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第19話 泉の精霊と、迫り来る『浸食者』

 意識が、深い、深い湖の底からゆっくりと浮上してくるような感覚。最初に感じたのは、自分の手に触れる温かい感触だった。重い瞼をなんとかこじ開けると、見慣れた自室の天蓋が、ぼんやりとした視界に映る。


「……パスティエール様!」

 私の動きに気づいたのだろう。すぐ側で、息を詰めていたような声がした。視線をそちらへ向けると、心配で目の下に濃い隈を作り、少しやつれた様子のセリナが、私の手を両手で固く握りしめていた。


「よかった…!目をお覚ましになられたのですね…!」

「…せりな…?」


 掠れた声しか出ない。喉が、砂漠のように乾ききっていた。


「ギルバート様!パスティエール様がお目覚めです!」


 セリナの呼びかけに、部屋の隅の椅子でうたた寝をしていたらしいギルバート兄様が、ガタンと音を立てて飛び起きた。


「パスティ!よかった…本当に、よかった…!」


 駆け寄ってきた兄様の目も、泣きはらしたように少しだけ赤かった。三日三晩、私は眠り続けていたのだという。あの戦いの後、私は高熱を出し、ずっと(うな)されていたらしい。


 それからさらに数日後、ようやく歩けるまでに回復した私は、父上の執務室に呼ばれていた。そこには、父上と母上、お爺様、そしてアルフレッド先生が、あの戦いの日と同じ、真剣な面持ちで席についている。重々しい空気の中、会議はアルフレッド先生の一言から始まった。


「まず、先日の戦いにおけるパスティエール様の『歌』について、兵士たちから集まった証言の報告です」


 先生が読み上げる報告書の内容は、驚くべきものだった。私の歌を聞いた負傷兵は、例外なく苦痛が和らぎ、安らかな眠りについたこと。


 そして、祈祷師たちの報告によれば、眠っていた兵士たちは心身の消耗が最小限に抑えられ、祈祷術の効果が通常よりも格段に高まっていたという。


 さらに、前線の兵士たちからは、あの歌が広場から響き渡った瞬間、魔獣たちの動きが明らかに鈍り、統率が乱れたという証言が多数寄せられていた。


「結論から申しますと」と、先生は一度言葉を切り、私を真っ直ぐに見つめた。


「パスティエール様の力は、もはや単なる魔術の範疇にはございません。他者の魂や魔力の流れそのものに直接干渉する力…それは、エリアーナ様の血統魔法『調律』により近しい可能性が極めて高い」


 『魔法』。先生が以前教えてくれた、奇跡そのものだという、失われた力。その言葉の重みに、私はゴクリと息を呑んだ。


 父上が、重々しく口を開く。


「そして、もう一つの議題は、森の異変だ。パスティ、お前が意識を失う間際に聞いたという『声』と『邪悪な瘴気』。今回の魔獣の襲来は、過去の記録を鑑みても、明らかに規模も質も異常だった。森の奥で、我々の知り得ない何かが起きているのは間違いない」


 父上の言葉に、母が静かに続けた。


「原因を究明せねば、第二、第三の襲撃が起こるやもしれません。わたくしが、精鋭を率いて深淵の森へ調査に向かいます」


「母上が!?」私が驚きの声を上げると、母は「ええ」と力強く頷いた。


「わたくしも、行きます!」


 私は、椅子から飛び降りて、必死に訴えた。「あの声は、確かに『助けて』と言っていました!きっと、森の何かが苦しんでいるのです!その声が聞こえるのは、きっと、わたくしだけだから…!」


「危険すぎる!」と父上が反対する。


 しかし、母は私の瞳をじっと見つめ、やがて静かに言った。


「…分かりました。パスティエール、あなたも来なさい。その特異な力が、この謎を解く鍵になるやもしれません」


 母の決断に、お爺様も、そしてアルフレッド先生も、最終的には同意してくれた。


「わたくしも、お供いたします!」

 ずっと後ろに控えていたセリナが、決死の覚悟で前に進み出た。しかし、母は静かに首を横に振る。


「セリナ、あなたの忠誠心は認めます。ですが、今回の任務はあまりに危険です。あなたの今の実力では、パスティエールを守るどころか、足手まといになりかねない」


 その非情な宣告に、セリナの顔から血の気が引いていくのが分かった。父上が、この城の留守を預かる領主として残ること、そしてギルバート兄様もまだ幼いという理由で同行が許されないことが告げられる。


 調査隊の構成は、指揮官である母、魔術顧問のアルフレッド先生、そして道標となる私。それに、母が選び抜いた十数名の精鋭兵士たち。


 セリナは、何も言わなかった。ただ、俯いて、その唇を血が滲むほど強く噛み締め、わなわなと震える拳を握りしめているだけだった。その瞳の奥に、これまでに見たこともない、激しい悔しさと決意の炎が燃え上がっているのを、私の『瞳』だけは、確かに捉えていた。


 数日後、私を乗せた馬は、母と先生、そして精鋭兵士たちに護られ、あの深淵の森へと足を踏み入れた。


 そこは、以前父上の巡回についてきた時に見た、生命力に満ちた森ではなかった。鳥の声も、獣の気配も、風にそよぐ木の葉の音すらしない。


 まるで時間が止まったかのような、不気味な静寂が支配していた。木々は黒く枯れ、地面には苔一つ生えていない。私の『瞳』には、森全体が、まるで病に侵されたように、紫色の不協和音のような瘴気に覆われているのが視えていた。


 道中、遭遇した魔獣は、もはやただの獣ではなかった。その瞳は濁った赤色に染まり、口からは絶えず涎を垂らし、仲間であったはずの魔獣の死骸を貪り食っている。その体からは、森に満ちるのと同じ、禍々しい瘴気が陽炎のように立ち上っていた。


「…正気を失っている。まるで魂のない抜け殻だ」

 兵士の一人が吐き捨てるように呟いた。


 私は、意識を失う間際に感じた、あの冷たい瘴気の流れと、心の奥に微かに響く「助けて」という声を頼りに、一行を森のさらに奥深くへと導いていく。


 半日ほど歩き続けた頃だろうか。森の深部、開けた場所に私たちはたどり着いた。


 そこに広がっていたのは、ヘドロのように黒く濁り、不気味な紫色の瘴気を、間欠泉のようにゴボゴボと噴き上げている沼地であった。周辺の木々は完全に枯れ果て、大地はひび割れている。


「…ここだわ。間違いありません、母上」

 瘴気のあまりの濃密さに、思わず息が詰まる。


「なんと、おぞましい…」

 アルフレッド先生が、調査のために一歩、その瘴気に近づこうとした、その時だった。


「先生、いけません!」

 母上の制止も間に合わず、先生の体が瘴気に触れた。瞬間、先生は「ぐっ…!」と苦悶の声を上げ、よろめくように数歩後ずさる。その顔は青ざめ、呼吸が荒くなっていた。


「直接体に影響が…。通常の魔術障壁では防ぎきれん…」


 先生ほどの達人ですら、触れるだけでこの有様なのだ。この禍々しい瘴気の奥から、あの日の「助けて」という悲痛な声が、よりはっきりと、私の魂に直接響いてくる。


 もう、迷いはなかった。私にしか、できない。

 私は馬から降りると、母の心配そうな視線を背に受け、沼地の淵へと歩みを進める。そして、私の半身とも言うべき、ちびギターを構えた。


(絶対、助けてあげるから!)


 私は、沼地の中心に向かって、この森に宿る生命力と、助けを求める声に応えるための祈りを込めた、生命賛歌を歌い始めた。


 私の歌声から放たれる金色の光の旋律が、沼地から噴き出す紫色の瘴気と激しく衝突した。瘴気は、まるで歌を拒絶するかのように荒れ狂い、獣のような咆哮を上げて私に襲いかかってくる。


 しかし、私の歌は止まらない。私の背後で、母が、先生が、そして精鋭の兵士たちが、固唾をのんで、祈るように私を見守ってくれている。その想いが、私の歌をさらに力強くしていく。金色の光は次第に輝きを増し、ついに紫色の瘴気を圧倒し始めた。


 やがて、絶叫のような音を最後に、瘴気は完全に霧散した。黒く濁っていた沼の水が、まるで奇跡のように、水晶のごとき透明な輝きを取り戻していく。


 泉が完全に浄化された、その瞬間。

 きらきらと輝く水面から、すうっと、水の衣をまとった、言葉を絶するほどに美しい女性の姿――泉の精霊が姿を現した。


「…精霊!?」

「…!まさか精霊の顕現に立ち会えるとは…!」

 母と先生が、驚愕と、研究者としての純粋な喜びに打ち震えている。精霊と直接対話した者など、おとぎ話の中の存在でしかなかったのだ。


 精霊は、その慈愛に満ちた瞳で私を見つめると、深々と、その頭を下げた。


《ありがとう、小さき歌い手よ。あなたのおかげで、わたくしは瘴気から解放されました》


 その声は、母や先生には、心地よい鈴の音のような、意味をなさない精霊言語としてしか聞こえていない。けれど、私の耳には、はっきりと、感謝の言葉として届いていた。


《しかし、喜んでばかりはいられません。この汚染は、この世界に近づく脅威…『浸食者』の、ほんの予兆に過ぎないのです》


 その言葉と同時に、私の脳裏に、言葉ではない、鮮烈なイメージが流れ込んできた。


 ――漆黒の宇宙に浮かぶ、美しく青い星。その星に、まるで毒のインクを垂らしたかのように、邪悪な紫色の何かがゆっくりと迫ってくる光景。


「…浸食者…」

 私の口から、流れ込んできたイメージを言語化した言葉が、思わず漏れた。その言葉に、母と先生が驚いた顔で私を見る。


《ええ。古より、かの者たちは、この星の生命力を喰らわんと幾度も干渉してきました。あなたが浄化してくれたあの瘴気こそが、かの者たちが放つ力の欠片なのです》


 再び、イメージが流れ込む。瘴気に覆われた大地、枯れていく森、苦しむ生き物たち。


「私の歌で、あの瘴気を浄化できるの…?」


 私の心の問いに、精霊は優しく微笑んだ。

《あなたの歌には、この星の生命力そのものを呼び覚ます力があります。それは、我ら精霊ですら持ち得ない、星に選ばれた、特別な力》


 精霊は、私の胸元にそっと手をかざした。言葉ではない、温かく、そして清らかな奔流のような力が、私の魂に直接流れ込んでくる。それは、この星の、優しくて、力強い鼓動のようだった。


《あなたは、この星の希望。精霊たちの声を聞き、星の歌を紡いで。そうすれば、この星はきっと、輝きを取り戻す》


「でも、私にそんな大それたことが…」


 私の不安を読み取ったかのように、精霊は力強く頷いた。


《できます。あなたの歌は、この星の生命に語りかけ、力を与えることができるのですから》


 精霊の手が、ひときわ強く輝きを放つ。

「これは…?」

 温かな光が、私の胸に吸い込まれるように消えていった。


《わたくしの加護を。微力ですが、あなたの助けとなるでしょう。水の精霊が、常にあなたの側にいます》


 精霊は、じっと私の瞳を見つめた。

《どうか、この星に、あなたの歌を響かせてください》


 その言葉を最後に、精霊の体はきらきらと輝く光の粒となり、浄化された泉の中へと溶けるように消えていった。


 浸食者。


 その言葉の、恐ろしいほどの重みが、六歳の私の小さな肩に、ずしりと、のしかかってきたのだった。


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