プロローグ 星を繋ぐ歌
空が、泣いていた。
大地が、恐怖に震えていた。
視界を埋め尽くすのは、地平線の彼方まで続く、どす黒い絶望。
世界を蝕む災厄――『浸食者』が撒き散らす瘴気が、重苦しい不協和音となって、戦場に立つ全ての命を押し潰そうとしていた。
さらにその足元には、瘴気に侵され、正気を失った大量の魔獣たち。全身から禍々しい紫煙を立ち上らせ、赤く充血した瞳で殺戮のみを渇望する異形の軍勢が、津波のように押し寄せてくる。
小山のごとき巨獣、空を覆い尽くす翼竜の群れ……。
それら全てが、『浸食者』の操り人形となり、私たちを喰らい尽くさんと牙を剥いているのだ。
魔導国の誇る魔導兵団も、精霊魔術が得意なエルフの魔術師団も、大盾を構えたドワーフの重装歩兵団も、地を駆ける獣人の遊撃部隊も。種族の壁を越えて結集したはずの連合軍が、圧倒的な「数」の暴力の前に、今まさに崩れ去ろうとしていた。
「……まだ…」
私は、瓦礫の山となった城壁の頂きで、膝をつきそうになる体を必死に支えていた。
ふわりと波打つパステルピンクの髪は煤と土に汚れ、かつては輝いていたお気に入りのステージドレスもボロボロだ。それでも、私の瑠璃色の瞳だけは、決して光を失っていなかった。
けれど、喉は枯れかけ、魔力も底をつきそうだ。
その時。私の胸元から、眩い光と共に、頼もしい声が響いた。
《パスティ!顔を上げて!君が諦めない限り、僕がビートを刻むよ!》
光の中から飛び出したのは、美しい光の翼を持った音の精霊――ポルカ。
彼は私の周りをくるりと回ると、自身の体を激しく明滅させ、戦場全体に響くような力強い重低音を刻み始めた。
『――響鳴拡声!!』
ズン!ズン!ズン!
ポルカが刻む心臓の鼓動のようなリズムが、枯れかけた私の声を拾い上げ、何倍にも増幅して大気へと拡散させる。
ありがとう、ポルカ。あなたのビートが、私に歌う力をくれる。
「パ、パスティ…!」
背中合わせに立つ少女が、震える声で私の愛称を呼んだ。
夜空に浮かぶ月のように透き通った金髪のツインテールを風になびかせ、今にも泣き出しそうな、けれど誰よりも熱い情熱を秘めた瞳を持つ、私の最高の相棒。
彼女の手が、私の震える手に重ねられる。その手は冷たく、小刻みに震えていたけれど、私を握り返す力は強かった。
「だ、大丈夫…。私たちの歌なら、きっと…!」
「ええ、ルナ。……行きましょう」
彼女は、極度のあがり症で、人前に立つのが大の苦手だ。今だって、きっと逃げ出したいくらい怖いはず。
それでも彼女は、私の隣に立つことを選んでくれた。
「は、はいっ…!届かせましょう…!この、悲しい『声』を終わらせるための…私たちの、歌を!」
パステルピンクと、月のような金。
煌めく二人の髪が、戦場の風に混じり合う。
私たちが覚悟を決めた、その瞬間。
私たちの左右から、頼もしい影たちが飛び出した。
「雑魚が、歌の邪魔をするんじゃねえ!」
黒き疾風のごとき速度で突っ込んできたのは、精悍な褐色の剣士――カイル。
彼の一閃が、私たちに群がろうとしていた魔獣を瞬時に薙ぎ払う。
「背中は任せてください、パスティエール様!害なす者は、私が滅します!」
私の背後を守るのは、私の侍女――セリナ。
彼女は短剣を構えながら、雷の精霊魔術の詠唱を、完璧な速度で紡ぎ上げる。
「――ウトイケキ・イアライリス・イダストオィアット!エクナアムザ・イカタエサ!アガウイケトエツ・オクネスエリサ!」
バリリリリリッッッッ!!
彼女の掌から放たれた凄まじい蒼き雷光が、背後から忍び寄っていた大型魔獣を一撃で貫き、消し炭に変えた。
「全く…このような殺風景な場所しか用意出来ないとは、従者の恥です」
呆れたような、けれど深みのあるバリトンボイスが響く。
瓦礫の上に優雅に降り立ったのは、燕尾服を完璧に着こなした、紫紺の肌と銀髪を持つ長身のダークエルフ――リディアン。
彼は一礼すると、指揮棒のように指を振るい、木の精霊魔術を詠唱した。
「――ロケンウコムイリス・イダストオィアット!ナークアンイアーツ・イカタエサ!アトエミトミサ・ウカユルカ!」
ゴゴゴゴ…ッ!
瓦礫の隙間から太い木の根と蔦が急速に伸び上がり、瞬く間に絡み合って、美しい花が咲き誇る。荒れた戦場に、木と花で作られた即席のステージが誕生する。
「さあ、お嬢様方。ステージの準備は整いました」
リディアンは優雅に一礼すると、背中から愛用のリュートを取り出し、ポルカのビートに合わせて、情熱的かつ繊細な旋律を奏で始めた。
頭上の空からは、気怠げな声が降ってくる。
「カァ…ったく。相変わらず人使いが荒いこって」
戦場を飛び交い、空の魔獣の間を縫うように飛翔する黒い影――カラスの頭と黒い翼を持つ鳥獣人、クロウだ。
彼は風の精霊魔術で浮遊させた巨大な機械ユニットを、戦場全体を見渡せる遥か上空のポイントに配置する。
「よし、スクリーン・ユニット、配置完了!ここなら特等席だぜ!」
それと同時に、私のすぐ側で、複雑な魔導機器を操作していた小柄な影が、バッと顔を上げた。
「ナイス、クロウ!リンク接続、感度良好!」
私の親友であり、ハーフドワーフで最高の技術者――ペトラだ。
彼女はニカっと笑ってレバーを引く。「水と光の複合精霊魔術――《空中投影装置》、起動!」
ズンッ!という重低音と共に、戦場の上空、四方八方に巨大な水のスクリーンが展開される。
そこには、光の魔術で鮮明に映し出された、私たちの姿が戦場の隅々にまで投影されたのだ!
舞台は、完璧に整った。
私はルナの顔を見て頷く。
ポルカのビートとリディアンのリュートに乗せて、私が紡ぐのは、全てを包み込む太陽のような「慈愛」の旋律。
ルナが紡ぐのは、全てを貫く月光のような「清浄」の旋律。
『――いま、星々の鼓動を重ねて――』
《共鳴》
二人の歌声が溶け合い、幾何級数的に魔力を増幅させながら、世界に響き渡る!
その歌声に呼応するように、戦場の大地から、風から、水から、無数の小さな精霊たちが光の粒となって舞い上がり、私たちの周りで踊り始めた。世界そのものが、私たちの歌を応援してくれている。
その歌声が戦場に満ちた瞬間。
それまで怒涛の勢いで押し寄せていた魔獣の軍勢に、異変が起きた。
「ギャァァァァッ……!?」
「グルルルッ……!」
私たちの歌声に含まれる清浄な魔力が波紋となって広がると、瘴気に汚染された魔獣たちが、まるで灼熱の光を浴びたかのように苦悶の声を上げ、たじろいだのだ!
赤く充血していた瞳が揺らぎ、統率を失って互いにぶつかり合い、その歩みがピタリと止まる。
最前線で絶望にのまれていた兵士たちが、空を見上げる。
歌声はポルカの魔術とペトラの技術によって増幅され、戦場の全ての兵士の耳元へ、心へ、直接語りかけるように響き渡る。
「な、なんだ…!?体が、軽い…!?」
「恐怖が…消えていく…」
「聞こえるか!歌姫たちの歌だ!」
光の波紋が広がるにつれ、膝をついていた兵士たちが、次々と顔を上げ上空のスクリーンに目を向ける。
その瞳に、再び闘志の炎が灯るのが、私の『瞳』にはっきりと視えた。
でも、まだ足りない。
あの巨大な絶望を押し返すには、私たち二人だけの声じゃ、まだ小さい。
「みんな!お願い!私たちに力を貸して!」
私はありったけの想いを込めて叫んだ。
「あれは我らが辺境の希望、『辺境の歌姫』だ!」
古びた鎧を纏った老兵が叫ぶ。
「港町サザンを救った女神だ!俺たちはまだ戦えるぞ!」
傷ついた騎士が剣を握り直す。
「…この歌は、魔力が乗っているのか」
焦燥しきった顔のダークエルフが立ち上がる。
「あのいつも珍妙な発明を持ってくる嬢ちゃんじゃねえか!」
ドワーフ達の顔に笑みが浮かぶ。
「あれが…獣王のお気に入りか」
顔に大きな傷を携えた、白虎の獣人はスクリーンを見つめる。
「学園の『双星』だ!我らも続け!」
学園の皆が奮起する。
私がこれまでの旅で出会い、絆を結んできた万人を超える人々が、種族を越えて、一つの歌の下に心を重ねていく。
盾を叩く音、剣を振るう音、魔術の爆裂音、そして数万の兵士たちの鬨の声!
それら全てが、私たちの歌に重なり、一つの巨大な奔流となって、『浸食者』へと襲いかかる!
私は、震える手をぎゅっと握りしめ、高らかに宣言した。
「さあ、希望を、紡ぎましょう!」
これはもう、ただの戦いじゃない。
これは、私たちが奏でる、世界で一番熱くて、激しい――
「「「魂の輝きだぁぁぁぁぁっ!!!!」」」
光の奔流が、闇を飲み込んだ。
――これは、歌うことしか取り柄のなかった私が、たくさんの仲間と出会い、絆を結び、やがて世界中にその歌声を響かせることになる、愛と、奇跡と、ちょっとした「推し活」の物語。
さあ、幕を開けましょう。 私の、新しい人生を。




