第26話 馬の背に揺られ、歌を乗せて
領都アイアン・フォルトを出発してから、三日目の昼下がり。
私たちのキャラバンは、どこまでも続く、なだらかな丘陵地帯の街道を進んでいた。
「パスティエール様、背筋を伸ばして。手綱は、もっと優しく握るのです」
「は、はい、先生!」
私は、アルフレッド先生の馬に乗せてもらい、初めての騎乗訓練を受けていた。先生の腕にすっぽりと収まる形で鞍の前に座り、小さな手で一生懸命に手綱を握る。馬の背の温かさと、規則正しい揺れが、心地よかった。
見渡す限りの青い空と、萌えるような緑の草原。時折、羊の群れを追う牧歌的な光景も見える。そんな、どこまでも続く平和な景色に、私の心は自然と浮き立っていた。
気づけば、私は小さな声で歌を口ずさんでいた。前世で、旅をする時に大好きだった歌。
(魔力は乗せない。ただ、今のこの気持ちを、音にしたいだけ)
私の拙い歌声は、穏やかな風に乗って、キャラバン全体にふわりと広がっていく。
私の馬のすぐ後ろを歩いていた兵士さんたちが、顔を見合わせてにこやかに笑っている。後方の商人たちの馬車からも、手拍子のような音が聞こえてきた。
ただ一人、私の専属侍女であるセリナだけは、そんな和やかな雰囲気とは無縁だった。
「ぱ、パスティエール様!あまり身を乗り出しては危険です!どうか、先生にしっかり掴まって…!」
彼女は、私が馬から落ちやしないかと気が気でないのだろう。馬のすぐ横を、おろおろしながら小走りでついてくる。
その時だった。セリナの足が、道のくぼみにつまずく。
「ひゃっ!?」
短い悲鳴と共に、彼女の体はバランスを崩し、ころころと、絵に描いたように、草原の丘を転がり落ちていった。幸い、なだらかな斜面だったため、怪我はなかったようだが、草まみれになって目を回している彼女の姿に、兵士さんたちの間から、堪えきれない笑い声が漏れていた。
そんな微笑ましい(?)ハプニングの後、私たちが一番高い丘の頂上に差し掛かった時だった。
「パスティエール様、ごらんなさい」
先生が指さす、地平線の彼方。そこに、きらきらと輝く、真っ青な線が一本、横たわっていた。
「…うみ…」
この世界に来て、初めて見る、海。
前世で何度も見たはずの光景。けれど、私の『瞳』に映るそれは、全くの別物だった。どこまでも広く、雄大で、そして、生命力に満ち溢れた、力強い魔力の旋律。寄せては返す波の一つ一つが、この星の鼓動そのものであるかのように、私の魂に直接響いてくる。
「セリナも、海は初めてですの?」
草まみれのまま馬の隣に戻ってきたセリナに尋ねると、彼女も「はい、パスティエール様…!」と、目を輝かせていた。
(すごい、きれい…。泳げるのかしら?でも、水着なんてないわよね、この世界…)
そんなことを考えて、一人でわくわくしていると、キャラバンは再びゆっくりと動き始めた。
それから数時間後。潮の香りが強くなり、カモメの鳴き声が聞こえ始める頃、私たちの目の前に、ようやく最初の目的地である港町サザンが見えてきた。
白い壁の家々が丘に沿って立ち並び、活気のある港には、たくさんの船のマストが林立している。アイアン・フォルトとは全く違う、開放的で、明るい雰囲気の街だ。
街の入り口では、一人の男性が、数人の役人らしき人々を連れて私たちを待っていた。
「エリアーナ様、パスティエール様、ようこそサザンへお越しくださいました!わたくしが、この街の代官代理を務めております、ボルグと申します!」
日に焼けた肌に、海の男らしい、厳つい顔つき。けれど、その身にまとっているのは、少し窮屈そうな、貴族が着るような仕官服だ。そのアンバランスな姿が、なんだか少しだけおかしくて、私は母上の背中に隠れながら、くすりと笑ってしまった。
私たちは、ボルグさんに案内されて、街で一番大きな建物である代官の館に通された。質素だが、潮風に強い頑丈な石と木で造られた、機能的で美しい館だ。
館の前で、私たちと道中を共にしてきた商人や冒険者たちとは、ここでお別れとなる。
「嬢ちゃん!あんたの歌、道中楽しかったぜ!また聞かせてくれよな!」
冒険者の一人、熊のように大柄な戦士さんが、ガハハと豪快に笑いながら、私に声をかけてくれた。
その言葉に、私は嬉しくなって、前世で大好きだったアイドルの決めポーズを、思わずとってしまった。
「はいっ!またいつでも、歌いますわ!」
人差し指と中指を頬の横で立てて、にっこりと笑ってみせる。
「パスティエール」
しかし、その背後から、母上の氷のように冷たい一言が飛んできた。「はしたないですわよ」
「うぅ…」
(だって、可愛いじゃない…!)
心の中でそう抗議する私とは対照的に、隣に立つセリナは、口元を手で押さえながら、その体をぷるぷると震わせながら、「…そうですパスティエール様、そんな可愛らしいお姿、だれもかれにも見せてはもったいないです!」
と的外れなことを呟いている。
館に入り、ボルグさんが改めて深々と頭を下げる。辺境伯夫人と令嬢である私たちに対し、彼は臣下として最敬礼の挨拶を捧げた。母上は優雅に、私も母上の真似をして、練習してきた通りに、小さく会釈を返した。
「本日はもう日も暮れております。明日にでも、わたくしがこの街をご案内いたしましょう。今宵は、ささやかではございますが、歓迎の宴をご用意いたしました」
その日の晩餐会は、海の幸づくしだった。香ばしく焼かれた魚、貝がたっぷり入ったスープ、少し塩辛い海藻のサラダ。どれも、森に囲まれた領都では決して食べられない、新鮮で力強い味がした。
私は、長旅の疲れもあって、夢中でお腹いっぱい食べた。
そして、久しぶりに足が伸ばせる、ふかふかのベッドに潜り込む。
(明日は、海に行けるかな…。砂浜を、裸足で歩いてみたいな…)
そんなことを考えながら、私の意識は、心地よい潮騒の音を遠くに聞きながら、むにゃむにゃと、深い眠りの海へと沈んでいった。




