第106話 夜明けの鐘
硝子の庭に、私の絶叫が虚しく響く。
駆け寄ったノクスさんが、クラウス先生の傷口から流れる血を指先で拭い、匂いを嗅ぐ。
そして、苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。
「……ッ、ダメだ。致死性の神経毒だ、分析だけで数日はかかるぞ」
「そ、そんな……!陛下!陛下なら治せますよね!?」
私はすがりつくように魔導王陛下を見上げた。
しかし、陛下は苦渋の表情で首を横に振った。
「……すまない。この複雑極まる毒を、彼という『器』を壊さずに分解することは、今の余には不可能だ」
「じゃあ、教会へ!王都の大聖堂なら、『祈祷術』を使える高位の神官様が!」
「間に合わない」
ノクスさんが冷徹に告げた。
「ここから大聖堂まで、馬車を飛ばしても十分はかかる。……こいつの心臓は、あと数分で止まる」
嘘だ。
国の頂点に立つ人たちでさえ、救えないなんて。
私の腕の中で、クラウスの呼吸が浅くなっていく。彼の手は氷のように冷たい。
彼は、薄れゆく意識の中で、焦点の合わない瞳を私に向けた。
「……どうか、泣かないで……」
「嫌……先生……死なないで……!」
「貴女と……旅ができて……私は、楽しかっ……」
ふっ、と。 彼の手から力が抜け、まぶたがゆっくりと落ちた。 胸の上下動が止まる。
「先生……?ねぇ、先生っ!!」
返事はない。
私の世界から、色が消えていく。
嫌だ。絶対に嫌だ。
私が無茶をしたから。私が彼を巻き込んだから。
こんな理不尽な結末、私が認めない。
私の胸の奥で、何かが爆発した。
それは悲しみではなく、烈火のような「拒絶」と、魂からの「願い」。
そして、あの聖教国での記憶がフラッシュバックする。
絶望の中で聞いた、星の精霊アステリア様の声。
『歌いなさい、パスティエール』
「嫌ぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
私の慟哭が、魔力の奔流となって温室の空気を震わせた。
その瞬間。
『――泣かないで、パスティエール』
鈴を転がしたような、美しい少年のような声が聞こえた。
胸元のポケットで、まばゆい光が弾ける。
これまで「ピィ」としか鳴かなかった小さな精霊が、私の涙を受け止め、エメラルドグリーンの光となって飛び出した。
「ポルカ……?」
光の中から現れたのは、透き通るような碧色の羽根。
尾羽はト音記号のように優美な曲線を描き、翼の模様は五線譜に踊る音符のよう。
ポルカは私の肩に止まり、優しく頬を擦り寄せた。
『大丈夫、僕達ならまだ間に合う』
ポルカの言葉が、私の魂に直接響く。
その瞬間、ポルカの意識が、魔力が、私の魂と一つに溶け合う。
「――っ、あああああああッ!!」
私の魔力とポルカの魔力が混ざり合い、再構築されていく。
(――精霊降ろし――)
そうあのグランド山のときと同じ様に。
眩い光が収束し、私の髪は碧色と桃色のグラデーションが鮮やかに交差しながら、ロングツインテールへと変化していく。
身に纏うは、ポルカの羽根と同じ鮮やかな碧色で構成されたドレス。
そして背中には、光り輝く五線譜の翼。
それは世界へ歌を届けるための姿。
瞬間、私の中に「歌」が溢れ出した。
ズレてしまった理を直し、歪んでしまった魔力をあるべき姿に戻す力。
この星から授かった、私の真の力、――『星の調律』。
『――深き夜の底 眠れる星々よ――』
『――今 涙を拭いて 目覚めの鐘を鳴らそう――』
私が歌い出した瞬間、温室の空気が一変した。
エメラルドグリーンの波紋が、私を中心に広がっていく。
その歌声に呼応して、世界が動き出した。
『――枯れゆく花に 命の口づけを――』
『――途切れた絆を 光で紡ぎ直さん――』
温室に咲き乱れる『花の精霊』たちが、歌に応えて一斉に蕾を開き、色とりどりの光の粒子を放つ。
砕け散ったガラスの破片には『光の精霊』が宿り、プリズムのような輝きを放つ。
その冷たくも美しい光が、私の周りをキラキラと旋回し、道標を描いていく。
その背後には、深紺のローブを纏ったような『夜の精霊』が静かに寄り添い、光の輪郭を優しく際立たせている。
土壌からは『土の精霊』が温かな脈動を伝え、散水管の水は『水の精霊』となって空中で虹を描く。
そして、割れた窓から吹き込む『風の精霊』が、私の歌声を乗せて高らかに旋回する。
「な、なんだこれは……!?精霊の顕現?しかもこんなにたくさんの……」
ノクスさんが目を見開く。
視界の全てが、精霊たちの祝福の光で埋め尽くされていた。
属性も、種類も関係ない。この場にある全ての精霊が、私の歌を喜び、自ら進んで力を貸してくれている。
聖教国で見た、あの金色の光景よりもさらに強く、鮮やかに。
『――巡れ 巡れ 愛しき旋律よ――』
『――あまねく世界に 祝福あれ――』
――ジュワァァァ……。
クラウス先生の傷口を侵していたドス黒い毒素が、光に触れた瞬間に浄化され、綺麗な霧となって消えていく。
深く抉られた背中の傷が、時間を巻き戻すように塞がっていく。
失われた血液が、魔力によって再構成され、蒼白だった頬に赤みが戻る。
歌声とポルカの共鳴は、温室の屋根を突き抜け、王都の夜空へと昇っていった。
その余波が、大気を震わせる。
カァァァァァァン…… カァァァァァァン……
王都全体に、どこからともなく「祝福の鐘の音」が降り注いだ。
夜明け前の空にオーロラのような光の帯がかかり、眠っていた王都の人々が、驚いて窓を開け、空を見上げる。
その遥か上空では、『星の精霊がオーロラをその両手で包み込む様に抱擁し、地上へと微笑みかけていた。
その光景を前に、ノクスさんが呆然と呟いた。
「おいおい、嘘だろ……。毒の完全分解と傷口の再生を同時に?しかも、これだけの規模の魔力供給まで……祈祷術なんざ目じゃないぜ」
魔導王陛下もまた、まばゆい光に目を細め、静かに息を吐いた。
「……これは魔術を超越している、まさに『魔法』だ。精霊たちが、彼女の歌に合わせて世界を祝福している」
そして、私が歌い終えると同時に。
光の粒子が収束し、静寂が戻った。
「……ん、ぅ……」
私の腕の中で、クラウスが小さく呻き、ゆっくりと瞼を開けた。
その瞳には、確かな光が戻っている。
「……ここは、精霊界……でしょうか?」
「ううん……まだ行っちゃだめ、私が引っ張り戻したの」
私は涙でグシャグシャな顔で、彼を強く抱きしめた。
温かい。心臓が、トクトクと力強く動いている。
「先生……!よかった……本当によかった……!」
「……ゼノン……令嬢……その姿は……」
彼は状況が飲み込めない様子で、それでも私の背中にそっと手を回してくれた。
一方で、その光景を目の当たりにしたカエルス公爵は、腰を抜かしてへたり込んでいた。
彼のプライドであった『調律』など、今の『奇跡』の前では塵に等しい。
「あ、ありえん……。あの子は、化け物か……?精霊を、世界を従えるなど……」
「化け物ではない。あれが『愛される』ということだ、ヴァレリウス」
陛下が冷たく言い放ち、公爵を見下ろす。公爵の目からは、完全に戦意の光が消えていた。
東の空から、朝日が昇る。
硝子の庭に、新しい朝の光が差し込む。
魔導王陛下が、満足げに微笑む。
「……世界が変わる音がしたな」
王都に響き渡る幻の鐘の音は、新しい時代の幕開けを告げるようだった。




