第15話 森の予兆と父の背中
今日もまた、アルフレッド先生との魔術の授業の時間がやってきた。
「ではパスティエール様、まずは基礎魔術のおさらいから参りましょう」
いつものように、授業は基礎魔術五種の復習から始まる。
『身体強化』は絶好調だ。今では、意識せずとも常に薄い魔力の膜を体に循環させることができるようになっている。
先生からも「素晴らしい。この歳で常時発動の域に達するとは」とお墨付きをもらった。
しかし、それ以外の成績はお粗末なものだった。
『魔力付与』は、手に持ったペンにかすかに魔力が流れるのを感じる程度。
『魔力障壁』は、シャボン玉のように頼りなく、指でつつけばすぐに弾けてしまう。
『魔力感知』も、そもそも魔力を体の外に広げることができない。
そして『魔力放出』は、相変わらず、手のひらに蛍の光ほどの小さな魔力球が現れるだけだった。
「ふむ…」
一通り見終えた先生は、腕を組んで頷くと、私に意外なことを告げた。
「基礎魔術は『強化』以外、相変わらずですな。しかし先日、パスティエール様の歌から魔力が放出されるのを拝見し、私なりに考察しました。その検証のため、少し早いですが応用の『精霊魔術』をお教えします。これは本来であれば、学園の中等部から学ぶ内容です」
「せいれい、まじゅつ…!」
兄様たちが王都で学ぶという未知の魔術。私の胸は、期待に高鳴った。
「まず、実技の前に……少し歴史のお話をしましょうか。『精霊魔術』とは何か、についてです」
先生は、いつもの講義の口調で、ゆっくりと、けれど厳かな声音で語り始めた。
「遥か昔……今から数百年以上も前。『大厄災』が世界を襲う前の時代。人々は万物の根源たる精霊たちと共存し、直接対話する『古代精霊魔法』を用いていました」
「こだい、せいれい、まほう……」
「ええ。それは、詠唱も印も必要とせず、ただ精霊と言葉を交わし、絆を結ぶだけで天候すら操る、まさに『奇跡』の御業でした。顕現した精霊と共に暮らし……風の精霊王の声を聞き、水の精霊王の怒りを鎮める。そんなことができた時代があったのです」
先生の瞳に、少しだけ遠い憧れのような色が浮かぶ。
「しかし、『大厄災』によって文明は崩壊し、精霊は人々の前から姿を消し、多くの優れた使い手と、精霊と対話する方法は失われてしまいました。……精霊の心は気まぐれで不安定です。対話ができなくなった現代人にとって、彼らの力はあまりに危険すぎました」
「そこで、生き残った先人たちは考えました。不安定な『対話』ではなく、誰にでも扱える、安定した『技術』が必要だと」
先生は、黒板に『技術』と大きく書いた。
「彼らは古代の儀式を徹底的に分析し、精霊との『対話』を、強制力のある『命令』へと書き換えたのです。それが、特定の詠唱と印によって自然界の精霊の力を引き出すシステム……現代の『精霊魔術』です」
(精霊に命令か、なんかモヤッとするな……)
「あの、先生」
私はおそるおそる手を挙げた。
「じゃあ、今の魔術は……昔の魔法の『真似っこ』みたいなものなんですか?」
私の問いに、先生は「ほう…」と感心したように目を細めた。
「鋭いご指摘ですな。左様。我々が扱う『魔術』は、奇跡を再現するための『技術』に過ぎません。しかし、書物にのみ記される失われた古代魔法や、一部の血筋にのみ伝わる血統魔法は、世界の理に直接干渉する『魔法』……。いわば、奇跡そのものなのです」
技術と、奇跡。その言葉の重みに、私は自分の内に眠る力が、後者に近いものであることを、ぼんやりと理解した。
先生は、チョークを手に取り、黒板に三つの単語を書き出した。
「精霊魔術の発動は、三つの段階に分かれています。一つ、精神集中。自身の魔力を、操りたい精霊…例えば『水』のイメージと、心の中で固く結びつけます」
「二つ、術式詠唱。次に、精霊言語で構築された呪文を唱えます。これは精霊に対して命令を行うための術式です」
「そして三つ、印。最後に、魔力の流れを導き、形作るための特定の身振りを行います。この三つの段階を完璧に行うことで、精霊魔術は発動するのです」
私は、先生の言葉を一言も聞き漏らすまいと、必死に耳を傾ける。
「では、実際にやってみましょう。本日お教えするのは、最も初歩的な水の精霊魔術、『水滴』です」
先生は魔導書を開き、一つの術式を指差した。
「『水滴』は、掌に少量の水を生成する魔術。詠唱は二節で構成されております。実際の詠唱は精霊言語で唱える必要があります。」
「詠唱は、『イサイリス・オィアット!アガウウクオス・イムガウクジ・ウレアイ!』、意味は『水の精霊よ、応えよ!我が掌中に、恵みの雫を与えよ!』です」
初めて聞く、複雑な精霊言語。一度ではとても覚えられそうにない。私が目を白黒させていると、先生は「まあ、一度ご覧なさい」と優しく微笑んだ。
先生は、祈るように体の前で両手を組む。
「精神集中」
私の『瞳』には、先生の周囲を循環していた魔力が、静かな水の流れのように、その性質を変化させていくのが視えた。
「次に、術式詠唱」
先生の唇から、流れるような精霊言語が紡がれる。すると、先生の体から放出された魔力が、大気中に漂う魔力と結びつき、美しい水色の旋律となって、再び先生の元へと収束していく。
「そして、印」
詠唱が終わると同時、先生が体の前に差し出した手のひらの上に、水晶玉ほどの完璧な球体の水が、ぷるん、と姿を現した。
「おお…!」
思わず、感嘆の声が漏れる。基礎魔術とは比べ物にならない、複雑で、美しい魔力の流れ。
「では、パスティエール様。まずは私がやったのと同じ方法で試してみましょう」
先生に促され、私は見よう見まねで、両手を前で組む。
(水のイメージ、水のイメージ…)
頭の中で、清らかな泉を思い浮かべる。そして、先ほど教わったばかりの呪文を、黒板に書かれた精霊言語を見ながら必死に、たどたどしく唱える。
「い、いさおいりす…いおいあっと!」
難しい!精霊言語の発音は、私が今まで知っているどの言葉とも違う。何度も舌を噛みそうになりながら、なんとか最後まで詠唱を終える。
けれど。私の手のひらの上に現れたのは、ぽつん、と。朝露のように小さな水の玉が一つだけだった。
あれだけ苦労して、結果はこれ。やはり、私の魔力は、外に出てはくれないのだ。
がっくりと肩を落とす私を見て、先生は「ふむ…」と、興味深そうに顎を撫でていた。
「やはり、そうですな。私の『感知』でも、今の詠唱では、パスティエール様からほとんど魔力が放出されていないのが確認できました」
先生は、やはりという顔で頷く。
「では、次が本題です。先日のように、その詠唱を『歌』として歌ってみなさい。あなたのやり方で、その言葉に魔力を乗せてみるのです」
「はい!」
今度こそ、と私は意気込む。
黒板に書かれた精霊言語の文字列を見ながら、私は即興で、歌いやすいようにリズムとメロディを考えた。そして、息を吸い込む。
「〜イサイリス~オィアット〜♪」
しかし。歌っているのに、魔力が動かない。私の内なる湖は、静まり返ったままだ。いつもの歌のように、声に光が乗っていかない。結果は、先ほどと何も変わらなかった。
「どうして…?歌っているのに…」
私の『瞳』には、自分の声から、何の魔力の輝きも放たれていないのが視えていた。
(いつもの歌と、何が違うの…?…もしかして、意味が分からないから…?)
私の歌は、私の心から生まれた言葉だった。でも、これは、意味も実感も分からない、ただの記号の羅列。だから、私の魂は共鳴しないのだ。
私のその結論に気づいたかのように、先生は深く頷いた。
「なるほど…。『歌う』という行為そのものではなく、歌に込められた『感情』や『意味の理解』こそが、あなたの力の引き金になる、ということですかな。…ふむ、これは面白い」
先生の瞳は、探求者のように、爛々と輝いていた。
数日後、私は母上から頼まれたお使いで、父上の執務室の分厚い扉をノックした。
「父上、いらっしゃいますか?母上が、こちらの書類に目を通してほしいと…」
「おお、パスティか!入れ!」
許可を得て中に入ると、そこにいたのは、いつもの父上ではなかった。
執務机には領地の広大な地図が広げられ、父上は、領都の防衛隊長である男性と、険しい顔つきで何事か話し込んでいる。
「…ここ数日、深淵の森の浅い層での魔獣の目撃情報が、通常の三倍を超えています」
防衛隊長が、地図上の森の境界を指でなぞりながら報告する。
「特に、北の砦シルヴァに繋がる北西街道付近での遭遇報告が顕著です。さらに、斥候によれば、森の奥で不審な魔力の揺らぎを感じるとの報告も…」
「ふむ…」
父上は領主としての厳しい顔で腕を組んだ。
「…頻度が上がっているな。嵐の前の静けさ、というやつでなければ良いが…。よしダリウス、明日、定例の巡回を前倒しして行う。俺も出る。すぐに手勢を整えろ」
「はっ!」
(魔獣が増えてる…?それに、魔力の揺らぎ…?)
子供の私には分からない、難しい話。けれど、私の奥底にある前世の記憶が、それはあまり良くない兆候だと、警鐘を鳴らしているのがわかった。
防衛隊長が足早に部屋を出て行くと、父上は私に向き直り、いつものデレデレな笑顔に戻った。
「おお、パスティ!エリアーナからのお使いか、ありがとう!えらいぞ!」
「父上、明日の巡回、わたくしもお供してもよろしいですか?」
私は、思い切ってそう切り出した。
「お馬さんに、乗りたいです!」
もちろん、それは表向きの理由。本当は、魔獣が増えているという森の様子を、私のこの『瞳』で直接確かめておきたい、という気持ちが強かった。
「んん!?馬にか!そうかそうか、乗りたいか!よし、では今度、城の中庭で…」
「明日!明日の巡回がいいです!」
「だ、駄目だ!」
父上は、途端に厳しい顔に戻る。
「巡回は遊びではない。魔獣が増えているのなら、なおさら危険だ。パスティは城で大人しく…」
「あなた」
父上の言葉を遮ったのは、いつの間にか執務室に入ってきていた、母上だった。
「パスティも、もう六歳ですわ。辺境伯家の娘として、領地の現状…私たちが何から領民を守っているのかを、その目で見ておくのも良い経験になります。護衛も万全になさるのでしょう?」
「うっ…!し、しかし、エリアーナ…」
母上の静かだが有無を言わせぬ言葉に、父上はたじろぐ。
「もちろん、万が一にも危険が及ばぬよう、森の浅い層、街道沿いだけにするという条件付きですけれど。いかがかしら?」
「…エ、エリアーナがそう言うなら…。よ、よし!パスティ!明日は父さんと一緒に馬に乗るぞ!やったな!」
結局、父上は私にではなく、母上に押し切られる形で、デレデレと許可を出してくれた。
翌日、私は生まれて初めての「巡回」に同行していた。
父上が乗る大きな軍馬の、前の鞍にちょこんと乗せてもらう。私のお世話係としてセリナも、緊張した面持ちで後方の馬車に乗り込み、十数名の屈強な護衛兵さんたちが、私たちの前後を固めていた。
領都の砦門を抜け、深淵の森の境界近くを巡回する。
父上の背中は大きくて、馬の上から見る景色は、いつもよりずっと遠くまで見渡せる気がした。
森は、一見するといつも通りの静けさを保っている。
(でも…)
私は、自分の『瞳』に意識を集中させた。
(…なんだろう…森の奥の方から、微かに…でも、とても嫌な音がする…)
それは、音というよりは不快な振動に近い、低い不協和音だった。
私の『瞳』には、森の遥か奥から、紫色の靄のような旋律が、ゆらゆらと立ち上っているのが視えた。
(これが、『魔力の揺らぎ』…?なんだか、胸がざわつくわ…)
私がその不穏な気配に気を取られていた、その時だった。
「――ガルルルルッ!」
街道の脇の茂みから、数頭の黒い影が飛び出してきた!
「魔獣だ!森狼が五体!陣形を組め!」
護衛兵さんたちの鋭い声が響く。
私は、思わず父上の服を強く握りしめた。これが、魔獣…!間近で見るのは初めてだ。
普通の狼よりも二回りは大きく、その瞳は血のように赤く濁り、口からは涎を垂らしている。
(あの狼たちからも、森の奥から感じるのと同じ、嫌な紫色の不協和音が!)
「パスティはしっかり掴まっていなさい!決して手を離すな!」
父上の厳しい声。私はこくりと頷く。
護衛兵さんたちの動きは、私の想像を絶するものだった。
「一匹、引き受ける!」
「『障壁』!」
「叩き潰す!」
魔獣が飛びかかってくるのとほぼ同時に、先頭にいた二人の兵士さんが、一人が即座に展開した半透明の『魔力障壁』で魔獣の爪を受け止め、その隙に、もう一人の兵士さんが、 『魔力付与』した淡く光る剣で、魔獣の首を正確に刎ね飛ばした。
残りの魔獣たちも、息の合った連携であっという間に囲い込まれ、槍と剣によって一瞬のうちに絶命していく。
(すごい…)
私は、そのあまりにも迅速で、無駄のない戦いぶりに、息を呑んでいた。
(これが、アルフレッド先生の言っていた魔術の実戦…!)
領都の兵士さんたちが、これほどの強さを持っていたなんて…。私は、この辺境伯領という場所の厳しさを、そして、それを守る人々の本当の力を、今、初めて目の当たりにしたのだった。
(これが、私が住む辺境の『現実』…)
城に戻る馬車の中、私はずっと黙り込んでいた。
(結局、私は父上の馬の上で、震えているだけだった…)
兵士さんたちは、当たり前のように魔術を使って戦っていた。彼らにとって、あれは日常なのだ。
(もっと力があれば、お父様たちを助けられるのに…)
でも、今の私にはまだ、それを力に変えるだけの魔術も、知識も、覚悟も足りていない。
(悔しいな…)
そして、何よりも気がかりなのは、森の奥から感じた、あの不協和音だ。
(兵士さんたちは『魔力の揺らぎ』としか言っていなかったけど、私の『瞳』には、もっとはっきりとした『瘴気』として視えた。あれは、絶対に良くないものの予兆だわ…)




