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第17話 戦場の歌姫

 血と鉄の匂いが風に乗り、鼓膜を震わせる咆哮が大地を揺るがしていた。空は魔獣の翼で黒く覆われ、太陽は力を失っている。


 父上が率いる第一陣は、領都アイアン・フォルトの城門前にて、深淵の森から溢れ出した黒い津波と正面から衝突していた。


「盾、構え!押し込まれるな!一歩でも退けば、後ろの民が蹂躙されると思え!」


 父上の鋭い号令が、鋼の意志となって兵士たちの背を押す。


 最前線に並ぶ屈強な盾兵たちが、巨大な盾を連結させ、さながら鋼鉄の森となって魔獣の突進を食い止める。全身を黒曜石のような甲殻で覆った猪型の魔獣が白煙を上げて突進し、その牙が盾に突き立てられるたびに、地鳴りのような衝撃音と火花が散った。


 その鋼鉄の隙間から、無数の槍が、まるで巨大なハリネズミの針のように突き出され、魔獣の喉や甲殻の隙間といった急所を的確に貫いていく。


 父上は、歴戦の傷が刻まれた白銀の鎧を纏い、愛馬を巧みに操りながら戦場を駆けていた。その瞳は、混沌とした戦場の隅々までを冷静に捉え、的確な指示を各部隊に飛ばし続ける。


「第三隊、右翼に回り込め!小型種の数を減らせ!」

「弓兵、怯むな!次弾装填を急げ!」


 その姿は、平素の親バカな父親の面影など微塵もない、まさしく『疾風』の異名を持つ猛将そのものであった。


 しかし、敵の数はあまりにも多い。一体倒せば、その後ろから二体が現れる。討伐の速度よりも、森の奥から湧き出してくる増援の速度が僅かに上回り、屈強な辺境伯領の兵士たちでさえ、じりじりと後退を余儀なくされていた。


「ちっ…切りがないか!」

 父上は忌々しげに舌打ちすると、その手に握る愛用の槍を天へと掲げた。戦場の喧騒を圧するほどの、朗々とした声が響き渡る。


「――コドゥルウハイリス(鋭き風の精霊よ)イダストオィアト(集いて応えよ)ラゼイムアビア(見えざる刃よ)イカタエサ(形を成せ)イケトカシリク(敵を切り裂き)エクナルス(貫け)!」


 詠唱に呼応し、大気が唸りを上げて渦を巻く。父上の掲げた槍の穂先に、私の『瞳』には、無数の不可視の刃が形成されていくのが視えた。


「薙ぎ払え!」


 父上が号令と共に槍を横一閃に振るうと、凄まじい風の刃の奔流が魔獣の群れへと殺到した。鋼鉄の如き甲殻も、岩のような筋肉も、その不可視の刃の前では熟れた果実同然だった。絶叫を上げる間もなく、前衛にいた魔獣たちが一瞬にして細切れになり、夥しい血飛沫と共に薙ぎ払われていく。


 一時的にぽっかりと空いた空間。だが、それも束の間、後続の魔獣たちが、仲間たちの無残な死骸を踏み越え、再び殺到してくるのだった。


 一方、城門近くに設けられた臨時の野戦病院では、お爺様が率いる第二陣が、負傷した兵士の収容と物資の補給に奔走していた。


「急げ!教会の祈祷師をここに!」

「止血帯をもっと寄越せ!小僧、ぼさっとするな、水を運べ!」


 怒号と悲鳴が飛び交う広場は、まさに地獄絵図だった。次々と担架で運び込まれてくる兵士たち。教会の祈祷師による治癒魔術の淡い光がそこかしこで点滅するが、傷が深すぎてすぐには塞がらない。呻き声と、むせ返るような血の匂いが、濃密な死の気配となって立ち込めていた。


 城の最も高い場所にあるバルコニーから、私はその全てを見ていた。


 父上の勇猛な戦いぶりも、母上の鮮烈な魔術も、そして、後方で苦しむ兵士たちの姿も。


(父上のように、槍を振るうことはできない。母上のように、強力な魔術で敵を討つこともできない。私に、何ができる?)


 自分の無力さに、ぎゅっと唇を噛む。この光景を、ただ見ていることしかできないのか。そう思った時、私の視線は、野戦病院で苦悶の表情を浮かべる兵士たちに吸い寄せられた。私の『瞳』には、彼らの生命力が奏でる旋律が、苦痛によって激しく乱れ、まるで悲鳴のような不協和音を響かせているのが視えていた。


 その瞬間、一つの強い想いが、私の胸を突き上げた。


(いいや、私には『歌』がある。この地獄のような戦場で、ほんのひと時でも、安らかな眠りを届けられるのなら…。苦しみを、少しでも和らげることができるのなら…!それが、今の私にできる、私の戦い方!)


「パスティエール様!?どこへ!」


 背後で聞こえるセリナやギルバート兄様の制止を振り切り、私はバルコニーを駆け出していた。自室に飛び込み、壁にかけてあった宝物――『ちびギター』をその小さな手に取ると、再び廊下を駆け抜ける。目指すは、あの苦しみに満ちた城門近くの広場。


 血と泥に汚れた広場の中心に、フリルのついた豪奢なドレス姿の幼女は、あまりにも不釣り合いだった。


「姫様!このような場所で何を!?」

「お下がりください!危険です!」


 周囲の兵士が悲鳴に近い声を上げて私を止めようとする。しかし、私はその声に構わず、広場の中央に立つと、おもむろにちびギターを構え、静かにその弦を爪弾いた。


 ポロン、と。


 戦場の喧騒の中では、あまりにもか細く、頼りない音色。

 しかし、私の口から紡がれたのは、この世界の誰も知らない、穏やかで優しい歌だった。前世の母が、病室で私の手を握りながら、いつも歌ってくれた子守歌。


 私の歌声は、魔力を含んだ清らかな光の波となって、周囲へと広がっていく。私の『瞳』には、その金色の光が、傷つき乱れた兵士たちの魂の旋律に、そっと寄り添い、優しく調律していくのが視えていた。


 最初に変化に気づいたのは、私の足元で血まみれの腕を押さえ、「腕が…!」と呻いていた兵士だった。苦悶に歪んでいた彼の表情が、ふっと和らぐ。眉間に深く刻まれていた皺が消え、荒い息遣いが、次第に穏やかな寝息に変わっていく。まるで、母親の腕の中で眠る赤子のように、安らかな寝顔で、彼は意識を手放した。


「おい、見ろ…ジェフの様子が…」

「痛みが…和らいでいるのか…?」


 周囲で介抱していた兵士たちの間に、どよめきが広がる。


 私の歌は続く。奇跡は、連鎖していく。激痛に耐えていた者たちは、次々と安らかな眠りに落ちていき、死の恐怖に震えていた者たちは、その震えを止める。私の『瞳』には、彼らの心拍が落ち着き、興奮状態が緩和されることで、傷口から流れ出る血の勢いが、僅かに、しかし確実に緩やかになっていくのが視えた。


 それは、傷を塞ぐ治癒魔術ではない。だが、それは、傷ついた魂を癒し、生命力が本来持つ治癒の力を助ける、慈愛の歌だった。


 もう、誰も私を止めようとはしなかった。兵士も、領民も、畏敬の念を込めて私を見つめ、道を開ける。


 誰かが、ぽつりと呟いた。

「――『歌姫』様だ…」


 そこへ、私を追ってきたギルバート兄様とセリナが駆けつける。


「パスティ、お前、これは…」


 ギルバート兄様は、目の前で起きている信じがたい光景に、言葉を失い立ち尽くしていた。


 ただ、私は歌っているだけ。けれども戦場の絶望的な空気が、穏やかで神聖なものへと塗り替えられていく。


 セリナに至っては、その場に膝をつきそうになるのを、必死で堪えているようだった。その頬を、大粒の涙が伝う。


 それは、戦場という地獄に舞い降りた聖女か、神の使いか。何か人ならざる、神々しいものを見るような、畏敬と信仰に満ちた眼差しだった。

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