第16話 血統魔法
その日の魔術の授業は、いつもと違う、重々しい雰囲気の中で始まった。
場所は、父上の執務室。アルフレッド先生を前に、父上、母上、そしてお爺様が、真剣な面持ちで席についている。私も、その中央の小さな椅子にちょこんと座っていた。
「パスティエール様の魔力特性について、一つの仮説が浮かびました」
先生は、そう切り出した。
「結論から申しますと、エリアーナ様の血統魔法を、最も色濃く受け継いでおられるのかもしれません」
「母上の、血統魔法…?」
私の呟きに、大人たちの視線が集まる。
「血統魔法って、なんですか?私が、母上と…?」
私の問いに、大人たちは顔を見合わせ、やがてお爺様が重々しく口を開いた。
「…血統魔法とは、特定の家系にのみ、血を通じて受け継がれる特殊な魔法のことだ。我らゼノン家にはないが、エリアーナの実家であるカエルス公爵家には、代々受け継がれる力がある」
「ええ」と母上が頷く。「わたくしの血統魔法は『調律』。自分自身、あるいは他者の魔力に干渉し、その流れを整え、増幅させる力です」
アルフレッド先生が、話を継いだ。
「レオナルド様とギルバート様には、今のところその兆候は見られません。しかし、パスティエール様の極端な魔力特性は、あるいはエリアーナ様の血統魔法『調律』が、我々の知り得ない、極めて特殊な形で発現した結果ではないかと…」
先生は、私に優しく語りかけるように続けた。
「パスティエール様は、ご自身の魔力を外に出すことを、無意識に、そして極端に制限してしまっているように見受けられます。その代わり、その膨大な魔力は、唯一の出口である『歌』を介して、世界に働きかけている。ご自身の内面の問題なのか、血統魔法の特性なのかは、まだ分かりかねますが…」
先生はそこで一度言葉を切り、私の両親に向き直った。
「ご提案がございます。魔術学園に入学されるまでの間、当面は基礎魔術の訓練と並行し、歌による魔力放出の訓練も本格的に行うべきかと。歌で精霊魔術の発動ができるか、検証を続けるのです」
その様子を見て、お爺様が、これまでとは少し違う、憂いを帯びた声で言った。
「…血統がどうであれ、このままでは、この子が苦労するのが目に見えておる」
お爺様の視線が、私の頭の先から足の先までを、労わるように見つめる。
「ワシのような武骨者には魔術の機微は分からん。だが、この国でのう…特に首都の貴族社会や魔導院で、魔術の才がどれほどの意味を持つかくらいは知っておる。普通の魔術が使えぬ、というだけで、心無い者たちからの格好の的となろう」
「魔導院…?」
私の問いに、お爺様は静かに頷いた。
「パスティ。魔術学園と魔導院は違う。学園は良い。だが、魔導院は…派閥と血統が渦巻く伏魔殿だ。お前のように普通の魔術を扱えない者は、奴らの好奇と侮りの目に晒されることになるやもしれん。…ワシは、お前にそんな思いはさせたくない」
その言葉は、厳しい忠告でありながら、不器用なお爺様からの、温かい愛情のようにも聞こえた。
その、重々しい空気を切り裂くように。
城に、けたたましい警鐘の音が鳴り響いた。
一人の兵士が、血相を変えて執務室に駆け込んでくる。
「緊急報告!深淵の森より、大規模な魔獣の群れが出現!このままでは、領都に到達します!」
「なんだと!?」
父上の顔が、瞬時に親バカのそれから『疾風』の領主へと変わる。
「すぐに出る!各隊に準備させろ!」
父上は壁にかけてあった槍を手に取ると、鎧を纏いながら嵐のような速さで部屋を飛び出していった。
「私も出るわ。魔術師部隊の指揮を執ります」
「ワシは第二陣を率いよう」
母上とお爺様も、即座に立ち上がる。領都そのものが標的とあらば、総力戦なのだ。
「パスティエール、あなたも、よく見ておきなさい」
母上の厳しい声が響く。
「これが、辺境に生きるということです。セリナ、パスティエールとギルバートも連れて、二人をバルコニーへ」
私とギル兄様は、セリナに連れられて、城の最も高い場所にあるバルコニーへと向かった。
眼下には、領都の巨大な城門の前に、父上を先頭にした領兵たちが見事な陣形を敷いている。門の内側には、お爺様が率いる屈強な第二陣が控えているのが見えた。
そして、城壁の上。そこに、母上が率いる魔術師部隊が一列に並んでいた。私の『瞳』には、彼らの纏う魔力のオーラが、緊張でぴりぴりと揺らめいているのが視える。
やがて、深淵の森の方角から、黒い津波のようなものが押し寄せてきた。
大型の獣、小型の獣、そして、空を覆う翼の群れ。あれが、魔獣の軍勢。
その全体から放たれる不協和音のような紫色の瘴気が、私の肌を粟立たせる。
「…すごい数だ…」隣で、ギル兄様が息をのむ。
城壁の上で、母上が静かに片手を掲げた。
指揮官である母上のその動きに、魔術師たちの緊張が極限まで高まる。
私の『瞳』には、彼らの不揃いな魔力の旋律が、今にも暴発しそうなほど乱れているのが視てとれた。
その瞬間、母上の指が確かな意志を持って空中を泳いだ。
「――《調律》」
母上の足元から、彼女の魔力そのものである黄金の光が、蜘蛛の巣のように張り巡らされていく。それは城壁に並ぶ魔術師部隊一人一人の足元へと伸び、彼らの奏でる不揃いな魔力の旋律に、寄り添うように絡みついた。
瞬間、私の『瞳』に映る世界が一変した。
魔術師たちがそれぞれに奏でていた不協和音が、まるで熟練の指揮者がタクトを振るったかのように、ピタリと一つの壮大なハーモニーへと昇華されたのだ。無駄なく、淀みなく、すべての魔力が一つの旋律となり、母上の指揮を待っている。
そして、母上の凛とした声が戦場に響き渡った。
「――ロケンウランオダイリス、イダストオィアト! カルフエバ、イカタエサ! アガウエア・エテボス!」
母上の声に合わせ、完璧に調律された魔術師たちが一斉に詠唱を始めた。すると、城門の前の地面が轟音と共に盛り上がり、瞬く間に分厚い土の壁がいくつも出現した。
「放て!」
弓兵部隊の一斉射撃。無数の矢が、魔獣の群れの先頭に降り注ぐ。
だが、大型の魔獣は、その矢をものともせずに土壁へと突進してくる。
その時、空から、甲高い叫び声と共に、巨大な鷲のような魔獣が数匹、城壁の魔術師部隊めがけて急降下してきた。
「まずい!」ギル兄様が叫ぶ。
しかし、母上は冷静だった。
彼女は一人、天を仰ぎ、両手を胸の前で合わせ、指を組み詠唱を開始した。
「――イケキアカイリス・イダストオィアト!クショギイセライアカアラク・イカタエサ!アガウイケトイスウクエテウアクエラス・エテバカドク、サボティク!」
「爆ぜろっ」
力強い詠唱と共に、前につきだした両手の平から、圧縮された魔力が鷲の魔獣たちめがけて撃ち出される。
一拍を置き、圧倒的な熱と炎と音が魔獣達の中心で炸裂した。空を覆う赤。
断末魔の叫びと共に、魔獣たちは炎に包まれ、黒い煙を上げて地上へと墜落していった。
これが、戦。
これが、母上の、本当の力。
私は、そのあまりの光景に、声も出せずに立ち尽くす。
隣で、兄も、セリナも、同じように戦慄しているのが分かった。
辺境に生きるということ。その言葉の本当の重みを、私はこの日、初めて知ったのだった。




