第105話 硝子の庭
領都アイアン・フォルトでの安息は、束の間のものだった。
泥のように眠り、久しぶりに自室のベッドで目を覚ました翌日。王都から早馬がやってきたのだ。
魔導王オリオン陛下からの、正式な召喚状。名目は以下の通りだ。
『港町サザンにおける魔獣討伐』
『遺跡の街ケルドにおける幻惑の呪い解決』
『グラント山における暴走精霊の鎮静化』
『獣王国との対「侵蝕者」同盟締結への貢献』
これらに対する叙勲、ならびに詳細な報告会を行う、というものだ。
拒否権のない王命である。私たちは慌ただしく旅装を整え、父上、母上、セリナ、カイル、そして護衛兵たちと共に、再び長い街道の旅を経て、王都アルカディアへとやってきた。
石造りの巨大な街並み。闊歩するゴーレム。
久しぶりに見る王都の景色は、辺境の自然とは違う、人工的で冷ややかな輝きを放っている。
父上が用意した「ゼノン家別邸」に馬車が到着したのは、夕暮れ時のことだった。
荷解きが進む喧騒の中、クラウス先生……いや、魔導官クラウス・フォン・ベルンシュタインが、私のもとへやってきた。
彼はカエルス公爵派閥に連なる子爵家の嫡男であり、魔導院の一級魔導官。王都に戻った今、彼は私の監視ではなく、本来の責務に戻らなければならない。
「……では、ゼノン令嬢。私はこれにて失礼いたします」
整えられた魔導官のローブを纏った彼は、旅の途中とは違う、他人行儀な敬礼をした。派閥の長であるカエルス公爵へ、帰還と任務の報告へ向かうのだろう。
「先生……」
「公爵閣下への報告が済み次第、またご連絡いたします。明日の謁見、堂々となさってください」
去り際、彼は一瞬だけ、旅の途中よく見せてくれた「先生」としての優しい顔をして、それからすぐに「魔導官」の冷徹な顔に戻り、去っていった。その背中が、どこか悲壮に見えたのが、ずっと心に引っかかっている。
その夜。私は胸騒ぎがして眠れず、バルコニーに出て夜空を見上げていた。王都の夜景は明るいけれど、星は見えない。
――カサリ。
頭上から羽音がして、黒い影が手すりに舞い降りた。濡羽色の翼を持つ、カラスの鳥獣人。魔導王陛下の側近、クロウさんだ。
「……クロウさん?」
「よう、嬢ちゃん。王都の夜は冷えるぜ」
クロウさんは眠たげな瞳を細め、懐から何かを取り出し、私に投げ渡した。カラン、と乾いた音を立てて足元に転がったのは――片方のレンズが割れ、血に濡れた、見覚えのある眼鏡だった。
「……っ!!」
「あの堅物エリート魔導官の眼鏡だ。公爵邸のゴミ捨て場から拾ってきた」
血の気が引いた。
「どうして、これを……」
「俺は『空耳』のクロウだぜ? 諜報が本来の仕事さ」
彼は自分の耳孔を指差した。
「公爵邸の通気口から、随分と景気のいい怒鳴り声が聞こえてきてな。『なぜ黙っていた』って、公爵様が大荒れだったよ」
「えっ……」
「あいつは、お嬢の『真の力』――特に不死鳥の件について、最後まで口を割らなかったらしい。業を煮やした公爵が、『役立たずめ、もう貴様など不要だ!』って叫んでたぜ」
クロウさんは、足元の眼鏡を見下ろした。
「公爵はそれを『派閥への背信行為』と判断した。……今頃、地下で『拷問』の最中だろうよ。将来有望なエリート街道も、家督も、これでおしまいだ。下手すりゃ今夜中に消されるな」
私は柵を乗り越えようとした。助けなきゃ。彼は、その輝かしい地位も未来も捨てて、私を守るために沈黙を貫いてくれたんだ。
「待ちな、お嬢。策も無しに行っても捕まるだけだ」
クロウさんが翼で通せんぼをする。嘴をカチカチと鳴らし、真剣な眼差しを向けた。
「だが、陛下はこれを『好機』と見た。……公爵は、お前という『手駒』を欲しがっている。もしお前が、親を捨てて自らの意思で公爵邸を訪ねたら……あの選民思想の塊はどう思う?」
私はハッとした。カエルス公爵は、自分の血統こそが至高だと信じている。
私が一人で行けば、きっとこう思うはずだ。「やはり辺境よりも、高貴なカエルスの血を選んで戻ってきたか」と。
「……公爵の傲慢さを利用して、懐に入り込めってこと?」
「そうだ。奴が油断して本性を現した瞬間、俺たちが踏み込む。……危険な役だ。できるか?」
私は、血のついた眼鏡を握りしめた。彼は、全てを失ってまで「先生」であろうとしてくれた。なら、今度は私が生徒として、彼を守る番だ。
「……やる。先生を、絶対に死なせたりしない」
私はクロウさんに頷いた。セリナは隣の部屋で眠っている。父上たちも気づいていない。私は音もなくバルコニーを飛び降り、闇の中へと消えた。
カエルス公爵邸。
深夜の門前に私が立つと、門番たちは驚いた顔をしたが、すぐに「公爵閣下にお取次ぎしろ! 孫君がお戻りだ!」と慌ただしく動き出した。
読み通りだ。彼らは私を「自ら戻ってきた重要な客人」として扱っている。
そして、屋敷の入り口で待ち構えていたのは――漆黒の礼服を隙なく着こなした、慇懃無礼な老執事だった。かつて王都に入った時、私たちを私兵で囲み、母上の『熱波』で撃退されたあの男だ。
「おや、おや。これはパスティエール様」
執事は私を見ると、蛇のような冷たい笑みを浮かべた。
「あの『物騒な』エリアーナ様も、護衛もお連れでないとは。……ようやく、ご自身の本来あるべき場所を思い出されたようですな」
嫌味な言い方。前回の事を根に持っているのがありありと分かる。彼は私が一人なのを見て、明らかに侮っていた。私はぐっと唇を噛み締め、毅然と顔を上げた。
「お祖父様に会いに来ました。通してくださいますか」
「ハッ、承知いたしました。どうぞこちらへ」
執事の案内で通されたのは、本邸の裏にある巨大なガラス張りの温室。様々な花が咲き乱れるその場所で、老人が優雅に紅茶を飲んでいた。
「よく来たな、パスティエール。……まさか、こんなに早く『帰って』くるとはな」
ヴァレリウス・カエルス公爵。彼は満足げに微笑み、私を招き入れた。
「お祖父様……」
「わかっているとも。あの野蛮な辺境の元では、お前の高貴な血が腐ってしまうからな。賢明な判断だ」
公爵は、私が「親を捨てて、名門カエルス家に媚びを売りに来た」と完全に信じ込んでいる。なんて傲慢で、都合のいい解釈。
「……クラウス様は? 報告に来ていたはずですが」
私が恐る恐る尋ねると、公爵はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ああ、あいつか。期待して送り込んだのだが、どうやら辺境の空気に当てられたらしい。重要な報告を怠り、主家を欺こうとした」
「……」
「将来を嘱望していただけに残念だよ。貴族の面汚しだ。二度と裏切らぬよう、少々きつめの『教育』を施してやったよ」
公爵が部下を呼びつける。温室の奥、屋敷へと繋がる扉が重々しく開いた。
そこから、二人の屈強な衛兵が何かを引きずって現れた。
ボロ雑巾のように放り出されたのは――全身傷だらけで、指が奇妙な方向に曲がったクラウスだった。エリートの象徴である魔導官のローブは破かれ、見る影もない。
「先生!!」
「……あ、ぅ……ゼノン、令嬢……? なぜ、ここへ……」
彼は腫れ上がった瞼を微かに開け、私を見て絶望の声を漏らした。生きてる。まだ、息はある!
「心配には及ばんよ。あのような男、代わりはいくらでもいる。お前には、もっと優秀な部下をつける。……だがその前に」
公爵が立ち上がり、爬虫類のように冷たい瞳で私を見下ろした。
「まずはその『歌』の力とやらを徹底的に調べさせてもらおうか。……抵抗しても無駄だぞ?」
公爵が指先を軽く動かす。私は反射的に、ポルカに力を借りて歌おうと息を吸い込んだ。
「――ら、ラァ……ッ!?」
ヒュッ! 鋭い風切り音と共に、私の頬に熱い痛みが走る。歌い出しの一音目が出るよりも速く、私の頬が切り裂かれていた。
「遅い」
公爵は、ただ指先を指揮者のように振っただけだ。それだけで、純粋な魔力の塊――『魔力弾』が放たれたのだ。
「吸気、発声、旋律による魔力変換。……お前の魔術はプロセスが多すぎる。戦いにおいて、それは致命的な隙だ。私なら、お前が息を吸う間に三回は殺せる」
私が再び口を開こうとすると、今度は髪の毛数本が切り飛ばされた。速い。
私の歌い出しに合わせて、正確に、その出鼻を挫くように『魔力弾』が飛んでくる。
それも、ただの塊ではない。鋭利な刃の形に加工された、殺傷能力の高い魔力の刃だ。
「それに、お前自身には魔力を防ぐ手立てがないのだろう?」
公爵が、わざとらしくため息をつく。私の周囲に、数十もの小さな魔力の輝きが展開される。
私は『魔力障壁』が使えない。『魔力弾』も撃てない。遠距離からの攻撃に対して、私は完全に無防備だ。
「くっ……!」
私は『身体強化』で、床を蹴って飛び退いた。唯一得意である身体強化だけが頼りだ。
シュシュシュッ!
魔力の刃が私のいた場所を切り刻む。
「ほう? 動きだけは良いな。だが……」
公爵の指が動くたび、逃げ場が塞がれていく。右に避ければ左から、前に出れば上から。回避するたびにドレスが裂け、薄皮一枚の傷が増えていく。
ジリ貧だ。歌う時間さえあれば反撃できるのに、その一瞬を与えてくれない。
「基礎魔術だけで十分だ。……理解したか? 守ってくれる兵士がいなければ、お前はただの無力な子供だ」
公爵が高らかに笑い、私を温室の壁際へと追い詰める。
そして、勝利を確信した彼は、余裕たっぷりに語り始めた。
「お前のその力、オリオンごときに渡すには惜しい。私の手で徹底的に解析し、この国の『あるべき姿』を取り戻すための礎となってもらう。……私が、カエルスの血こそが、この国を支配するのだ!」
公爵は、自分の勝利と野望をペラペラと喋ってくれた。周囲には厳重な探知結界があり、私兵も配置されている。私一人では何もできないと高をくくっているのだ。
……うん。十分だ。痛かったけど、バッチリ「自白」してくれたね。
私は、傷だらけの頬を拭い、ニヤリと笑った。
「お祖父様。残念ですが、お祖父様の野望はここで終わりです」
「……何?」
「だって……私が『一人』で来るなんて、そんな無防備なことするわけないでしょ!」
その瞬間。パリンッ……!!
温室の空気が、まるで鏡が割れるように砕け散った。
公爵が目を見開く。
私のすぐ隣の何もない空間から、陽炎が晴れるようにして、二人の人物が姿を現した。
「やれやれ。僕の『幻影』が完璧すぎて、空気になっちゃってました? もう少し目立ちたかったんですけどねぇ」
狐の耳を持つ優男――六人の魔導卿の一人、鏡像卿ノクス・ファントム。彼の幻影魔術は精霊魔術とは全く異なる魔術体系らしい。そして、その隣で冷徹な眼差しを向ける、この国の王。
「……見事な自白だったぞ、ヴァレリウス公」
魔導王オリオン陛下だ。
「な、ま、魔導王……!? なぜここに!? 結界の反応は……!」
「幻影だよ。君も、君の自慢の探知結界も、ずっと『少女一人』という幻影を見ていたのさ」
ノクスさんがコインを弾いて嘲笑う。
温室の外に控えていたはずの私兵たちも、いつの間にか王宮騎士団によって制圧されている。公爵は青ざめ、よろめくように後ずさった。
「き、貴様ら……! 私を嵌めたのか!!」
公爵の顔が怒りで醜く歪む。監禁、傷害、そして王への反逆発言。言い逃れようのない、完全な「詰み」だ。
「……フン、よかろう」
公爵は忌々しげに吐き捨てると、持っていた杖をゆっくりと下ろした。両手を挙げ、抵抗の意志がないことを示す。
「捕らえるがいい。だが覚えておけ、カエルスの血は絶えんぞ……」
その態度は、潔い降伏に見えた。陛下が衛兵に目配せし、ノクスさんが肩をすくめて一歩近づく。
私も、張り詰めていた糸が切れ、ホッと息を吐いた。
(よかった……クラウス先生を助けられた……)
そう思って、傷だらけのクラウス先生に駆け寄ろうとした、その瞬間。
「――手に入らぬのならなぁ」
公爵の顔が、見たこともないほどの悪意に歪んだ。下ろしたはずの杖の先端が、私に向けられる。
「消えてもらおう……!!」
パシュッ!
杖の先端から、仕込まれていたナイフが射出された。バネ仕掛けによる純粋な物理攻撃。
ノクスさんも、陛下も、周りの騎士達も完全に気が抜けたこの一瞬、この近距離での不意打ちには反応が遅れる。
「あ……」
私の思考が凍りつく。ナイフの切っ先は、不気味な紫色に濡れていた。それが私の心臓へと吸い込まれるように迫る。
(これダメだ……)
――ドスッ。
鈍い音がして、私の視界が誰かの体で覆われた。ふわりと香る、懐かしいインクの匂い。
床に転がされていたはずの傷だらけの青年が、最後の力を振り絞って、私の前に飛び出したのだ。
「……ぐ、ぅ……ッ!」
私を守るように強く抱きしめた彼の背中に、深々とナイフが突き刺さっている。
「……っ!先生っ!!」
陛下が即座に公爵を拘束し、地面に縫い付ける。
けれど、クラウス先生は崩れ落ちた。傷口から溢れる血は、瞬く間にどす黒く変色していく。
「……ご無事、です、か……ゼノン令嬢……」
「なんで! 先生っ! なんで私なんかを……!」
私の問いかけに、彼は割れた眼鏡の奥で、困ったように微笑んだ。それは旅の間、私の無茶に付き合ってくれた時と同じ、優しい顔だった。
「……不思議、ですね。魔導院での出世も、家督も……全てどうでもよくなってしまった……」
「しゃべらないで!」
「……貴女との旅路で……『先生』ごっこをしていた時が……私にとって、一番、幸せな時間でした……」
彼の瞳から、光が急速に消えていく。私の腕の中で、先生の体が冷たくなっていく。
「嫌っ……嫌!!、先生……ダメっ……!」
私の絶叫が、硝子の庭に虚しく響き渡った。




