第95話 婚約発表と暗躍する影
◇
婚約発表の日——王宮大広間は、華やかに飾り付けられていた。
天井から吊るされたシャンデリアが、無数の光を放ち、壁には王家の紋章を刺繍した豪華なタペストリー、床には深紅の絨毯が敷き詰められている。そして——三百名を超える貴族たちが、整然と並んでいた。
リーゼは、控室で最後の準備をしていた。
エリーゼが、リーゼのドレスの裾を整えながら尋ねた。「緊張してる?」
「もちろん」とリーゼは正直に答えた。
鏡に映る自分——白と金の刺繍が施された豪華なドレス、丁寧に結い上げられた髪に小さな真珠の飾りが散りばめられている。いつもの白衣姿とは、まるで別人だ。
エリーゼは微笑んだ。「でも、大丈夫よ。あなたは、もっと大勢の前で講演してきたじゃない」
「あれは医学の話だから……」
エリーゼは、親友の肩を抱いた。「今日も同じよ。あなたが、愛する人と未来を誓う——それを、みんなに見せるだけ」
リーゼは、深呼吸した。「そうね……」
コンコン——扉がノックされた。
「どうぞ」とリーゼが答えると、扉が開いた。そこには——母アンネ、兄エーリヒ、そしてマルタが立っていた。
「お母様! お兄様! マルタ!」
「リーゼ……」と母が、目を潤ませて近づいてきた。
「美しいわ……本当に美しい」
「お母様……」
「あなたが、こんなに立派になって」と母が私の手を取った。「十歳で医学の道を志し、今日、王家に迎えられる」「お父様も、きっと誇らしく思っているわ」
「お父様も来てくださっているんですか?」
「もちろんよ」と母が微笑んだ。「会場で、あなたを見守っているわ」
「緊張してるか?」と兄が優しく尋ねた。
「……はい」
「大丈夫だ」と兄が私の頭をポンと叩いた。「お前は、もっと困難な状況を乗り越えてきた」「結核の治療、疫病との戦い、工場の建設——」「婚約発表なんて、簡単なもんだろ」
「お兄様……」
兄が笑った。「それに、アレクサンダー王子は、いい人だ。お前を大切にしてくれる。俺が確かめた」
「確かめた……?」
兄が真面目な顔で頷いた。「ああ。先週、王子と二人で話をした。『リーゼを泣かせたら、俺が黙っていない』と伝えた」
「お兄様!」
「王子は笑って、『当然です』と答えてくれたよ。いい人だ。安心して嫁げ」
マルタが、ハンカチで涙を拭いていた。
「リーゼ様……」
「マルタ」
マルタが震える声で言った。「あなたを、赤ん坊の頃から育ててきました。十歳の時、高熱で倒れて——目を覚ましたとき、まるで別人のように賢くなっていて。最初は驚きましたが……でも、あなたは変わらず優しい子でした。そして、こんなに立派に成長されて……」
「マルタ……ありがとう」と私はマルタを抱きしめた。「あなたたちがいてくれたから、私は頑張れました」
エリーゼも、目に涙を浮かべていた。
コンコン——再び扉がノックされた。
「リーゼ様、本当にお時間です」と侍女の声。
「行きなさい」と母が背中を押してくれた。「あなたの幸せを、みんなが待っているわ」
「はい!」
私は深呼吸して、扉に向かった。
「行きましょう」とエリーゼが、私の手を握った。
◇
大広間——リーゼが入場すると、会場が静まり返った。
三百を超える視線が、一斉に彼女に注がれる。
中には、温かい視線もある。でも、冷たい視線も——確かにある。
リーゼは、背筋を伸ばして歩いた。
演台の前には——アレクサンダー王子が立っていた。
黒と金の礼装に身を包んだ王子は、凛々しく、そして優しい目でリーゼを見つめていた。
リーゼが王子の隣に立つと——国王ハインリヒ四世が、玉座から立ち上がった。
「本日——」と国王の声が、大広間に響いた。
「我が息子、アレクサンダー・フォン・アーレンスベルクと——」「リーゼ・フォン・ハイムダルの婚約を、ここに発表する」
拍手が起こった。でも、その拍手には温度差があった——ある者は心から祝福し、ある者は義務的に、そしてある者は渋々と——
国王が、リーゼを見た。「リーゼ・フォン・ハイムダル。そなたは、優れた医師として、多くの命を救ってきた。結核を征服し、ペストを治療し、この国の医学を大きく前進させた」
国王は続けた。「その功績を讃え——そなたを、『リーゼ・フォン・ハイムダル辺境伯令嬢』として、正式に宮廷に迎える」
侍従が、羊皮紙に書かれた証書を持ってきた。
リーゼは、深々と頭を下げた。「恐れ入ります、陛下」
国王は微笑んだ。「顔を上げよ。そなたは、すでにハイムダル辺境伯家の誇り高き令嬢。そして、王家の一員となる資格を持っている。その才能と、その心で——」
リーゼは、感動で涙が出そうになった。
◇
そして——アレクサンダー王子が、前に進み出て、リーゼの手を取った。
王子の声が、会場に響く。「リーゼ・フォン・ハイムダル。私は、あなたを愛しています」
会場が、息を呑んだ。
王子は、リーゼの目を見つめた。「あなたの知性、あなたの優しさ、あなたの強さ——すべてが、私を惹きつけます。どんな困難があっても、私はあなたを守ります。そして、あなたと共に、この国の未来を築きたい」
リーゼの目から、涙がこぼれた。
「殿下……」
「リーゼ、私の妃になってください」
王子が、片膝をついた。そして、小さな箱を開けた。
中には——シンプルだが美しい、金の指輪。
「はい」とリーゼは、震える声で答えた。「喜んで、殿下の妃になります」
王子は、リーゼの指に指輪をはめた。そして——立ち上がり、リーゼを抱きしめた。
会場が、大きな拍手に包まれた。
祝福の声——でも、その中には、複雑な表情をする貴族もいた。
◇
式典の後——祝宴が開かれた。
リーゼとアレクサンダーは、貴族たちに挨拶して回った。
「おめでとうございます、王子殿下」「リーゼ様、素晴らしいお医者様と伺っております」
多くの貴族が、表面的には祝福の言葉を述べた。
でも——リーゼは感じていた。一部の貴族たちの、冷たい視線を。
「平民が、王族に……」「まあ、時代も変わったものね」「でも、本当に妃としてふさわしいのかしら」
小声での囁き——リーゼの耳には、はっきりと聞こえていた。
王子が、リーゼの手を握った。「気にするな。彼らは、古い考えに縛られているだけだ」
「はい」とリーゼは微笑んだ。
でも、心の中では不安が渦巻いていた。
◇
その夜——リーゼが宿舎に戻ると、エリーゼが待っていた。
「お疲れ様、リーゼ」
「ただいま、エリーゼ」とリーゼは、ドレスを脱ぎ、いつもの服に着替えた。
エリーゼは微笑んだ。「式典、素敵だったわ。王子様の愛の告白、感動的だった」
「うん……」とリーゼは、指輪を見つめた。金色に輝く指輪——王子の愛の証。
エリーゼが、真剣な表情で言った。「でも、これからが大変ね。反対派は、黙っていないでしょう」
リーゼは頷いた。「分かってる。でも、私には医師としての仕事がある。それが、私の本質だから」
◇
翌日——王都中に、婚約のニュースが広がった。
街角では——「アレクサンダー王子様が、婚約されたそうだ」「相手は、あのリーゼ先生だって」「素晴らしいじゃないか!」
民衆は、概ね好意的だった。「平民でも、実力があれば王族と結婚できる」「これこそ、真の実力主義だ」「リーゼ先生は、結核を治してくれた恩人だからな」
街中が、祝福ムードに包まれていた。でも——その裏では、不穏な動きが始まっていた。
◇
街の酒場——数名の男たちが、小声で話していた。
「計画通りだ」と一人が言った。「明日から、噂を流す」「改良株ストレプトマイシンには、恐ろしい副作用がある、とな」
別の男が頷いた。
「どんな副作用だと?」
「聴覚障害、腎臓機能低下——」と最初の男が答えた。「これらは、実際に改良株ストレプトマイシンが持つ副作用だ」
「ただし——」と彼は冷たく微笑んだ。「その頻度と程度を、大げさに伝える」「『投与された患者の半数が、耳が聞こえなくなった』とか」「『腎臓が壊れて、死にかけた』とか」
男たちが、邪悪な笑いを浮かべた。
「完全な嘘ではないから、信じられやすい」
「そして、リーゼ・フォン・ハイムダルの評判が落ちる」「王族の妃としてふさわしくない、という世論が形成される」「完璧な計画だ」
◇
三日後——リーゼは、研究室で異変に気づいた。
「先生」とエルヴィンが、困惑した表情で入ってきた。「改良株ストレプトマイシン工場に、苦情が殺到しています」
「苦情……?」
「はい」とエルヴィンは、書類を見せた。「『薬を飲んだら、耳が聞こえなくなった』」「『腎臓が悪くなった』」「『体調が悪化した』」
リーゼは、書類を読んで眉をひそめた。
「これは……」
「実際に、そういう患者さんがいるんでしょうか?」とエルヴィンが尋ねた。
リーゼは正直に答えた。「改良株ストレプトマイシンには、確かに副作用がある。聴覚障害と腎機能低下——これは既知の副作用よ」
彼女は続けた。「でも——頻度は低いし、投与量を適切に管理すれば防げる。それに、臨床試験でも、量産後の症例でも——重篤な副作用は、ほとんど報告されていないわ」
「では、この苦情は……?」
リーゼは立ち上がった。「確認する必要があるわね。実際に患者さんたちに会いましょう」
◇
王立医学アカデミー付属病院——リーゼは、改良株ストレプトマイシンを投与された患者たちのカルテを確認した。
過去三ヶ月で約五百名の患者が、改良株ストレプトマイシンによる治療を受けていた。その中で、聴覚障害を訴えた患者——三名、腎機能低下が見られた患者——五名、合計八名。
「八名……」とリーゼは、数字を確認した。「五百名中、八名。頻度は、約一・六パーセント」
これは、前世の知識と一致する。改良株ストレプトマイシンの副作用発生率は、適切な投与量なら一〜二パーセント程度だ。
リーゼは、カルテを詳しく読んだ。「しかも——八名全員、軽度の症状。聴覚は、投薬中止後に回復。腎機能も、経過観察で改善」
つまり、深刻な問題は一件もなかった。
リーゼは考え込んだ。「では、噂はどこから……?」
◇
その時——看護師が駆け込んできた。「先生! 大変です!」
「どうしたの?」
看護師は息を切らしながら言った。「街で、リーゼ先生の悪い噂が広がっています! 『改良株ストレプトマイシンを飲んだ患者が、次々と耳が聞こえなくなっている』『王都の半分の患者が、副作用で苦しんでいる』」
「そんな……!」とリーゼは愕然とした。
エルヴィンが怒りで叫んだ。「完全な嘘じゃないですか!」
リーゼは、冷静さを保とうとした。「落ち着いて」「まず、事実を確認しましょう」「街に行って、実際に何が起きているのか見てくる」
◇
王都の市場——リーゼが到着すると、人々が集まって話していた。
「聞いたか? 改良株ストレプトマイシンとかいう薬、危険らしいぞ」「ああ、飲んだら耳が聞こえなくなるんだって」「リーゼ先生が作った薬だろ?」「怖いな……」
リーゼは、胸が痛んだ。自分が命をかけて開発した薬が——人々に恐れられている。
「あの……」とリーゼは、勇気を出して話しかけた。「私、リーゼ・フォン・ハイムダルです」
人々が、驚いて振り返った。
「リーゼ先生……!」
「改良株ストレプトマイシンについて、誤解があるようなので——」とリーゼは説明し始めた。
「確かに、副作用はあります」「でも、頻度は非常に低く、適切に管理すれば問題ありません」
「でも、噂では——」と一人の男性が言った。「半分の患者が、副作用で苦しんでいるって……」
「それは、完全な嘘です」とリーゼははっきりと言った。「実際のデータを見せます」
彼女は、持ってきた書類を広げた。
「過去三ヶ月で、五百名の患者さんが治療を受けました」「そのうち、軽度の副作用が見られたのは八名」「全員、投薬中止後に回復しています」
「八名……?」と人々が、顔を見合わせた。
「半分どころか、一・六パーセントですよ」
リーゼは続けた。「しかも、改良株ストレプトマイシンのおかげで——」「結核の治癒率は、九十パーセント以上です」「つまり、五百名中、四百五十名以上が治癒しているんです」
人々の表情が、変わり始めた。
「そうだったのか……」「噂と、全然違うじゃないか」「誰が、そんな嘘を……」
◇
リーゼは、次の市場、次の広場へと回った。一つ一つ、丁寧に事実を説明していく。データを見せ、実際の症例を説明し、誤解を解いていく。
疲れたが——諦めるわけにはいかなかった。
夕方——リーゼが最後の広場で説明を終えた時——
「リーゼ」とアレクサンダー王子が、馬で駆けつけてきた。
「殿下……」
「お前、一人でこんなことを……」と王子は、リーゼの疲れた顔を見て心を痛めた。
「大丈夫です」とリーゼは微笑んだ。「これが、医師の仕事ですから」「誤解を解き、人々に正しい知識を伝える」「それも、私の使命です」
王子は——リーゼの強さと優しさに、改めて感動した。
「分かった」と彼は、馬から降りた。「なら、私も手伝う」
「殿下……?」
「二人でやれば、もっと多くの人に伝えられる」と王子は微笑んだ。「一緒に、戦おう」
リーゼの目に、涙が浮かんだ。
「はい……!」
◇
それから一週間——リーゼとアレクサンダーは、王都中を回って説明を続けた。
市場、広場、病院、学校——あらゆる場所で、事実を伝え続けた。
そして——徐々に、人々の理解が広がっていった。
「リーゼ先生の説明を聞いて、安心したよ」「データを見せてもらったら、全然安全じゃないか」「悪い噂を流した奴が許せないな」
民衆の信頼は、再び戻り始めた。
でも——リーゼは知っていた。この噂は、偶然ではない。誰かが、意図的に流したものだ。
◇
王宮——アレクサンダー王子は、近衛隊長に調査を命じた。
「噂の出所を、突き止めろ」
「はっ!」
数日後——調査結果が報告された。
「酒場で、数名の男たちが噂を流していました」と隊長が説明した。「彼らを尋問したところ——」「ある貴族から、金をもらって噂を流すよう依頼されたと」
「貴族の名前は?」と王子が尋ねた。
「それは……口を割りませんでした」と隊長は悔しそうに答えた。「ただ、『教会関係者』だとほのめかしていました」
「教会……」
王子は唇を噛んだ。
「やはり、彼らか」
◇
その夜——リーゼは、研究室で一人、考え込んでいた。
今回の噂——完全な嘘ではなく、事実を誇張したものだった。それが、巧妙だった。改良株ストレプトマイシンには、確かに副作用がある。それを利用して、恐怖を煽った。
(次は、もっと巧妙な攻撃が来るかもしれない)とリーゼは思った。
でも——
コンコン。ノックの音。
「はい?」
「私だ」とアレクサンダー王子が入ってきた。
「殿下……」
「疲れているだろう」と王子は、リーゼの隣に座った。「少し、休め」
「でも……」
「リーゼ」と王子は、リーゼの手を取った。「お前は、よくやった」
「一週間、休まず説明して回った。人々の信頼を、取り戻した」
「でも、まだ反対派は——」
「いる」と王子は頷いた。「でも、恐れることはない」
彼は、リーゼの目を見つめた。
「お前には、私がいる。そして、お前を信じる人々がいる」
「お前の医学は、本物だ。それは、誰にも否定できない」
リーゼは——王子の言葉に、勇気をもらった。
「はい……」と彼女は微笑んだ。「ありがとうございます、殿下」
「これからも、一緒に戦おう」と王子は、リーゼを抱きしめた。
「どんな困難も、共に乗り越えよう」
リーゼは、王子の温もりを感じた。
(そうね……私は一人じゃない)と彼女は思った。(だから、負けない)
◇
翌朝——リーゼは、いつもの時間に研究室に来た。
机の上には——各プロジェクトの進捗報告が並んでいた。
改良株ストレプトマイシン工場——生産順調。ペニシリン試験生産——成功。ワクチン研究——牛痘の培養に成功。
「良かった……」とリーゼは安堵した。噂騒動の間も、チームは着実に仕事を進めてくれていた。
「先生」とエルヴィンが入ってきた。
「おはようございます」
「おはよう、エルヴィン」
「先生、ペニシリンの量産体制が整いました」とエルヴィンは嬉しそうに報告した。「来月から、本格的な生産を開始できます」
「素晴らしいわ」とリーゼは微笑んだ。
「それから——」とエルヴィンは続けた。
「ワクチン研究チームから、良い報告が。牛痘の培養が安定し、試験的な接種実験を始めたいと」
「分かったわ」とリーゼは頷いた。「詳細を確認して、承認するわね」
◇
リーゼは——再び、日常に戻った。
研究、講義、工場視察、患者の診察——忙しいが、充実した日々。
噂騒動は、一時的に収まった。でも、リーゼは知っていた。これは、始まりに過ぎない。反対派は、また別の手段で攻撃してくるだろう。
でも——リーゼには、戦う力がある。医学という、揺るぎない真実。仲間たちという、確かな支え。そして、愛する人という、心の支柱。
(どんな困難も、乗り越えてみせる)とリーゼは決意した。
指輪を見つめながら——(私は、医師として、そして殿下の妃として——この国の未来を、守り抜く)




