第96話 ワクチンの挑戦と新たな脅威
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婚約発表から二週間——リーゼは、ワクチン研究に没頭していた。
ルーカス先輩が報告した。「牛痘の培養、順調です」
研究室のテーブルには、牛の膿疱から採取した牛痘ウイルスの培養液が並んでいた。
リーゼは、顕微鏡で液体を確認した。「良いわね」
ウイルスは、細菌よりもはるかに小さい。リーゼの顕微鏡では見ることができない——光の波長よりも小さな存在だから。でも、前世の知識から、その存在を確信している。培養液の中に、確かにウイルスが存在しているはずだ。
リーゼは言った。「次は、安全性の確認ね。まず、動物実験から始めましょう」
◇
前世の知識——ジェンナーの牛痘接種法。一七九六年、エドワード・ジェンナーは、牛痘に感染した乳搾り女性が天然痘にかからないことに気づいた。そして、牛痘の膿を健康な少年に接種し、その少年が天然痘に対する免疫を獲得したことを証明した。この発見が、ワクチンの始まりだった。
リーゼは、同じ道を辿ろうとしていた。でも——より慎重に、より科学的に。
◇
動物実験——リーゼは、十匹のマウスを二つのグループに分けた。グループA——牛痘ワクチンを接種する。グループB——何も接種しない(対照群)。
まず、グループAのマウスに、牛痘液を皮膚に接種した。針で軽く傷をつけ、そこに牛痘液を塗る。
リーゼは、マウスの状態を毎日記録した。「これで、一週間様子を見ます」
一日目——接種部位に、軽い発赤。三日目——小さな水疱ができた。五日目——水疱がかさぶたになった。七日目——かさぶたが取れた。
マウスは、元気だった。食欲も正常、活動も活発。
「副作用は、ほとんどないわね」とリーゼは安堵した。
「では、次の段階です」
◇
次は——実際に天然痘ウイルスに対する免疫ができているか、確認する必要があった。
でも——リーゼは、ここで問題に直面した。天然痘ウイルスを、どうやって入手するか?
現在、王都では天然痘の流行はない。患者もいない。
「先生」とエリーゼが提案した。「南部地方では、時々天然痘が発生すると聞きました」
「そうね……」とリーゼは考え込んだ。
「でも、天然痘ウイルスを持ち帰るのは危険すぎる。もし途中で漏れたら、王都で流行が起きてしまう」
「では、どうしますか?」
リーゼは決断した。「今は、動物での安全性確認まで。人への接種は——実際に天然痘の流行が起きた時に行いましょう」
「分かりました」
◇
その日の午後——リーゼは、微生物学講座の講義をしていた。
彼女は黒板に図を描いた。「ワクチンとは——病原体の弱毒株や、類似の病原体を接種することで、体に免疫を作らせる技術です」
学生たちが、熱心にメモを取る。
「例えば、牛痘ウイルスは、天然痘ウイルスと似ています。でも、人には軽い症状しか起こしません」
「牛痘を接種すれば——」とリーゼは続けた。「体は『天然痘のようなもの』と認識して、免疫を作ります」
「その免疫が、本物の天然痘にも効くんです」
「すごい……」と学生の一人が感嘆した。「病気を使って、病気を防ぐんですね」
「その通りです」とリーゼは微笑んだ。
◇
講義の後——
「リーゼ先生!」と医学院の職員が、慌てて駆け込んできた。「大変です!」
「どうしたの?」
「王都の東地区で——」と職員は息を切らしながら言った。「原因不明の病気が発生しています!」
「原因不明の……?」
「高熱、全身の発疹、そして——」と職員は恐ろしそうに続けた。「痙攣を起こす患者が出ています」
リーゼの表情が、険しくなった。
「すぐに行きます」
◇
東地区——リーゼが到着すると、臨時診療所は患者で溢れていた。
「先生!」と現地の医師が、リーゼを迎えた。「助けてください。もう、手に負えません」
リーゼは、患者たちを見て回った。
ベッドに横たわる人々——高熱で顔を真っ赤にしている。全身に、赤い発疹が広がっている。そして——
「うっ……うっ……!」と一人の患者が、突然痙攣を始めた。
体が硬直し、四肢がガクガクと震える。
「抑えて!」とリーゼは看護師に指示した。
患者が舌を噛まないよう、柔らかい布を口に入れる。体を横向きにして、気道を確保する。
数十秒後——痙攣が収まった。
患者は、ぐったりとしている。
「これは……」とリーゼは、患者の症状を観察した。
高熱——四十度以上。発疹——全身に広がる、赤く盛り上がった斑点。痙攣——脳への影響を示唆している。
「天然痘……?」
いや、違う。天然痘の発疹は、膿疱になる。でも、この患者の発疹は——ただの赤い斑点だ。
「麻疹……?」
それも違う。麻疹で痙攣は、あまり起こらない。
「一体、何の病気……?」
◇
リーゼは、患者の血液を採取した。そして、携帯用顕微鏡で観察する。
血液中には——異常な数の白血球。
炎症反応が、非常に強い。
「重度の感染症……」とリーゼは呟いた。
でも、何の病原体かは——この顕微鏡では特定できない。
「先生」と現地の医師が尋ねた。「何人くらい、発症していますか?」
「今のところ——」と医師は書類を確認した。「三十名です」
「三十名……」とリーゼは考え込んだ。
「全員、この地区の住民ですか?」
「はい」と医師は頷いた。「しかも、ほとんどが同じ井戸の水を使っている家族です」
「井戸……」とリーゼの目が、鋭くなった。
「その井戸を、見せてください」
◇
井戸——リーゼは、井戸を覗き込んだ。
深い穴の底に、水が溜まっている。
「水を汲んでください」とリーゼは指示した。
バケツで水を汲み上げる。リーゼは、その水を小瓶に入れた。そして、顕微鏡で観察する。
「……これは」
視野の中には——無数の微生物が蠢いていた。でも、ただの微生物ではない。形が——奇妙だった。細長く、鞭毛を持ち、激しく動き回っている。
「これは……スピロヘータ……?」
いや、違う。もっと大きい。
リーゼは、前世の記憶を必死に辿った。
(高熱、発疹、痙攣——。水を介して感染——。スピロヘータに似た形状——)
そして——
「レプトスピラ……!」とリーゼは、病原体を特定した。
◇
レプトスピラ症——前世では、ワイル病とも呼ばれていた。
ネズミなどの動物の尿に含まれるレプトスピラ菌が、水を介して人に感染する。
症状は——高熱、筋肉痛、発疹。重症化すると、肝臓や腎臓が障害され、脳炎を起こして痙攣する。
致死率は——適切な治療がなければ、十パーセント以上。
「これは……大変なことになる……」とリーゼは焦った。
レプトスピラ症の治療には——抗生物質が必要だ。ペニシリンが効く。
「すぐに、ペニシリンを用意して!」とリーゼは、現地の医師に指示した。
◇
でも——リーゼの心には、疑問があった。
(なぜ、今このタイミングで……?)
レプトスピラ症は、珍しい病気ではない。でも、突然三十名も発症するのは——異常だ。しかも、噂騒動の直後——
(まさか……これも、誰かが意図的に……?)とリーゼは、恐ろしい可能性を考えた。
◇
その時——
「先生!」とアレクサンダー王子が、駆けつけてきた。
「殿下……」
「噂を聞いて、心配で来た」と王子は、リーゼの無事を確認して安堵した。
「大丈夫です」とリーゼは微笑んだ。「病気は特定できました」
「何の病気だ?」
「レプトスピラ症です」とリーゼは説明した。「水を介して感染する病気です」
「治療法は?」
「ペニシリンが効きます」とリーゼは答えた。「幸い、試験生産が成功したばかりです」
「では、すぐに投与を——」
「はい」とリーゼは頷いた。
でも——
「殿下」と彼女は真剣な表情で言った。「この感染、おかしいんです」
「おかしい……?」
「突然、三十名も発症するのは異常です」とリーゼは続けた。「しかも、一つの井戸を使う家族だけ」
「まるで——」と王子の表情が、険しくなった。
「意図的に、井戸を汚染したかのような……」
「はい」とリーゼは頷いた。「調査が必要です」
◇
王子は、すぐに近衛隊を派遣した。井戸の周辺を調査し——異常がないか確認する。
そして——数時間後。
「殿下、これを」と近衛兵が、何かを持ってきた。
それは——井戸の近くの茂みに捨てられていた、小さな袋。袋の中には——動物の死骸が詰め込まれていた。腐敗が進み、悪臭を放っている。
「これは……ネズミの死骸……」とリーゼは、袋を顕微鏡で確認した。
ネズミの尿——その中に、レプトスピラ菌がいた。
「やはり……」とリーゼは唇を噛んだ。「誰かが、意図的に井戸を汚染した」
王子の顔が、怒りで歪んだ。
「許せん……人々を病気にするために、わざと病原体を撒くなど——」
◇
「犯人を、見つけ出せ」と王子は、近衛隊長に命じた。「必ず、捕らえろ」
「はっ!」
リーゼは——医師として、怒りと悲しみを感じていた。
医学は、人を救うためにある。でも、誰かが——医学の知識を悪用し、人々を傷つけている。
(許せない……)とリーゼは拳を握りしめた。
◇
でも——今は、怒りに囚われている場合ではない。患者たちを、救わなければならない。
「ペニシリンを投与します」
リーゼは、患者一人ひとりに、ペニシリンを注射した。高熱で苦しむ患者——痙攣を起こした患者——全員に、希望の薬を届ける。
「大丈夫です」とリーゼは、患者に優しく声をかけた。「必ず、治ります」
◇
二十四時間後——患者たちの容態が、劇的に改善し始めた。
高熱が下がり——発疹が薄くなり——痙攣も止まった。
「先生……ありがとうございます……」と患者たちが、涙を流しながら感謝した。
「良かった……」とリーゼも、涙が出そうになった。
三十名の患者——全員、回復に向かっている。死者は、一人も出なかった。
◇
一週間後——近衛隊の調査で、犯人が特定された。
「教会の下級神父でした」と隊長が報告した。
「尋問したところ——『リーゼ・フォン・ハイムダルの評判を落とすため』に、意図的に病気を発生させたと」
「教会……」と王子は、怒りを抑えきれなかった。「また、教会か」
「はい」と隊長は続けた。「神父は、『新しい枢機卿の指示だった』と証言しています」
「ハインリヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク枢機卿ですね」とリーゼは、冷静に言った。
「前任者のギースリング枢機卿が投獄された後——新しく就任した枢機卿です」
「逮捕しろ」と王子が命じた。
「証拠はあるのか?」
「神父の証言と——」と隊長は書類を示した。
「枢機卿の屋敷から押収した、指示書です」
「十分だ」と王子は頷いた。「すぐに、逮捕状を取れ」
◇
その夜——リーゼは、研究室で一人、考え込んでいた。
教会の妨害——それは、まだ終わらない。ギースリング枢機卿を投獄しても——バルタザール神父を捕らえても——次々と、新しい敵が現れる。
(いつまで、この戦いは続くのだろう……)とリーゼは、疲れを感じた。
コンコン。ノックの音。
「はい?」
「私よ」とエリーゼが入ってきた。「リーゼ、大丈夫?」
「ええ……」とリーゼは微笑んだ。
でも、その笑顔は——少し疲れていた。
「無理しないでね」とエリーゼは、親友の肩を抱いた。「あなた、頑張りすぎよ」
「でも……」
「でも、じゃないわ」とエリーゼは優しく言った。「あなたは、十分頑張ってる。患者さんたちを全員救った。それだけで、十分よ」
リーゼの目に、涙が浮かんだ。
「ありがとう、エリーゼ……」
二人は、抱き合った。
◇
翌朝——ハインリヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク枢機卿が、逮捕された。
罪状——意図的な感染症発生、殺人未遂、公共の安全への脅威。
教会本部は、大きく揺れた。でも——国王の決断は、揺るぎなかった。
「教会といえども、法の上にはない」と国王は宣言した。「犯罪を犯した者は、聖職者であろうと裁かれる」
◇
リーゼは——再び、日常に戻った。
研究室で、ワクチン開発を続ける。ペニシリンの量産体制を整える。改良株ストレプトマイシン工場を視察する。講義で、学生たちに教える。そして——婚約者として、アレクサンダーと共に未来を考える。
忙しい日々——でも、充実した日々。
◇
ある日——リーゼは、ワクチン研究チームと会議をしていた。
「牛痘ワクチンの安全性は、確認できました」とルーカス先輩が報告した。「動物実験では、副作用はほとんどありませんでした」
「良いわね」とリーゼは頷いた。「では、次の段階——」
「人体実験……ですか?」と若い研究者が、緊張した顔で尋ねた。
「はい」とリーゼは答えた。「でも、慎重に進めましょう」
「まず、志願者を募ります。そして、完全な説明と同意を得てから接種します」
「分かりました」
「それから——」とリーゼは続けた。「最初の被験者は——」
彼女は、決意を込めて言った。「私自身です」
「え!?」と研究者たちが驚いた。「先生、それは危険すぎます!」
「いいえ」とリーゼは首を振った。「私が、まず自分で試す。それが、医師としての責任です」
「人に勧める前に、自分で安全性を確認する。それが、正しい道だと思います」
研究者たちは——リーゼの覚悟に、言葉を失った。
◇
その計画を聞いて——アレクサンダー王子が、反対した。
「リーゼ、それは危険すぎる」
「でも、殿下——」
「もし、何かあったら……」と王子は、リーゼの手を握った。「私は、お前を失いたくない」
リーゼは、王子の目を見つめた。
「殿下」と彼女は優しく言った。「私は、医師です。人を救うために、リスクを取ることもあります」
「でも——」
「大丈夫です」とリーゼは微笑んだ。「動物実験で、安全性は確認済みです。牛痘は、人には軽い症状しか起こしません」
「それに——」と彼女は続けた。「もし私が接種を受けて、何も問題がなければ——人々は、このワクチンを信頼してくれます」
「それが、一番大切なことです」
王子は——リーゼの強い意志に、ため息をついた。
「分かった……」と彼は頷いた。「でも、私も立ち会う。何かあったら、すぐに治療できるように」
「はい」とリーゼは微笑んだ。「ありがとうございます、殿下」
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一週間後——リーゼは、研究室で牛痘ワクチンの接種を受けた。
アレクサンダー王子、エリーゼ、ルーカス先輩、そして医学アカデミーの医師たちが立ち会った。
「では、接種します」とルーカス先輩が、慎重にリーゼの腕に牛痘液を塗った。
針で軽く皮膚を傷つけ——そこに、ワクチンを刷り込む。
「……完了しました」
リーゼは、腕を見つめた。小さな傷——そこから、人類を救う免疫が生まれる。
「これで、一週間様子を見ます」とリーゼは宣言した。
王子は、心配そうに見守っていた。
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一日目——接種部位に、軽い発赤。二日目——少し腫れてきた。三日目——小さな水疱ができた。四日目——微熱——三十七度。
「気分はどうだ?」と王子が尋ねた。
「大丈夫です」とリーゼは微笑んだ。「これは、予想通りの反応です」
五日目——水疱がかさぶたになった。六日目——熱が下がった。七日目——かさぶたが取れた。
「成功です」とリーゼは宣言した。「牛痘ワクチンは、人体に安全です」
研究室に、歓声が上がった。
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リーゼは——また一つ、医学を前に進めた。
抗生物質——ペニシリンと改良株ストレプトマイシン。そして今、ワクチン——牛痘。次々と、新しい技術を確立していく。
でも、その道は——決して平坦ではなかった。妨害、陰謀、攻撃——リーゼを陥れようとする者たちは、後を絶たない。
でも——リーゼには、負けない理由がある。人を救うという使命。信頼できる仲間たち。そして、愛する人。
(私は、戦い続ける)とリーゼは決意した。(どんな困難があっても——この世界の医学を、前に進める)
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