第1話 二つの人生の幕開け
大陸暦678年、花咲の月
ごう、と風が唸る音が聞こえる。分厚い石壁に隔てられてなお、その力強さが伝わってくる。
それはまるで、この地に生まれた宿命を祝福する咆哮のようでもあり、あるいはこれから待ち受ける運命を暗示する嵐のようでもあった。
魔導国アルカディア、最西端。
ゼノン辺境伯領の領都アイアン・フォルト。『鉄の砦』の名を持つこの街の心臓部、ゼノン家の居城の一室で、一つの新しい命が産声を上げた。
「おぎゃあ、おぎゃあ……!」
それが、私の最初の記憶。
世界は光と影と、揺れる音だけで構成されていた。温かい何かに包まれ、心地よい揺れを感じる。
遠くで聞こえる喧噪も、厚い羊水の中にいるかのようにどこか他人事だった。
「……おお」
不意に、低く、震える声が耳を打った。視界がおぼろげなままに持ち上げられる。
目の前に現れたのは、逆光でよく見えないが、大きな影。けれど、その影から伝わる感情は、不思議と理解できた。歓喜、安堵、そして少しばかりの戸惑い。
「俺の…俺の娘だ……」
その影は、生まれたばかりの私をぎこちなく抱きかかえながら、感極まった声を漏らした。私の視界はまだはっきりとしない。
「なんと…なんと愛らしいのだ……。エリアーナ、見てくれ。天使だ。俺たちの娘は、天使に違いない…!」
「あらあら、あなた。そんなに強く抱きしめては、この子が潰れてしまいますわよ」
穏やかで、鈴を転がすような声が、興奮する男性を宥める。男性の腕から、より優しく、慣れた手つきで私を受け取ったのは、どうやら私の母となる人らしい。
父親と思われる先程の男性が「エリアーナ」と呼んだ女性。
「小さいですね…。本当に、頑張って生まれてきてくれました」
母の腕の中は、父のそれよりもずっと心地が良かった。優しい声、柔らかな肌の感触、そしてふわりと香る花の匂い。それが、私が最初に覚えた「安心」という感情だった。
部屋の隅の椅子に腰かけていたもう一つの影が、静かに立ち上がった。白髪を短く刈り込み、顔には深い皺が刻まれた、古武士然とした老人だ。
彼は何も言わず、ただ静かにベッドのそばへと歩み寄り、私を見下ろしたまま黙っている。
不意に大きな音がして、さらに人の気配が増えた。
「父上!生まれたのですか!?」
「ギルバート、静かに。赤子が驚くだろう」
元気よく部屋に飛び込んできたのは、どうやら幼い二人の少年のようだ。
一人は落ち着いた足取りで私の顔を興味深そうに覗き込んだ。
「…小さいな。僕の指より、ずっと小さい」
そう言って、そっと私の手に触れる。その手つきは、まるで壊れ物を扱うかのように慎重だった。
もう一人は、好奇心を隠しきれないといった様子でぴょんぴょんと跳ねている。
「わー!俺の妹か!母上、俺も抱っこしていい!?」
「まだ駄目ですよ、ギルバート。もう少し大きくなってからね」
「むぅ…」
私の兄らしき少年たちのやり取りを黙って見ていた、あの老人が、低い声で尋ねた。
「…それで、名前は決めたのか」
「はい、お義父様。この子の名は、パスティエール。パスティエール・ゼノンです」
(パスティエール・ゼノン…わたしのなまえ?)
母の言葉に、その老人は「フン」と一つ鼻を鳴らした。そして、武骨で節くれだった指を伸ばし、私の頬にそっと触れる。硬い指先は、赤子の肌にはあまりに不釣り合いだったが、その触れ方は驚くほど優しかった。
「…パスティエール、か。……ワシに似て、気骨がありそうな顔をしておる」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、その厳しい口元がほんのわずかに綻んだ。
(この人が、母の言う「おとうさま」…つまり、私のおじいさま?)
パスティエール。
こうして家族に囲まれ、祝福される中で、私の新しい人生は始まった。しかし、その穏やかな時間の中で、私の意識の奥底には、まだ馴染むことのない、もう一つの記憶がおぼろげながら存在していた。
それは、母の腕に抱かれ、穏やかな子守歌を聞いていた時のこと。優しい歌声が、私の意識の深い場所に、静かに染み込んでいく。
(うた……?この歌じゃない……でも、どこか懐かしい……)
その瞬間、脳裏に全く異なる情景が、ノイズの混じった映像のように明滅した。
―消毒液のツンとした香り。
―薄暗いライブハウス。
―雨が窓を叩く音。
「……さん……かなで……」
誰かが、誰かの名前を呼んでいる。それは、私の名前のようでもあり、全く知らない誰かの名前のようでもあった。
(お母さん……?違う、母は、ここにいる……。じゃあ、あの人は、誰……?)
思考が混乱する。二つの異なる記憶が、混じり合って渦を巻く。温かい家族に囲まれている「今」の幸福感と、もう失われてしまった「何か」への、胸が張り裂けそうなほどの喪失感。
その矛盾した感情の奔流に、生まれたばかりの私の魂は耐えきれない。
(……ねむい……)
抗いがたい眠気が、意識の全てを塗りつぶしていく。父の優しい声も、母の柔らかな歌声も、次第に遠のいていく。こうして、私の二度目の人生は、混乱と微睡みの中に、その幕を開けたのだった。




