のボルグさん、漁師ギルドの長、そして今回の調査依頼を受けているという、屈強な魚人の冒険者などが集まっていた。
テーブルに広げられた海図の上には、ここ数ヶ月で魔獣の被害に遭った場所が、赤いインクでいくつも記されている。
「ご覧の通り、襲撃地点に法則性は見られません。まさに、神出鬼没…」
「我々魚人の部隊が潜って調査もしましたが、巣らしきものは発見できず…。まるで、海の底から、ただ湧いて出てくるかのようです」
報告は、どれも芳しいものではなかった。大人たちが難しい顔で頭を悩ませ、会議が行き詰まっていくのを、私はただ黙って見つめていた。
会議が昼前に終わると、重苦しい空気を振り払うように、母上が私に微笑みかけた。
「さて、パスティエール。約束通り、砂浜へ参りましょうか」
「はい、母上!」
私と母上、そしてセリナとアルフレッド先生は、数名の護衛を連れて、街の北の外れにあるという砂浜へ向かった。
そこには、私の前世の記憶にある通りの、夢にまで見た光景が広がっていた。どこまでも続く、純白の砂浜。寄せては返す、透き通ったセルリアンブルーの波。
「わー!」
私は、思わず歓声を上げ、淑女の作法も忘れて、裸足になって波打ち際へと駆け出した。
冷たくて、くすぐったい水の感触。追いかけてくる波から、きゃっきゃっと笑いながら逃げる。
セリナも、最初は「パスティエール様、おはしたないです!」と慌てていたが、母上に「たまには良いではありませんか」と微笑まれ、戸惑いながらも、嬉しそうに私の後をついてきた。
しばらく波と戯れた後、私は、セリナに持ってきてもらっていた『ちびギター』を抱えた。
この美しい景色を、この胸の高鳴りを、音にしたい。歌にしたい。
魔力は乗せない。ただ、心のままに。
私は、この海を見て、今、この瞬間に生まれた、新しい歌を歌い始めた。
「♪〜どこまでも続く、青い世界〜♪」
私の歌声と、ちびギターの拙いメロディが、優しい潮風に乗って広がっていく。
すると、私の『瞳』に、素敵な光景が映り始めた。歌声に呼応するように、色とりどりの精霊たちの気配が、きらきらと輝き、小さな光の粒となって私の周りに集まってきたのだ。
それだけじゃない。
私の拙いメロディに合わせて、周囲の光の粒たちが楽しそうに明滅し、くるくると踊るようにリズムを刻み始めた。
風に乗って、海の飛沫に乗って、精霊たちの喜びが伝わってくる。
まるで、世界そのものが私の歌に伴奏をつけてくれているみたい!
私が嬉しくなって少しテンポを上げれば、光の粒たちも楽しそうにそれに合わせ、より一層輝きを増す。言葉なんていらない。音と光を通じて、私たちの心が一つになっていくのを感じた。
その時、私の周りを踊る光の粒の中から、特に好奇心旺盛そうな、小さな青い光が一つ、私の鼻先にふわりと舞い降りた。
(こんにちは、小さな精霊さん。私の歌、気に入ってくれた?)
心の中で語りかけると、その光は「うんうん」と頷くように、ちかちかと温かい光を放った。言葉は通じなくても、温かい気持ちが伝わってくる。
母上とアルフレッド先生が、はっとしたように目を見開いているのが分かった。彼らには精霊の姿は見えていないはずだ。けれど、熟練の魔術師である二人には、この場の空気が尋常ではない、澄んだ魔力で満たされていくのを肌で感じ取っているのだろう。
セリナや護衛の兵士さんたちも、何か神聖なものでも見るかのように、呆然と私を見つめていた。
最高の時間だった。けれど、その美しいハーモニーは、唐突に終わりを迎えた。
ピタリ、と。
私の周りで楽しそうに踊っていた光の粒たちの動きが、一斉に止まったのだ。
(え……?どうしたの、みんな?)
先ほどまで温かかった光の粒たちが、怯えるように細かく震え始めている。そして、まるで何かから逃げるように、蜘蛛の子を散らすように私の周りから離れていった。
ただ一つ、私の鼻先にとまっていた小さな青い光だけが、私の頬にすがりつくように身を寄せてきた。冷たい。精霊が、恐怖している?
その小さな光が、震えながら、私の頬で激しく明滅する。その光から伝わってくる強烈な恐怖の感情が、沖合のある一点に向けられているのが分かった。
(あそこが……怖いの?)
精霊の恐怖が、私の魂に直接伝わってくる。その瞬間、私も気づいた。
ガラスを爪で引っ掻くような、不快な音。美しい海の旋律の中に、たった一つだけ混じっている、全てを台無しにする不協和音に。
私は歌うのをやめ、精霊たちが恐れる方角――沖合の一点を、睨みつけた。
普通の人の目には、ただの青い海原にしか見えないだろう。けれど、精霊たちの恐怖を共有した私の『瞳』には、はっきりと視えていた。
そこだけ、美しい海の旋律が歪み、どす黒い紫色の淀みが渦を巻いているのが。
「…母上。あそこから、嫌な音がします…。すごく、禍々しい何かが…」
私の言葉に、母上とアルフレッド先生が、はっとしたように顔を見合わせた。
私の歌が場の魔力を高め、精霊たちとリンクしたことで、異物である瘴気の源泉が、より明確に浮かび上がったのだ。
先ほどまでの和やかな雰囲気は、一瞬にして消え去った。
母上の顔が、優しい母親のそれから、辺境伯夫人としての厳しい指揮官の顔へと変わる。
「…ボルグ殿に連絡を。パスティエールが指し示した海域を、直ちに調査します」
私の初めての海辺の冒険は、こうして、精霊たちからの警告によって、海の魔獣との戦いの始まりを告げる序曲となったのだった。




