第93話 完成と新たな戦い
◇
一年後——十七歳になった私は、ついに夢を実現した。改良株ストレプトマイシン製造工場が、完成したのだ。
王都郊外——三つの建物が整然と並んでいる。培養棟には大型の培養槽が並び、抽出棟には化学処理を行う設備、精製棟には最終的な純度を高める装置が設置されている。
「素晴らしい……」とリーゼは完成した工場を見上げた。彼女の夢がついに形になった。
「リーゼ先生」とエルヴィンが駆け寄ってきた。「最初の培養が、完了しました」
「本当!?」
リーゼは、培養棟に急いだ。
◇
培養棟——巨大な培養槽に、放線菌が育っていた。
「これは……」とリーゼは息を呑んだ。
培養液の量は百リットル——研究室の実験とは桁が違う。
「順調に増殖しています」とエルヴィンが報告した。「あと三日で、抽出工程に移れます」
その横では、ヨーゼフが培養槽の温度を確認している。手つきは迷いがなく、一年前の不安定さはもうどこにもない。
「培養槽A-3、温度25.2度、湿度61%——すべて正常です」
ヨーゼフが、てきぱきと報告する。
抽出棟では、マルティンが配管のバルブを調整していた。
「抽出装置、圧力安定。溶媒の流量も問題ありません」
精製棟では、アンナが精製装置の最終チェックを行っている。
「先生、精製装置も準備完了です。いつでも稼働できます」
リーゼは一年間共に歩んできた仲間たちを見つめた。
(みんな……本当に立派な技術者になったわ)
胸が熱くなり、安堵の気持ちが込み上げてくる。「良かった……」
「先生」
エリーゼが入ってきた。
「式典の準備ができました」
「式典……?」
「はい」とエリーゼは微笑んだ。「工場完成記念式典です。国王陛下も、ご臨席されます」
リーゼは驚いた。
「陛下が……?」
「ええ」とエリーゼは頷いた。「それだけ、この工場が重要だということよ」
◇
式典当日——
工場の前に、多くの人々が集まっていた。
国王ハインリヒ四世、アレクサンダー王子、貴族たち、医師たち——
「本日——」と国王が演台に立った。「歴史的な瞬間に立ち会えることを、光栄に思う」
会場が静まり返る。
「この工場は、結核という不治の病に希望をもたらすものだ」と国王は続けた。
拍手が起こった。
「そして、この工場を実現したのは——」と国王は、リーゼを見た。「リーゼ・フォン・ハイムダル。わずか十歳で医学の道を志し、今日この偉業を成し遂げた」
会場が、大きくどよめいた。
「リーゼ、前へ」
リーゼは、緊張しながら演台に上がった。
「皆様」と彼女は話し始めた。「この工場は、私一人の力では実現できませんでした」
会場が、静かに聞き入る。
「エルヴィン、エリーゼ、アカデミーの皆様——」とリーゼは続けた。「そして、アレクサンダー王子殿下、国王陛下——多くの方々の支援があって、ここまで来られました」
彼女は深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます」
会場が、温かい拍手に包まれた。
「そして——」とリーゼは顔を上げた。「今日から、この工場で作られる薬をすべての結核患者さんに届けます」
拍手が、さらに大きくなった。
「では——」と国王が立ち上がった。「工場の稼働を宣言する」
リーゼが水門レバーを引く。
ゴォォォ——
水車が回り始め、機械が動き出す音が響いた。培養槽が回転し、ポンプが動き、工場が生き物のように動き始めた。
「成功だ……!」
歓声が上がった。
◇
式典の後——リーゼは、アレクサンダー王子と二人きりになった。
「おめでとう、リーゼ」と王子は微笑んだ。
「ありがとうございます、殿下」
リーゼも笑顔で答えた。
「これで多くの人を救える。君の夢が、また一つ叶ったな」と王子は言った。
「はい」とリーゼは頷いた。
でも——
「殿下、私まだ不安なんです」とリーゼが真剣な表情で言った。
「不安?」
「教会の妨害——」とリーゼは続けた。「まだ、終わっていないと思うんです」
王子の表情が、険しくなった。
「そうだな……」と彼は頷いた。「警備は、厳重にしている。でも、完全に安全とは言えない」
「もし、工場が襲われたら——」とリーゼは恐怖を感じた。
「大丈夫だ」と王子は、リーゼの肩を抱いた。「私が、必ず守る」
リーゼは、王子の温もりに安心した。
「はい……」
◇
その頃——森の中の隠れ家。バルタザール神父と、黒服の男たちが集まっていた。
「ついに、工場が稼働したか……」とバルタザールは、報告を聞いて唇を噛んだ。
「はい」と男の一人が答えた。「式典には、国王陛下も出席されました」
「くそ……」とバルタザールは拳を握りしめた。
「どうなさいますか?」と別の男が尋ねた。
「最後の手段だ」とバルタザールは、冷たく微笑んだ。
「最後の手段……?」
「工場を——」とバルタザールは言い切った。「爆破する」
男たちが、息を呑んだ。
「爆破……ですか……」
「そうだ」とバルタザールは頷いた。「もはや、中途半端な妨害では意味がない。完全に破壊する」
「ですが——」と一人の男が躊躇った。「それは、あまりにも……」
「ギースリング猊下の名誉のためだ」とバルタザールは冷たく言い放った。「犠牲は、やむを得ん」
「分かりました……」
「今夜——」とバルタザールは計画を説明した。「警備が手薄になる深夜に襲撃する。爆薬を仕掛け、工場を灰にする」
「承知しました」
「それから——」とバルタザールは続けた。「リーゼ・フォン・ハイムダルも、始末する」
「彼女も……?」
「当然だ」とバルタザールは頷いた。「工場を再建されては意味がない。源を断つ——それが確実だ」
男たちは、顔を見合わせた。
「準備を始めろ」とバルタザールは命じた。「今夜、決着をつける」
◇
その夜——リーゼは、工場で最終チェックをしていた。
「明日から、本格的に生産が始まるのね……」と彼女は培養槽を見つめた。
「先生」とエルヴィンが声をかけた。「もう遅いですよ。今日は休みましょう」
「そうね……」とリーゼは頷いた。
二人が工場を出ようとした、その時——
ガシャン!
窓ガラスが割れる音がした。
「何!?」
リーゼが振り返ると、黒い服の男たちが窓から侵入してきた。
「逃げろ、エルヴィン!」とリーゼが叫んだ。
でも、男たちは素早く出口を塞いだ。
「リーゼ・フォン・ハイムダル……」と一人の男が、冷たい声で言った。「お前の命、ここで終わりだ」
「くっ……!」
リーゼはエルヴィンを庇うように立った。
男の一人が剣を抜き、「さらばだ……」と呟いて剣を振り上げた——
その瞬間——
ガキン!
金属音が響き、アレクサンダー王子が剣で刺客の攻撃を防いでいた。
「殿下……!」とリーゼが叫んだ。
「リーゼ、下がっていろ!」と王子が叫んだ。
彼の剣が閃光のように動き、刺客の剣を弾いて反撃の一撃を叩き込む。
「ぐあっ!」
刺客の一人が、倒れた。
「近衛隊!」と王子が叫ぶ。
すぐに——近衛兵たちが駆けつけてきた。
「全員、捕らえろ!」
刺客たちは、抵抗したが——訓練された近衛兵に、次々と取り押さえられた。
◇
戦いが終わった後——
「大丈夫か、リーゼ?」と王子がリーゼに駆け寄った。
「はい……」とリーゼは震えながら答えた。「怖かった……」
王子はリーゼを抱きしめ、優しく言った。「もう大丈夫だ。私がいる」
リーゼは、王子の胸で泣いた。
「ありがとうございます……殿下……」
「エルヴィンも無事か?」と王子が尋ねた。
「は、はい……」とエルヴィンは震えながら答えた。
「良かった……」
近衛隊長が報告に来た。
「殿下、刺客は全員捕らえました」
「尋問しろ。背後にいる者を吐かせろ」と王子が命じた。
「はっ!」
◇
翌朝——尋問の結果が、報告された。
「バルタザール神父——元ギースリング枢機卿の側近です。彼が一連の妨害工作を指揮していました」と隊長が説明した。
「バルタザール……」と王子は唇を噛んだ。
「現在、行方を追っていますが、森の隠れ家から逃走したようです」と隊長は続けた。
「引き続き、捜索を続けろ」と王子が命じた。
「はっ!」
「それから——」と隊長が別の報告をした。「工場に、爆薬が仕掛けられていました」
「爆薬!?」とリーゼが驚いた。
「はい」と隊長は頷いた。「精製棟の地下に、大量の火薬が——もし爆発していたら、工場全体が吹き飛んでいたでしょう」
リーゼは、背筋が凍った。
「処理は?」と王子が尋ねた。
「すでに除去しました」と隊長は答えた。「工場は、無事です」
「どうやって持ち込まれたのだ?」と王子が鋭く尋ねた。
「建設作業員に紛れ込んでいた者がいたようです」と隊長は苦々しく答えた。「教会の協力者——おそらく狂信者でしょう。資材搬入時に、火薬を少しずつ運び込んでいたと思われます」
王子の表情が険しくなった。
「今後は、作業員全員の身元確認を徹底させる。そして、定期的に施設内を巡回し、不審物がないか確認するように」
「はっ!」と隊長が敬礼した。
「良かった……」とリーゼは安堵した。
◇
数日後——バルタザール神父が、国境近くで捕らえられた。
王宮の牢獄——アレクサンダー王子は、バルタザールと対面した。
「バルタザール神父」と王子が冷たく言った。
「アレクサンダー王子……」とバルタザールは、檻の中から睨みつけた。
「なぜ、こんなことをした?」と王子が尋ねた。
「ギースリング猊下の名誉のためだ」とバルタザールは答えた。「あの小娘のせいで、猊下は投獄された。その復讐だ」
「復讐……」と王子は呆れた。「お前たちは、何も分かっていない」
「何だと……?」
「リーゼは、人を救おうとしているだけだ」と王子は言い切った。「それを妨害するお前たちこそ、悪だ」
「黙れ!」とバルタザールが叫んだ。「あの娘は、神の教えに背く異端だ!」
「神の教え?」と王子は冷たく笑った。「神が、人を救うことを禁じているとでも言うのか?」
バルタザールは、言葉に詰まった。
「お前の裁判は来週だ。その罪を償え」
そう言い残して、王子は牢獄を後にした。
◇
工場——最初の製造バッチが、完成した。
「これが……」とリーゼは、瓶に入った改良株ストレプトマイシンを手に取った。
透明な液体——でも、その中には無数の命を救う力が宿っている。
「先生」とエリーゼが報告した。「最初のバッチで、五十キログラム生産できました」
「五十キログラム……」とリーゼは感動した。「これで、約五百人の患者さんを治療できるわ……」
「配布の準備も整っています。王都の病院に順次届けます」とエルヴィンが言った。
「お願いね」
リーゼは、瓶を大切そうに抱きしめた。
(ついに……ついにここまで来た……)
彼女の目に、涙が浮かんだ。
◇
一週間後——王都の病院で、改良株ストレプトマイシンの投与が始まった。
結核患者たち——これまで死を待つだけだった人々。
「本当に……治るんですか……?」と患者の一人が、震える声で尋ねた。
「はい。必ず治ります」とリーゼは微笑んだ。
彼女は、患者に改良株ストレプトマイシンを注射した。
「これで、あなたの体が結核と戦います」とリーゼは説明した。
「二週間、治療を続けましょう」
「はい……先生……」
患者の目に、希望の光が宿った。
◇
二週間後——最初の患者たちが、次々と回復していった。
咳が止まり——呼吸が楽になり——血色が戻ってくる。
「先生……ありがとうございます……!」「本当に……本当にありがとうございます……!」
患者たちの感謝の言葉が——リーゼの心を、温かく満たした。
「いいえ」とリーゼは微笑んだ。「こちらこそ、信じてくださってありがとうございます」
◇
ある日——リーゼは、工場の屋上に立っていた。
眼下には——稼働する工場。行き交う人々。希望に満ちた光景。
「リーゼ」とアレクサンダー王子が、隣に立った。
「殿下……」
「感慨深いか?」と王子が尋ねた。
「はい」とリーゼは頷いた。「こんな日が来るなんて……夢のようです」
「夢じゃない」と王子は微笑んだ。「これは、君が作り上げた現実だ」
リーゼは、王子を見上げた。
「殿下がいてくださったから……」と彼女は言った。「私、ここまで来られました」
「私も、君がいたから——」と王子は、リーゼの手を取った。「前に進めた」
二人は、手を繋いだまま——景色を見つめた。
「リーゼ」と王子が静かに言った。
「はい」
「君は、まだ若い」と王子は続けた。「でも、いつか大人になったら——」
彼は、リーゼの目を見つめた。
「私の妃に、なってくれるか?」
リーゼの心臓が——大きく跳ねた。
「殿下……それは……」
「今、答えなくていい」と王子は優しく言った。「ゆっくり考えてくれ」
「でも——」とリーゼは涙を浮かべた。「私の答えは、決まっています」
「リーゼ……」
「はい」とリーゼは微笑んだ。「喜んで、殿下の妃になります」
王子は——驚きと喜びで、言葉を失った。
「本当に……?」
「はい」とリーゼは頷いた。「殿下と一緒なら、どんな困難も乗り越えられます」
王子は、リーゼを抱きしめた。
「ありがとう……リーゼ……」
二人は——長い間、抱き合っていた。
◇
夕日が——工場を、オレンジ色に染めていた。
煙突から立ち上る煙——それは、希望の証。
多くの命を救う——その使命を果たすために、工場は動き続ける。
リーゼは——この景色を、決して忘れないだろう。
苦難を乗り越え——夢を実現した、この瞬間を。
そして——愛する人と、未来を約束した、この日を。
◇
一ヶ月後——改良株ストレプトマイシンは、全国に配布された。
結核患者の治癒率——九十パーセント以上。
かつて不治の病だった結核が——治る病気になった。
人々は、リーゼを讃えた。
「結核を征服した少女医師」「奇跡の薬を作った天才」「希望の光」
でも、リーゼ自身は——ただ一人の医師として、患者と向き合い続けた。
◇
研究室——リーゼは、机の上に広げられた複数の研究計画書を見つめていた。
改良株ストレプトマイシン工場——稼働中。ペニシリン量産——エルヴィンのチームが順調に進行中。
でも、それで終わりではない。
「次は……ワクチンね」と彼女は呟いた。
天然痘、狂犬病——まだまだ、治せない病気がある。まだまだ、救えない命がある。
そして——机の端には、婚約発表の準備書類も置かれていた。
(私の戦いは、まだ続く)
リーゼは決意した。
主任研究員として——複数のプロジェクトを動かし、この世界の医学を前に進める。
そして——愛する人と共に、未来を築いていく。
彼女の物語は——まだまだ、続いていく。
◇
その頃——宮廷大臣エドゥアルトの執務室。
「バルタザール神父が捕らえられたそうですな」と貴族の一人が報告した。
「ふむ……」とエドゥアルトは、書類から目を上げた。「愚かな男だ」
「愚か……ですか?」
「暴力に訴えれば必ず証拠が残る。教会の過激派は、いつもそれが分からない」とエドゥアルトは冷たく言った。
「では、閣下は——」
「私は違う」とエドゥアルトは微笑んだ。「もっと優雅に、もっと合法的に——あの小娘を追い詰める」
貴族が固唾を呑んだ。
「婚約発表が近いと聞きました」とエドゥアルトは窓の外を見つめた。「辺境の弱小貴族が王妃になる——そんなことを、上級貴族たちが許すと思うか?」
「しかし、国王陛下が認められているのでは……」
「今はな」とエドゥアルトは答えた。「だが、貴族会議の圧力は——いずれ国王にも無視できなくなる」
彼は、グラスのワインを口に含んだ。
「焦る必要はない。じっくりと世論を形成していけばいい。『格下の弱小貴族を王妃にするなど、王国の恥』とな」
エドゥアルトの目には冷たい計算が宿っていた。
◇◇◇




