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第9話 令嬢の基礎教育

 レオ兄様が王都に旅立った、その翌日から。

 私の穏やかだった日常は、嵐のように過ぎ去っていく日々へと姿を変えた。


 辺境伯令嬢としての、本格的な教育が始まったのだ。

 午前中は、家庭教師の先生から歴史、地理、算術、そして国の法律についての座学。


 私の隣には、いつも侍女のセリナが控えてくれている。

 ここで、私は自分の得意・不得意をはっきりと自覚することになった。


 算術は、驚くほど簡単だった。前世の記憶のおかげで、九九や簡単な方程式の概念まで頭に入っている。先生が出す問題を、私はまるでクイズに答えるかのように即座に解いてみせた。


 家庭教師の先生は「なんと…神童だ…」と目を丸くし、隣に立つセリナも、「パスティエール様は、本当にすごいです…!」と尊敬の眼差しを向けてくれる。けれど、これはただの知識の流用。少しだけ、ずるをしているような罪悪感があった。


 しかし、歴史の授業は全くの別物だった。

 魔導国アルカディアの歴代魔導王の名前。複雑に絡み合った大貴族の家系図。帝国との百年戦争の年表。そのどれもが、私の前世の記憶には存在しない、全く新しい知識の奔流だ。


 「ではパスティエール様、第三代魔導王のお名前は?」と聞かれても、頭が真っ白になる。「え、えーと…」と口ごもる私に、先生は深いため息をつくのだった。隣で、セリナが心配そうな顔で私を見ているのが、申し訳なかった。


 転生してから初めてぶつかった、純粋な「知識」という壁。それは、どうしようもなくもどかしく、新鮮な挫折感だった。


 午後は、母上から直々に、貴族の令嬢としての作法を学ぶ。


 ドレスを着た時の美しい歩き方、カトラリーの正しい使い方、丁寧な言葉遣い。前世ではただの日本人であった私にとって、そのどれもが窮屈で、慣れないことばかりだった。セリナがお手本としてお辞儀を見せてくれるのですが、母上の厳しい視線に緊張してしまったのか、少しだけ膝が震えているのが見えました。


 そして夕方は、父上との武術訓練の時間。セリナは、私のためにタオルと水差しを準備して、訓練場の隅で見守ってくれている。


「よし、パスティ!まずは構えからだ!」


 父上は私専用に作らせた小さな木剣を手に、手取り足取り教えてくれる。もちろん、今の私の腕力では、木剣をまともに振るうことすらできない。けれど、私には秘密兵器があった。


(…足と腰と腕に、魔力を集めて…っと)


 歩く練習をしていた時に見つけた方法。膨大な魔力を体の中で巡らせ、身体能力を底上げする。これを応用し、足腰を安定させ、腕に力を込めた。そして、父上が構える(まと)に向かって、小さな体で精一杯の突きを繰り出す。


 トン、と軽い音がして、父が持っていた的が、乾いた音を立てて宙を舞った。


「えへへー」


 内心してやったりで、私は父上に笑いかける。しかし、父上の反応は、いつもと違っていた。


「なっ!?」

 父上は、目を丸くして驚いている。それは、信じられないものを見たかのような、純粋な驚愕だった。


「今のは…まさか…。おい、パスティ。もう一度、今の突きをやってみてくれ」


 真剣な父上の表情に、私はこくりと頷き、もう一度、腕と足と腰に魔力を込めて木剣を突き出した。


 父上は、私の突きを受けるでもなく、その鋭い目で私の全身を観察している。


「…間違いない。この感覚…魔力による身体強化だ…。しかも、ごく自然に…。エリアーナ!」


 父上が叫ぶと、テラスから私たちの訓練を見ていた母上が、静かに歩み寄ってきた。


「見ておりましたわ、あなた。どうやらわたくしたちの娘は、少しばかりせっかちな天才のようですわね」


 母上はいつも通りの優雅な笑みを浮かべている。けれど、その『瞳』で視える彼女は、驚きと、そして隠しきれない歓喜で、かつてないほど激しく揺めいていた。


「ほう…面白いな」

 父上が、感心したように、そして何かを試すようににやりと笑った。

「パスティ、その力がどれほどのものか、試してみるか?セリナ!」


「は、はいっ!」

 訓練場の隅で控えていたセリナが、緊張した面持ちで駆け寄ってくる。


「お前が兵士たちに混じって、護身術の訓練に励んでいるのは知っている。ちょうど良い。パスティの相手をしろ。木剣を使い、防戦に徹せよ。攻撃は一切禁ずる」


「わ、わたくしが、パスティエール様のお相手など、滅相もございません!」


 ぶんぶんと首を振るセリナだったが、「これもパスティエールのための訓練だ」という父上の有無を言わせぬ一言に、覚悟を決めた顔で木剣を構えた。


「はじめ!」


 父上の号令と共に、私は身体強化を足に集中させ、一気に間合いを詰める。狙うはセリナの胴!


 しかし、セリナは私の突きを、読んでいたかのように半身になってかわし、木剣で的確に私の木剣を受け流した。


「くっ…!」


 私は何度も、何度も、速度と角度を変えて突きを繰り出す。けれど、セリナはその全てに対応してみせた。


「ひぃっ…!はぁっ…!」


 彼女はヒイヒイと息を切らし、必死の形相で、時には体勢を崩して転びそうになりながらも、決して防御を解かない。その動きは、お世辞にも洗練されているとは言えない。けれど、ひたすらに愚直で、粘り強い。


 やがて私の体力が先に尽きた。

「はぁ、はぁ…。もう、むり…」


 木剣を杖代わりにして、その場にへたり込む私。結局、一度も有効打を与えることはできなかった。


「そこまでだ」

 父上が、静かに試合終了を告げた。


「パスティ。お前の身体強化はその年齢にしては卓越している。だが、それだけだ。今の戦いで分かっただろう。力や速さだけでは、鍛錬を積んだ相手には届かん。これから、戦うための『技術』をみっちり教えてやる」


 父上の言葉が、悔しいけれど、すとんと胸に落ちた。


 一方、セリナもまた、その場にへたり込んでいた。


「はぁ、はぁ…。も、申し訳ございません、パスティエール様!わたくしが未熟なばかりに、お稽古のお邪魔を…!」


 そう言って謝る彼女だったが、その顔は達成感に満ちていた。


 私は、そんなセリナの姿をじっと見つめる。


(セリナ…すごい。頑張ったんだね…)


 その様子を、父上と母上が、どこか誇らしげな、温かい目で見守っていたことを、この時の私はまだ知らない。


 武術訓練での興奮も冷めやらぬまま、次はアルフレッド先生との魔術の授業の時間だ。


 アルフレッド先生はレオ兄やギル兄にも魔術を教えてくれているおじいちゃん先生だ。母上も子供の頃に家庭教師をしてもらっていたらしい。


「良いですか、パスティエール様。基礎魔術とは、全ての魔術の根幹。いわば魔術師にとっての手足です」


 先生は、一本の指を立てる。

「一つ、『身体強化』。魔力を循環させ己が肉体を鎧と成す、最も根源的な護身術です。魔力を肉体に纏わせ、筋力、敏捷性、耐久力などの身体能力を向上させる。卓越した魔術師であれば無意識で常時発動させています」


 私の『瞳』には、先生の体を常に魔力が循環し、薄く包み込んでいるのが視える。


(私もこれは得意だけど、無意識ではまだ無理だな。今日から無意識でも使えるように練習してみよう)


「二つ、『魔力付与』。その魔力を物体へと転じる技術です。手に持った武器や道具に魔力を纏わせ、攻撃力、斬れ味、耐久力を向上させます。上級者であれば、剣先から魔力の刃を伸ばすような形状変化も可能となります」


 先生はそう言うと、手に持った指示棒にすっと魔力を通す。私の『瞳』には、先生の手から指示棒へと、魔力がスムーズに浸透していくのが視えた。私も先生を真似て手に持つペンに魔力を送ろうとするが、私の魔力は頑固にも、手のひらから先へは流れない。


「三つ、『魔力障壁』。魔力を空間に固定し、盾と成す魔術。物理的または魔術的な攻撃を防ぐ防御壁を作り出します。実戦ではこのように、複数の障壁を重ねたりもします」


 先生が片手をかざすと、目の前に何枚もの半透明な魔力障壁が、四角形や円形など様々な形で展開される。「空間に魔力を固定する」と言われても、私にはちんぷんかんぷんです。


「四つ、『魔力感知』。魔力を索敵の目と成す術。自身の魔力を周囲に拡散させ、他者の存在や魔力の流れを感知します。ただし、魔力を拡散させる性質上、優れた感知能力を持つ者には自身の存在を知らせてしまう欠点もあります」


 先生が魔力を薄く、薄く、自身から円状に広げていく様子が視える。これも、私の魔力は体の外にほとんど広がらず、失敗。(でも、これは『瞳』の力で似たようなことができるかも…)


「そして五つ、『魔力放出』。魔力そのものを、最も純粋な矛と成す攻撃魔術です。単純な球形だけでなく、槍状にして貫通力を高めたりと、形状を自在に変化させることもできます」


 先生は手の上で、魔力球を猫の形に変えたり、鳥の形にして飛ばしたりして見せてくれる。けれど私には、やはり手のひらから魔力を放出しようとしても、すぐに霧散してしまうのだった。


「…ふむ。今日は初日ですし、基礎魔術の説明はこれくらいにしましょう。次回からは実際の魔力の扱いを実践方式で教えていきます。」


 アルフレッド先生は、静かにそう言った。

 はぁ…。どうやら、魔術師への道は、想像以上に長くて遠いようだ。



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