第102話 束の間の安息
船旅を終え、魔導国の港から馬車に揺られること数週間。
車窓を流れる景色が、徐々に荒々しく、しかし見慣れた武骨な岩肌へと変わっていく。
私たちはようやく、懐かしき我が家――ゼノン辺境伯領の領都、アイアン・フォルトへと帰り着いた。
「見えた……!帰ってきたんだ……」
夕日に染まる灰色の城壁を見て、私は大きく息を吐いた。
獣王国での激闘、不死鳥の浄化、そして「侵蝕者」の影。張り詰めていた緊張の糸が、実家の姿を見た瞬間にふっと緩むのを感じた。
馬車が正門をくぐり、屋敷の車寄せに停まる。
扉が開かれると同時に、私は外へ飛び出した。
「ただいま戻りました!お父様、お母様!」
屋敷の玄関ホールに、私の声が響く。
すると、奥の執務室からドタドタという、屋敷の主らしからぬ慌ただしい足音が近づいてきて、勢いよく扉が開かれた。
「パスティ!ああ、パスティ!無事でよかった……!」
現れたのは、私の父、ライナス・ゼノン辺境伯。
普段は厳格な国境の守護者なのに、今は涙目で私に駆け寄り、力いっぱい抱きしめてきた。
「うぐっ……お父様、苦しい……」
「す、すまない!怪我はないか?痩せてないか?変な虫はついてないか!?……おいカイル!貴様、パスティに指一本触れてないだろうな!?」
「触れてませんよ!むしろ俺がこき使われて、身体中ボロボロだぜ」
カイルが呆れたようにツッコミを入れる。
父上は私を離すと、今度は頬ずりせんばかりの距離で私の顔を覗き込み、安堵のため息をついた。
「うっ……なんと……。数ヶ月見ない間に、さらに美しくなっている……。肌艶も良い、魔力も安定している。天使か?いや女神か?さすが俺の娘だ!」
「あなた、落ち着いてくださいな。パスティエールが困っておりますわ」
父上の背後から、優雅な声がかかった。
白金の髪を揺らし、ゆったりと現れたのは母上――エリアーナ・カエルス・ゼノン。
「お母様!」
「あらあら、うふふ。お帰りなさい、パスティエール。随分と逞しくなりましたわね」
母上は微笑んでいるけれど、その紫色の瞳は私の全身を一瞬で観察し、魔力の質的な変化や成長を見抜いているようだった。
「フン。ようやく戻ったか」
さらにその奥から、重低音のような声が響いた。
大広間の入口に、腕組みをして立っているのは、白髪を短く刈り込んだ巨躯の老人――祖父、ガレオス・ゼノン。かつて「不倒のガレオス」と呼ばれた、先代辺境伯だ。
「お爺様!ただいま戻りました!」
「うむ。……顔つきが変わったな。少しは『死線』をくぐってきたか」
お爺様の鋭い視線が私を射抜く。私の成長を認めてくれる、温かい厳しさだ。
「はい!お爺様に教わった組み手が役に立ちました!」
「フン。当然だ。これからもみっちり鍛えてやる」
お爺様はぶっきらぼうに言いながら、チラリとカイルを見た。
「おい小僧。貴様、少し体が鈍っておらぬか?」
「げっ……大旦那様……」
「パスティの護衛ごときで音を上げるとは、訓練が足らん証拠だ。後で鍛錬場へ来い。たっぷりと可愛がってやる」
「うへぇ……勘弁してくれよぉ……」
カイルがげんなりとした顔をする。この光景も、懐かしい我が家の日常だ。
「ただいま戻りました、皆様」
最後に、私たちの旅を支えてくれた仲間たちが一礼する。
クラウス先生、セリナ、そして護衛兵であるヘクターさんとヒルダさんだ。
「ヘクター、ヒルダ。お前たちもよくやった。娘を守ってくれたこと、礼を言う」
父上が二人に声をかけると、ヘクターさんが豪快に笑った。
「はっ!お褒めに預かり光栄であります!お嬢さまの成長を間近で見られて、俺も鼻が高いです。ま、何度か寿命が縮みかけましたがね!」
「全くだわ。隊長が猪みたいに突っ込むから、私の矢の消費量が予定の倍だったもの」
ヒルダさんがやれやれと肩をすくめる。
「おいおいヒルダ、人聞きが悪いぜ。俺はお嬢のために体を張っただけだろ?」
「はいはい、わかってますよ。……でも、お嬢様が無事で本当によかった」
ヒルダさんが私を見て、ふっと優しい笑みを浮かべた。
「ヘクターさんもヒルダさんも、本当にありがとうございます。二人がいてくれなかったら、ここまで来れませんでした」
「よしてくださいパスティエール様。私たちは、これからもゼノン領の兵士として貴方をお守りします」
「ええ。私の目は、パスティエール様の敵を決して逃しません。お約束します。」
二人の頼もしい言葉に、私は胸が熱くなった。
再会の喜びも束の間、今度は城の外からドタバタと軽い足音が近づいてきた。
亜麻色の髪を振り乱して飛び込んできたのは、ペトラだ。
「おかえりなさいパスティエール様!待ってましたよ!」
「ただいまペトラ!元気だった?」
「うん!こっちは順調だよ!前にパスティエール様が王都から持ち帰ってくれたオートマタの残骸、あれすごかったよ!」
ペトラは私の手を取ると、興奮気味にまくし立てた。
「あのパーツのおかげで、ついに『拡声魔導具』の試作機が完成したんだ!まだ調整中だけど、音の指向性を絞って、遠くまでクリアに声を届けられるようになったの!」
「へえ、すごい!さすがペトラだね」
「えへへ。パスティエール様が帰ってきたら、一番に見せたかったんだ!……あ、それとね」
ペトラは少し声を潜め、悪戯っぽく笑った。
「セリナさんが拾ったあの『赤い石』……あれ、やっぱり古代の記憶媒体みたい。まだ解析しきれてないけど、すごい情報が眠ってる気がするんだ」
「あ!その節は、ペトラ様に喜んでいただけて何よりでした!」
セリナが横から嬉しそうに口を挟む。
「あの時はゴーレムの残骸に躓いて泥だらけになりましたが……うぅ、思い出すだけで恥ずかしいです……」
「ふふ、でもそのドジのおかげですごい発見があったんだから、結果オーライだよ!」
ペトラのキラキラした瞳を見ていると、ここが私の帰る場所であり、未来を作る場所なんだと実感する。
その夜、屋敷の大広間では、私たちの無事な帰還を祝う夕食会が開かれた。
堅苦しい晩餐会ではない。父上、母上、お祖父様はもちろん、旅を共にしたクラウス先生やカイル、それにセリナも同席を許された、ゼノン家らしい賑やかな食卓だ。
食卓には、私の好物であるクリームシチューや、領地で採れた新鮮な野菜、そして山盛りの肉料理が並ぶ。
話題は、獣王国での「成果」についてだ。
「……なるほど。伝説の不死鳥が、そのような姿に」
父上は腕組みをし、真剣な表情で私の話を聞いていた。
ここからは「父」ではなく、公の顔である「辺境伯」としての会話だ。
「はい。でも、歌で浄化することができました。獣王レオニダス様とも同盟の約束を取り付けました」
「うむ。獣王国の後ろ盾を得られたことは大きい。魔導国にとっても、我が領にとってもな」
父上は満足げに頷いたが、そこで横からカイルが、肉を頬張りながら思い出したように言った。
「あ、そういえばライナス様。あの獣王のおっさん、別れ際にパスティに変なこと言ってたぜ」
その一言に、私が「あっ」と思う間もなく、カイルは悪気なく続けた。
「『うちの息子は優良物件だから、パスティエール様を嫁に寄越せ』だってさ。なんか本気っぽかったぜ?」
「な、なにィィィッ!?……どういうことだパスティ!!」
父上が食卓をバン!と叩いて立ち上がった。
「断じてやらんぞ!パスティはまだ7歳だ!というか一生嫁にはやらん!どこの馬の骨とも知れぬ……いや、王族だから馬の骨ではないが……とにかくダメだ!!」
「うふふ、あなた。そんなに興奮なさらないで。血管が切れますわよ」
母上は優雅に笑いながら、父上を宥める。
その横で、お祖父様が静かにワイングラスを傾けながら呟いた。
「フン。あの獣王か。……目は悪くないようだな。だが、ワシの孫を娶るなら、まずはワシの拳を受けて立ってみせることだ」
「お爺様、それだと誰も結婚できません……」
その微笑ましい光景に、私もカイルも、セリナも、思わず笑みをこぼした。
ふと、父上が真面目な顔に戻り、クラウス先生に向き直った。
「クラウス殿。貴殿にも、改めて礼を言わねばな。王都の魔導官でありながら、このような辺境の、それも命懸けの長旅……さぞ苦労をかけただろう」
父上の言葉には、深い感謝と、彼の立場を気遣う響きがあった。
先生は、静かにカトラリーを置き、背筋を伸ばした。
「……いいえ、辺境伯閣下。礼を言うべきは私の方です」
先生は、真っ直ぐな瞳で父上と母上を見据えた。
「当初は……恥ずかしながら、この監視にも似た任務を重荷に感じておりました。ですが……」
先生の視線が、私に向けられる。
「この旅で触れた世界は、私の魔導観を、いや人生観を変えてくれました。私は、パスティエール様の旅に同行できたことを、今では誇りに思っております」
先生の言葉に、母上が嬉しそうに目を細めた。
「あらあら。あの堅物だったクラウス殿が、随分と情熱的になられましたこと。」
「……ええ。本当に」
先生は少し顔を赤くして、照れくさそうに眼鏡の位置を直した。
身分の差や派閥の壁を超えて笑い合えるこの温かさこそが、ゼノン家の食卓だ。
しかし、私が「侵蝕者」の件を口にすると、場の空気は冷水を浴びせたように静まり返った。
「……『侵蝕者』。去年の『深淵の森』での一件、そして王都での謁見……。我々は再三にわたりその脅威を報告してきた。だが、国の中枢――特にカエルス公爵派閥は、それを『辺境伯の妄言』『子供の幻聴』として聞く耳をもたなかった」
父上が苦々しげに言うと、母上が冷ややかな手つきで紅茶のカップを置いた。
「ええ。ですが今回、魔導王直属のクロウ殿が上位精霊である不死鳥の顕現と、侵蝕者の存在を確認したこと、獣王レオニダスがその存在を認めたこと。もはや『幻聴』で片付けることは不可能ですわ」
「……つまり、国も認めざるを得なくなる?」
「そうですわ。そして、認めざるを得なくなった時……あの父はどう動くと思います?」
母上の紫色の瞳が、冷たく、鋭く光った。元・魔導卿『紅蓮』の片鱗だ。
「侵蝕者の脅威が実在するとわかれば、今度はその『対抗策』を独占しようとするでしょう。……パスティエール、あなたのことです」
背筋が寒くなった。
今までは「嘘つき」扱いされて無視されていたけれど、これからは「兵器」として狙われるということだ。
祖父であるカエルス公爵。あの冷たい蛇のような瞳が思い出される。
「パスティエール。あなたは自分の力を、正しく恐れなさい。そして、誰を信じるべきかを見極めるのです」
「はい、お母様」
その夜、私は自室のベッドに潜り込み、胸元のポルカにそっと話しかけた。
(ねえポルカ。何があっても、私の歌は誰かを傷つけるためには歌わないよ。……約束する)
ポルカは優しく明滅し、私の頬を温めてくれた。
父上、母上、カイル、ペトラ、お爺様、セリナ、ヘクターさんにヒルダさん、そしてクラウス先生。
みんながいてくれるこの場所が、私は大好きだ。
窓の外には満月が輝いていた。
私は、穏やかな安らぎの中でまどろみに落ちていった。
窓の外で鳴く虫の声が、心なしかいつもより騒がしく聞こえた気がしたけれど――今の私は、ただ深い眠りへと身を委ねた。




