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第103話 【幕間】天秤と鎖

 ゼノン辺境伯家の客室。


 屋敷が寝静まった深夜、クラウス・フォン・ベルンシュタインは一人、執務机に向かっていた。


 部屋には、暖炉の薪が爆ぜる音と、ペンが紙を走る乾いた音だけが響いている。


 机の上には、魔導院――正確には、その背後にいるカエルス公爵へ提出するための「定期報告書」が広げられている。


「……ありのままを書けば、彼女は『兵器』として認定される。それだけは避けねばならない」


 クラウスは独りごちて、ペンを止めた。


 脳裏に浮かぶのは、この数ヶ月の旅の光景だ。


『先生!見てください、精霊が笑ってます!』


 旅の途中、無邪気にそう言って笑ったパスティエール。 


 当初、私は彼女のことを「生意気な辺境の娘」であり「監視対象」としか見ていなかった。


 魔導院の一級魔導官である私が、このような辺境任務に就かされたことへの不満。子爵家の跡取りとしてのプレッシャー。それらが私の目を曇らせていたのだ。


 だが、彼女は違った。


 クラウスが積み上げてきた緻密な魔導理論を、彼女は『歌』という名の翼で軽々と飛び越えていったのだ。


『先生の魔術は綺麗ですね。計算式みたいに整っていて』


 彼女は私の理論を否定しなかった。むしろ、私の知識を貪欲に吸収し、それを独自の『歌』へと昇華させた。


 教える立場でありながら、教えられていたのは私の方だったのかもしれない。


 精霊魔術とは、技術ではない。精霊との対話なのだと。


 そして、今夜の夕食。


 辺境伯も、夫人も、使用人たちさえも、私を一人の「仲間」として受け入れてくれた。


 派閥も、身分も関係ない。ただ、パスティエール・ゼノンという少女を愛する者たちの輪。


 その温かさは、私が王都の冷たい政争の中で忘れかけていたものだった。


 クラウスは、書きかけの報告書をくしゃりと丸め、暖炉の火へと放り込んだ。


 燃え上がる炎を見つめながら、覚悟を決める。


 不死鳥の浄化。精霊との同調。そして、獣王との同盟。


 これら全ての中心にいるパスティエールの力を、主であるカエルス公爵が知ればどうなるか。


 手段を選ばず、彼女を手中に収めようとするだろう。あのような無垢な歌声を、政治の道具にしてはならない。


 クラウスは新しい報告書を取り出し、慎重に言葉を選びながらペンを走らせた。


『……獣王国における精霊現象は、現地の特殊な磁場と精霊魔術の応用による偶発的なものであり、再現性は極めて低いと推測される。また、対象者の魔術式は未成熟であり、過度な負荷は命に関わるため、慎重な経過観察を要する……』


 虚偽の報告。


 それは、公爵家への明確な裏切り行為だ。


 もし発覚すれば、彼の実家であるベルンシュタイン子爵家は破滅するかもしれない。公爵の報復は、社会的抹殺だけに留まらないだろう。


 それでも、彼はペンを止めなかった。


 かつて「監視役」として送り込まれた自分が、今や彼女を守る「防波堤」になろうとしている。


 その変化を、彼は後悔していなかった。


 彼女の笑顔、そして何より、あの歌声が教えてくれた「心の在り方」を守りたかったからだ。


 その時。 カツン、カツン、と窓ガラスを叩く硬質な音が響いた。


 クラウスの手がピタリと止まる。


 背筋に冷たいものが走る。 恐る恐る窓を見ると、そこには闇に紛れるような黒いフクロウが止まっていた。その鋭い爪には、禍々しいほど赤い封蝋が施された手紙がくくりつけられている。


 封蝋の紋章は――カエルス公爵家。


 クラウスは震える指で窓を開け、フクロウを招き入れた。


 手紙を受け取ると、フクロウは一声鳴き、闇夜へと飛び去っていった。


 封を開く。中に入っていたのは、流麗だが冷徹な筆跡で記された、短い命令書だった。


『長旅だったようだな、遊びは終わりだ。翌月までに“成果”を連れて戻れ。』


 それだけだった。クラウスの報告が遅れていることへの叱責も、理由を問う言葉もない。ただの事務的な命令。


 だが、その下に添えられた一言が、彼の血を凍りつかせた。


『追伸:ベルンシュタイン領の徴税権を一時差し押さえた。父親によろしく伝えておけ』


「…………っ」


 クラウスの顔から、さっと血の気が引いた。


 カタリ、とペンが床に落ちてインクを撒き散らす。


 徴税権の差し押さえ。それは、ベルンシュタイン家から一切の収入を奪い、事実上の「破産」を宣告したに等しい。


 公爵は、無造作に彼の「逃げ場」を一つ潰したに過ぎない。


 恩義を感じ始めた教え子か。


 それとも、父が守ってきた家と、領民たちの命か。


 公爵は、クラウスを信用などしていなかった。


 ただ、絶対に従わざるを得ない鎖を首にかけていただけだ。


「……私は、どうすればいい……」


 喉の奥から、乾いた嗚咽が漏れる。


 窓の外では、満月が冷ややかに輝いていた。


 その月が再び満ちる時、彼は自分の中の「心」を殺し、パスティエールを闇へと引きずり出す「悪魔」にならなければならない。

 

 逃れられない絶望が、彼の魂をギリギリと締め上げていた。

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